超然内閣

憲法ができ、帝国議会が行われると、薩長政府は、超然内閣を宣言して、天皇の任命の元に内閣を作ります。これはあくまでも、名目であって、実際は元老の推薦により、決められますが、常に内閣は議会と対立していた。ところが、明治27年2月、朝鮮のコブ郡の郡守の横暴から農民の氾濫が発生し、出動した政府軍と戦闘を戦いぬき、5月31日には全羅道全域に派生します。恐れをなした政府は清国に軍隊の出兵を要請したことを日本が知ることになり、1894年(明治27年)5月15日第6回帝国議会が行われた最中に即刻議会を解散して6月2日の閣議で出兵を決定します。
日清戦争がはじまることで、それまで藩閥政府に反発していた民党の態度は百八十度変わります。伊藤博文板垣退助を1896年に内務大臣として入閣させ、衆議院の第一党である自由党と提携して連立内閣を成立させた。伊藤博文内閣は、軍備の拡張を図るために地租の増徴を行おうとした。これに自由党と進歩党が猛反対し、両党は合同して憲政党を樹立する。これが日本初めての政党内閣である大隈重信内閣が成立する。しかし、憲政党内部で対立が起こって、この政党内閣はわずか4ヶ月で退陣する。