昭和天皇の手紙

昭和天皇の手紙

 昭和天皇のお誕生日の「昭和の日」ということで、半藤一利氏の『あの戦争と日本人』の(第11章・昭和天皇と日本人)に『昭和天皇の手紙』と題され、皇太子に書かれたお手紙

 この文は、ジャーナリストであり、今上天皇の御学友でもある橋本明氏が発掘された、当時11歳の皇太子(現天皇)にあてられた、昭和天皇のお手紙です。日付は昭和20年9月9日。昭和天皇が、アメリカ大使館にマッカーサー元帥を訪ねられたのが、9月27日ということです。
 全文を引用させて戴きます。
「手紙をありがとう しっかりした精神をもって 元気で居ることを聞いて喜んで居ます。
 国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど 先生とあまりにちがったことをいうことになるので ひかえで居ったことをゆるしてくれ 敗因について一言いわしでくれ
 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである
 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
 明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時は あたかも第一次世界大戦独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 進むを知って 退くことを知らなかったからです
 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
 穂積大夫は常識の高い人であるからわからない所あったらきいでくれ 寒くなるから 心体を大切に勉強なさい」
 これが全文ということです。

 香淳皇后から皇太子に宛てた手紙。 

(抜粋)

おもうさま(:昭和天皇) 日々 大そう ご心配遊しましたが 残念なことでしたが これで 日本は 永遠に救われたのです
東宮さん(:皇太子)も どんなにか ご残念なことかと思いますが ここが辛抱のしどころで まちがいのないように しのぶべからざることを よくしのんで なお一層 一生懸命に勉強をし 体を丈夫にして わざわいを福にかえて りっぱな国家をつくりあげなければなりません
こちらは毎日 B29や艦上爆撃機 戦闘機などが縦横むじんに 大きな音をたてて 朝から飛びまわっています B29は残念ながらりっぱです


第237回 昭和天皇「退位」をめぐる動き(2015・12・8記)
【1】東京裁判の流れ
【2】天皇の「退位」を求める内外の動き
【3】1度ならず“退位”を決意
  ①1回目は敗戦直後 ②2回目は東京裁判判決前 ③3回目は講和条約調印時
【4】「退位せず」の裏にマッカーサー書簡
【5】 国会で、吉田首相「退位望むのは非国民」
【6】むすび
 戦後70年も終わりが近くなり、真珠湾攻撃(1941・12・8)から始まった太平洋戦争の戦争責任と内外で巻き起こった。マッカーサーは早い段階(1946・1・25)で天皇免責が占領政策に得策と判断し、米本国の了解を得て、退位の道を封じていた。
 【1】東京裁判の流れ
 ポツダム宣言受諾によって無条件降伏をした日本は、GHQの占領下で戦争犯罪人の裁判、東京裁判極東国際軍事裁判)を受け入れざるを得なかった。昭和天皇の退位をめぐる動きは、この裁判の流れと連動している。
▼1946(昭和21)年5月3日、開廷(ウエッブ裁判長) その後およそ2年半、審理
▼1948(昭和23)年4月16日、結審し、休廷
▼1948(昭和23)年11月4日から判決文の朗読開始
▼1948(昭和23)年11月12日
 A級戦争犯罪人として25被告に有罪判決。この日で裁判終了
▼1948(昭和23)年12月23日
 絞首刑の宣告を受けた東条英機以下7人の刑が巣鴨プリズンで執行される
▼1948(昭和23)年12月24日
 東条内閣の商工大臣でA級戦争犯罪人として収監中の岸信介ら19人が釈放される
 
 こうした東京裁判の流れの中で、天皇の戦争責任を問う世論は内外ともに非常に厳しいものがあった。一方、日本国内では「在位」を望む声も高かったが・・・。
【2】天皇の「退位」を求める内外の動き
 児島襄著『天皇と戦争責任』によると、米国の世論調査社「ギャラップ」は、1945(昭和20)年6月初め、ひそかに天皇に関する世論調査を試みた。テーマは「戦争の後、日本の天皇をどう処置すべきか」というもので、設問に対する回答は次の通りだった。

▲殺せ。拷問し餓死させよ 36%

▲処罰または流刑にせよ 24%

▲裁判にかけ有罪なら処罰せよ 10%

戦争犯罪人として扱え 7%

▲なにもするな 4%

▲傀儡として利用せよ 3%

▲その他 4%

▲わからない 12%
 これをみると、米国民の77%が天皇の処罰を要求している。この「ギャラップ」調査の結果は米国政府には報告されたが、一般には公表されなかった。
 米上院本会議は世論を反映して、1945年9月18日、「日本国天皇ヒロヒト戦争犯罪人として裁判に付すること」を決議している。
 日本国内では、東京裁判の始まる2ヵ月前、読売報知新聞(1946=昭和21=年2月27日付け)が「宮内省の某高官」の話として、天皇には退位の意思があり、皇族はあげて賛成していると伝えた。
 また、東京裁判が始まってまもなく、「週刊朝日」(1946年5月16日号)で、戦後初代の最高裁長官三淵忠彦憲法学者佐々木惣一、ジャーナリスト長谷川如是閑と鼎談し、三淵は3人を代弁して次のように話している。
「僕らはネ、終戦当時陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかったか、ということを非常に遺憾に思う」
 これらの発言が天皇退位報道となって世界を駆け巡った。
 さらに、東京裁判の判決2ヵ月半前、のちに3代目の最高裁長官を務めた東大教授横田喜三郎は、読売新聞(1948=昭和23=年8月26日付け)に「天皇退位論」を寄稿。
「過去の最高の責任者がその責任を取ろうとせず、国民もまた責任をとらせようとせず、たがいにあいまいのうちに葬り去るならば、どうして真の民主国家が建設されようか」
 ちょっと逸れるがこんな話もある。終戦の年の年末、宮内省嘱託カメラマンが撮影した昭和天皇ご一家の未公開写真を含む写真展(東京・千代田区のJCIIフォトサロン12・1〜12・24まで)が開催された。
 会場には昭和天皇ご一家の写真を特集した米誌「LIFE](1946・2・4)が展示してあったのだが、こんなコメントが付いていたのに驚いた。
「本文には宮内省が『LIFE』に対して12月の第4日曜日に撮影許可を出していたが、皇室が暗殺を恐れて米国人の撮影を拒否し、代わりに日本の<SUN NEWS AGENCY>のカメラマン4名で撮影した」と日本語訳で紹介されていた。天皇断罪の世論を気にしての措置だったのだろう。
 その一方、横田発言の少し前、「天皇の退位をどう思うか」という読売新聞(1948=昭和23=年8月15日)の世論調査では、68・5%が在位を望み、18・4%が譲位を求めていた。
 在位を多数の人が望んだ背景には、「人間宣言」の後、GHQの考えを受け入れて各地に巡幸し、回数が増えるにつれて群衆が押し寄せ万歳をするまでに至ったことがあげられよう。
 朝日新聞(1948=昭和23=年9月11日)もUP通信特派員(副社長)の談話として「総司令部最高幹部筋が天皇に『退位の理由なし』と述べた」と伝えている。
【3】1度ならず“退位”を決意か
 こうした内外の世論の中で、昭和天皇自身はどう考えていたのだろうか。戦後70年の間に明らかになった各種の資料を総合してみると、少なくとも3回「退位」の問題がクローズアップされている。
 それは敗戦直後と東京裁判の前後、それにサンフランシスコ講和条約が調印され、日本が独立する時点だ。昭和天皇はその都度揺れ動き、側近に1度ならず「退位」の意思を示した様子が窺える。
①1回目は敗戦直後
 『木戸幸一日記』の1945(昭和20)年8月29日の項に、天皇内大臣木戸幸一に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引き受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」と尋ねている。このとき木戸は退位に反対した。
 また、侍従次長木下道雄は『側近日記』の1946(昭和21)年3月6日の項に、天皇の言葉を書き留めている。
「退位したほうが自分は楽になるであろう。今のような苦境を味あわぬですむであろうが、(弟)の秩父宮は病気であり、高松宮は開戦論者でかつ当時軍の中枢部に居た関係上摂政には不向き。三笠宮は若くて経験に乏しい」
②2回目は東京裁判判決前 
 戦後5代目の内閣総理大臣芦田均は『芦田日記』第3巻で、「お上はその機会(筆者注=判決前)にお気持ちをハッキリ公表したいとお考えになっていらっしゃった」と記述している。
 また、皇室記者だった高橋紘は、その著『陛下、お尋ね申し上げます』(文春文庫)の中で、天皇側近は判決に合わせて天皇に何らかの声明を出させるため文案を作ってみたが、なかなか書けなかったところ、天皇が「出さないで困るのは私だ」と述べ、苛立っていた様子を紹介している。
③3回目は講和条約調印前
 1951(昭和26)年10月17日、巣鴨プリズンに服役中の木戸幸一宮内庁式部官長松平康昌を通じて天皇に退位を進言。天皇が松平康昌に託した返書を受け取った木戸は「御退位の御希望は陛下御自身にもあり、また田島長官も松平君も同じ意見なるが、只吉田首相は至ってこの問題については無関心なる様子なので苦慮しておる」(『木戸幸一日記』(1951・11・28)と記している。
 これについては、高橋紘著『陛下、お尋ね申し上げます』の1987(昭和62)年4月21日の記者会見の項で、昭和天皇自身が「記憶にない」とあっさり答えている。
 記者クラブ代表の記者の質問は「最近、『木戸日記』で、サンフランシスコ講和時に、陛下が戦争責任を取り退位される意向だったこと、吉田首相は退位に消極的だったことが報道されました」と言った後、「当時のお気持ちをお聞かせください。陛下の退位に関するお考えが変わられたのは、いつ頃でしょうか」とたたみかけている。
 これに対して、天皇は「・・・その当時木戸から退位に関する考え方を聞いた記憶はありません。また、吉田総理や田島長官に正式に退位問題を話したことはありませんから、したがって、えー、退位の考えを変えたとかいうことはありません」と交わしている。
【4】「退位せず」の裏にマッカーサー書簡
 東京裁判の結果、昭和天皇は訴追を免れた。『昭和天皇実録』(宮内庁監修)によると、その結果について、昭和天皇は判決の翌日、田島道治宮内府長官と三谷隆信侍従長から報告を受けている。
 しかし、判決のあった11月12日付けで、既に天皇からマッカーサー元帥宛ての親書が寺崎英成(宮内府御用掛)を通じてW・G・シーボルト(駐日政治顧問部)に手渡されていたことが分かった。
 これは「退位すべきでない」というマッカーサーの書簡が天皇側近に伝えられたのに対して、天皇が「退位せず」と返書を送っていたことを意味している。
 この親書は歴史学者秦郁彦が調べて判明したものだが、その著『裕仁天皇退位せず』(初出「文藝春秋」昭和53年10月号)にその全文(英文)が記載されているので、引用させてもらう。
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 連合国最高司令官 陸軍元帥
  ダグラス・マッカーサー閣下
謹啓 天皇陛下のご下命により、本官は閣下に対し、天皇陛下からの次のようなメッセージをお伝えする光栄を有します。
「わたくしは閣下が過日吉田首相をつうじてわたくしに伝えられたご懇篤かつご厚情あふれるメッセージに厚く感謝の意を表します。わたくしの国民の福祉と安寧を図り、世界平和のために尽くすことはわたくしの終生の願いとするところであります。
 いまやわたくしは、一層の決意を持って、万難を排し日本の国家再建を速やかならしめるため、国民と力を合わせ最善を尽くす所存であります」
 この機会に、本官はあらためて閣下に対し、心からの敬意を表するものであります。
   東京 1948年11月12日
                       宮内府長官 田島直治 署名
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 吉田首相を通じて伝えられたメッセージとは何か。『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』のうち、「寺崎英成・御用掛日記」の最後に[注]として、昭和史研究家半藤一利が解説を加えている。
 それによると、東京裁判の判決を控えた11月1日、読売新聞がトップ記事で天皇の退位が確実であるかのような記事を載せた。それを見たシーボルトは直ちに寺崎に会って真意を質している。
 このとき、シーボルトは「退位は政治的な破滅となるだろう。退位すべきではない。これこそ、ワシントンの立場でもあると思う。そしてさらに、最高司令官もこれと同様な意見だと信じて差し支えない」といった。そして「もしもお望みなら、この意見を天皇および側近に伝えても差し支えない」と付け加えた、という。
 これが吉田首相を通じて天皇の耳に入り、「退位せず」の決断につながったとみられている。東京裁判判決10日前のことだった。
 これについては、高橋紘著『陛下、お尋ね申し上げます』の1978(昭和53)年12月4日の記者会見の項で、昭和天皇と記者との次のようなやり取りが紹介されている。
 代表質問した記者は「今年(1978=昭和53年=)の夏、マッカーサー記念館で、昭和23年に陛下が田島長官を通じ、『退位せず』というご決意を表明された書簡が公表されました。これはマッカーサー元帥が、陛下に退位されないようお勧めしたことへの返書とされておりますが、当時のご心境を」と聞いている。
 これに対して、昭和天皇は「・・・今話されたような、田島長官が先方の希望によってそういうことを返事したということは記憶にありますが、司令官と会話したことについては、秘密を守るということを約束しましたから、信義の上、この問題については、話すことは出来ないと思っています」と答えた。
【5】国会で、吉田首相「退位望むのは非国民」
 国会でも天皇の退位問題が論議されている。舞台は日本の独立を前にした1952(昭和27)年1月31日の衆議院予算委員会。そのときの議事録には後に首相になった中曽根康弘委員が当時の吉田首相に質問したのに対して、吉田首相は「御退位望むのは非国民」と一刀両断で切り捨てている。
○中曽根委員
「・・・天皇が自ら御退位あそばされることは、遺家族その他の戦争犠牲者たちに多大の感銘を与え、天皇制の道徳的基礎を確立し、天皇制を若返らせるとともに、確固不抜のものに護持するゆえんのものであると説く者もありますが、政府の見解は・・・」
○吉田(茂)国務大臣
「・・・陛下が御退位というようなことがあれば、これは国の安定を害することであります。これを希望するがごとき者は、私は非国民と思うのであります。」
【6】むすび
 冒頭紹介した徳川元侍従長の「退位されなくて本当によかった」という言葉は、私が終戦前夜の模様を晩年の徳川元侍従長に取材していたとき聞いたのだが、50年にわたって昭和天皇の側で仕えた人の言葉として実感がこもっていた。
 『徳川義寛終戦日記』(朝日新聞社)の巻末に付記された「天皇退位論の推移」に書いてあるように、徳川元侍従長の真意は「天皇は政治上、法律上の責任は持たない。無答責である」と言いたかったのだろう。
 さらに「1968(昭和43)年4月24日に稲田(周一)侍従長が承わった要旨」を公にし、退位問題について、昭和天皇は「天皇記紀に書かれた神勅を履行しなければならないから退位はできない」という明治天皇の考えを継承したことを強調するように示している。
 宮内府の側近の間にも退位派と在位派があった。その対立が巡幸をめぐって表面化した。昭和天皇の巡幸は1946年2月から1954年8月まで8年半、総日数165日、全行程3万3000キロ㍍行われたが、途中1948(昭和23)年に突如途絶えた。それは巡幸を天皇制維持の戦略と警戒するGHQ内の反対派など内外の反対勢力があったためだ。
 行幸を中断するのに、時の芦田首相は側近の人事更迭を行なった。宮内府長官が「退位に反対」の松平慶民から田島道治に、侍従長が大金益次郎から三谷隆信に更迭された。
 『徳川義寛終戦日記』の巻末には「芦田と田島は退位論者であると解った」「平和条約発効前に退位問題がうわさされたとき、吉田首相が反対して田島らの退位論を斥けた」「三谷も田島も基督教信者である。しかし、三谷は基督教の立場から、困苦に堪える意味において退位しない方が良いと言った」と書いている。
 21世紀に入って、『文藝春秋』(2003・7)に宮内府長官だった田島道治の関係資料から偶然見つかったという「昭和天皇 国民への謝罪詔書草稿」が載り、ちょっとしたセンセーションを巻き起こした。真偽は不明で、東京大学教授の小森陽一は著書『天皇玉音放送』で、退位に触れていないことからいずれにしても「留位宣言」だと見ている。
 『象徴天皇制への道』(岩波書店)の著者で畏友中村政則一橋大学名誉教授(日本近現代史)が2015年8月4日、79歳で逝った。
 彼は『戦後史と象徴天皇』(岩波書店)の中で、「昭和天皇が退位の機会を逸したことは、1989年1月の天皇の死まで日本皇室の重荷となっていく。換言すれば、戦後天皇制は、いわば戦争責任という傷を負った象徴天皇制として、世界とくにアジア諸国から不信の目で見られ続けねばならなかった」と指摘する。
 また、朝日新聞の取材に「天皇の戦争責任は、イデオロギーの問題というより事実の問題なのです。なのに、ジャーナリズムは依然として及び腰にみえる」(朝日新聞2006・7・13)