日清戦争は自衛戦争ですか?侵略戦争ですか?

明治23年山県有朋は開会されたばかりの弟一議会で朝鮮こそわが国の「利益線」と強調して、それを「保護」するために陸海軍の軍事費にたいする議会の協賛を求めた施政方針演説を行います。早い話が対清戦争計画を議会の協力を求めたものにほかならないのです。
明治27年2月、朝鮮のコブ郡の郡守の横暴から農民の氾濫が発生し、出動した政府軍と戦闘を戦いぬき、5月31日には全羅道全域に派生します。恐れをなした政府は清国に軍隊の出兵を要請したことを日本が知ることになり、即刻議会を解散して6月2日の閣議で出兵を決定します。明治15年と17年の京城事変の失敗を挽回するために、清国の軍隊に負けんように混成旅団(7,8千)を出兵することに決議します。(清兵は五千と称していましたので)作戦は「機先を制する」ために首都京城を手に入れ、そこで清兵は必ず京城に攻撃を仕掛けてくるであろうから、これを叩き、さらに清兵が出てきたら、平壌辺りで一戦に勝てば、和を講じ、朝鮮を日本の勢力下におこう、というものです。清国にたいする宣戦の9日前の明治27年7月23日、日清戦争にそなえて朝鮮に出兵していた日本軍は、突如として、朝鮮王宮を攻撃したのです。日本軍は王宮守備の朝鮮兵と戦闘を交え、朝鮮兵を一兵残らず城外に追い出し、武器を全部奪い、城壁に軍旗をたて、王宮を完全に占領、国王を虜にした。こうして軍事的脅迫のもと日清戦争での日本への協力を強要させたのです。こうして日本は、日清戦争は、?朝鮮国王の要請を受けて清国兵を朝鮮から駆逐するための戦争という「大義名分」をえたのです。
日清戦争は朝鮮における清国の勢力を駆使し、ここを日本の勢力下におくための戦争です。このとき日本は産業の確立もできていなかったので、資本を輸出する余裕もほとんどなかったし、日清戦争で奪った台湾の経営にも資金が欠乏し、その領有を経済的には重荷とさせ感じていたのです。だから市場を求めて戦争を行ったのではないです。そして勝利した日本は清国の勢力を朝鮮から完全に追い出すことができました。ところがそのとたんに、清国よりもはるかに強力なロシア帝国と対決せねばならなかったのです。

参考として
6月2日、朝鮮への出兵の閣議決定が行なわれた日の夜、外務大臣官邸で、陸奥宗光外相、林董外務次官、川上操六参謀次長の三人が、朝鮮出兵の具体的下相談を行なったとき、林董は後に、「このときは如何にして平和に事をまとめるべきかと云うのを議するに非ずして、如何にして戦いを興し如何にして勝つべきかを相談したるなり」と述べています。

侵略的戦争とは、紛争が発生した場合に、これを平和的解決手続に付託するのを拒絶すること、その決定(判決や勧告)に服従するのを拒絶すること、戦争のまたは兵力的衝突の起ろうとする場合にその予防的措置を受諾しないこと、戦争の起った場合に休戦の提議に応じないことなどである。他の一つの点として、自ら進んで積極的に軍事行動を開始することが挙げられる。他の国家に対して戦争を宣言し、敵対行為を開始すること、戦争を宣言しなくても他の国家の領土を攻撃し、これに侵入し、占領すること、他の国家の兵力に攻撃を加えることなどである。これらの行為はいずれも一般に侵略的行為と認められ、それによって戦争が生じるとき、その戦争は侵略的戦争と認められている。そうしてみれば、領土の拡大、資源の獲得、勢力の増大のために行う戦争は当然に侵略的戦争の中に入る。