2011-01-01から1年間の記事一覧
蘆溝橋事件について独白録で次のように述べています。日支関係は正に一触即発の状況であつたから私は何とかして、蒋介石と妥協しょうと思ひ杉山〔元〕陸軍大臣と開院宮〔載仁〕参謀総長とを呼んだ。 丁度この頃北満の国境に乾岔子島事件が起ってゐたので、世…
明治23年、山県有朋は開会されたばかりの弟一議会で朝鮮こそわが国の「利益線」と強調して、それを「保護」するために陸海軍の軍事費にたいする議会の協賛を求めた施政方針演説を行います。早い話が対清戦争計画を議会の協力を求めたものにほかならないので…
沖縄を占領されたあとも,政府が降状を受け入れなかった理由は非常に分かりやすいです。 ポツダム宣言では、連合国は日本人を民族として奴隷化したり、国家として破壊する意志はないことをうたっている。そして、言論、宗教、思想の自由を、人間の基本人権と…
日本が結んだ通商条約がなぜ「不平等条約」なのか一般的には外国側に領事裁判権や最恵国待遇がみとめられ、また日本には関税自主権がないなどと不平等な規定を含んでいたからです。しかし、治外法権というのは外国人が好き勝手にできるのではなく、外国政府…
開戦時はたしかに日本軍が攻勢だったようですが、負けだしてからも国民には勝ち続けていると報道されていたと聞きます。負けだしてからの戦況について、当時の天皇は事実を知っていたのでしょうか?天皇さえも騙されていたのでしょうか? 軍令部作戦課長をつ…
戦後、東条も天皇について東京裁判で次のようなことを証言しています。 日本の臣民が陛下の御意思に反してかれこれするということはありえぬことである。首相就任の直前、武藤軍務局長や石井軍務課高級課医員らがどんなことがあっても仏印撤兵問題は譲るべき…
開戦時はたしかに日本軍が攻勢だったようですが、負けだしてからも国民には勝ち続けていると報道されていたと聞きます。負けだしてからの戦況について、当時の天皇は事実を知っていたのでしょうか?天皇さえも騙されていたのでしょうか? 敗戦後になって木戸…
第2次世界大戦の終わりに、追い詰められた軍部・政府が降状を受け入れなかった理由は非常に分かりやすく簡単なことです。十 われらは、日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようと する意図を有するものではないが、われらの俘虜を虐…
ゴムは飛行機や自動車などの生産に必ず必要なもので、日本とドイツのゴムのストックは枯渇に直面していました。英独開戦以来、マレーから日本に輸入されていた量は極めて少量であったので、昭和15年以降は、日本国内のストックは日に日に減少一途を辿ってい…
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ) 一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ 二、合衆国、英帝国…
そもそも、黙殺とは、黙って知らん顔をしているというのが常識。それを黙殺と口にし、活字にしてしまえば、もうこれは先方に、無視(IGNORM)、拒絶(REJECT)と、とられても仕方がない。黙殺という語がどう英訳されようと、首相の発言はその用語と文脈から…
沖縄県民の犠牲の責任は、現地の牛島、太田司令官にあるのでしょうか。それとも、大本営の責任なのでしょうか。 細川護貞著『情報天皇に達せず』の1944年12月16日条に次の記述が見られる。 「昨十五日高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島…
ポツダム宣言を黙殺しなければ、原爆投下やシ連参戦は無かったか? 東郷外相は、27日朝参内拝謁してこの宣言について詳細に御明申し上げ、日本としては、これはしばらくこのままにして意思表示せずソ連の態度を見極めたうえ措置することが適当と思考する旨言…
鈴木貫太郎が、ポツダム宣言を黙殺しなければ、広島、長崎への原爆投下は無かったという人もいますが、いかがでしょうか。 「ポ宣言はカイロ宣言の焼き直しだと思う。…..ただ黙殺するだけである。われわれは断固として戦争完遂に邁進するのみである」と声明…
たとえばミッチェル女史の「風と共に去りぬ」では、アメリカの南北戦争のころに解放された奴隷たちが近代社会の人々なら当然に人間に対する冒涜と感ずるはずのものを、主人の温情をかえって頼りにするような物語が展開されています。これは、多かれ少なかれ…
歴史とは 真面目な疑問があります。 人を殺すことは駄目な事です。最低の事だと思います。 けれど、昔の英雄とか崇められてる人たちや歴史の授業に出てくる人達は 人をバンバン殺してますよね。 なぜ今でも崇められたり、偉人として教科書に載っているのでし…
「明治維新後権威を振ったものは、新聞界でも実業界でも政治界でも、皆「「田舎漢」だと、そのころ徳富蘇峰が「国民の友」の論文でも書いていたが、時代ののさばり出るその「田舎漢」を軽蔑して、引込思案になる風が、変革期の没落市民の子には間々あった。…
薩摩は長州と結んで、慶喜とは並び立つことができない敵手として、新しい国家を建設するその指導権を争うとしていたのである。慶喜が在京十万石以上の諸藩の重臣を二条城に招いて大政奉還の決意を表明します。大政奉還の一挙によって名声を高めた慶喜がロッ…
>日本史の中で一番の大嘘はなんでしょうか?江戸時代は、徳川家康の実力で作り上げ、その実力を持った権威によって、支えられていました。明治の時代になると、維新革命を行ったものらは、ほとんどは下級藩士や貧乏公家の若者であったので、権威もなく実力も…
アメリカとは自然に身に着いたプラグマティズムを実行する国です。そのときそのときの現実に沿って対処することを得意とする国で、少数意見があればそれを否定しないで認め合う社会です。 彼らはすでに天皇の権威は国民の批判を遠慮させるところまで復活され…
>昭和天皇は自らの意思を政治に反映させることなどできないのであるから、戦争責任などないに決まってるではないか? 昭和天皇は自らの意思を政治に反映させていたのです。「天皇は自分の意に反しても、政府の決定には裁可せざるをえない」というのは、戦後…
明治38年奉天での大勝利のあと、総参謀長の児玉源太郎はひそかに帰国して、政府大官たちにこれ以上戦う力はないから早く講和しなければならないと説いてまわったといいます。 彼には日本の国力の貧弱さが、よくわかっていたので、これ以上戦えば、じり貧とな…
江戸時代三百年を通じて、産業経済はたえず発展をつづけています。江戸時代の後半の農地面積は二倍ちかく増え、米の生産高もほぼそれに比例し、人口も倍増しています。江戸後期になれば寺子屋や藩校が急増しはじめ、蘭学、医学、条理学、国学、絵画と多分野…
明治憲法ができた後の日本の国家機構は、憲法上の国家機関と既成事実として憲法上の規定を持たない国家機関が存在して、二元的に構成されています。その両者の上に立つのが天皇です。憲法上の国家機関としては、内閣、帝国議会、裁判所、枢密院、帝国議会の…
本当に「天皇陛下万歳を、叫んで天皇陛下の御為と散って逝った」のでしょうか? ただ一片の赤紙を信じ切って、多くの方々は天皇ために戦場に行かれたのでしょうか?ただただ親を、兄弟を、同胞を思う心があったからではないかと思うがね!
それはそうです。陛下が、なぜ日米開戦論者の東条をご採用になったかといえば、呉軍港にいた第六艦隊の一部には、マーシャル群島をへて真珠湾へ出動する命令が発せられていたからです。陛下はこれを承知しており、東条内閣の出現をもって開戦へふみ切ったこ…
天皇は「政治的案件で配下のものから要求されたことを拒否したこと」がなかったからといっても、天皇は自分の意に反しても、政府の決定には裁可せざるをえないというのは、まったくのデタラメである。正式の裁可奏請の前にその案件について「内奏」が行われ…
明治23年、山県有朋は開会されたばかりの弟一議会で朝鮮こそわが国の「利益線」と強調して、それを「保護」するために陸海軍の軍事費にたいする議会の協賛を求めた施政方針演説を行います。早い話が対清戦争計画を議会の協力を求めたものにほかならないので…
- 維新を達成したものは、だいたいが田舎漢であったのです。これらの人々は外国条約などの事は少しも分からない人達で、もとりより外国条約などことは、研究したこともなければ、意見もなかった。だから条約改正の草稿などを示されても、元勲はこれを持ち帰…
おかしな国だ。戦争責任者のヘッドである天皇が処刑されなかったのはおかしい。この戦争がなかったら戦死したおじさんに会えたのに。昭和天皇は何をやっていたんだとこの時期になるといつも思う。あんな大きな墓作る必要はなかったのに昭和天皇がなくなった…