南部仏印

>①なぜ日本は絶対に勝てない相手に戦いを挑んだのですか?それとも勝算があったということですか?

ドイツによりフランス本国は潰れてしまいます。そこで仏印は潰れたフランスの植民地だから、これを誰が拾うかわからない。 先ず、第一に資格のあるのはドイツです。フランスのビシー政府を自分のかいらい政府にしているからです。ドイツは今のところ欧州の戦争で手が伸びないが、将来これを取るかもしれない。また、フランスにはイギリスの庇護下にドゴールという政権がある。このドゴール政権が英米仏印管理を依頼したとして、米国が引き受けたということにでもなれば、支那事変はいよいよ永久に解決しない。だから誰が拾うかわからないものなら、一歩を先んじて進駐したのです。当時ドイツが勝つと思っていたんです。だから欧州でイギリス、オランダ、フランスは東南アジアの植民地を顧みる暇はないことをいいこととして天皇曰く「火事場泥棒」を承認したのです。これらの植民地は戦争を継続するために必要なゴム、石油などの重要な資源の産地です。そして南部仏印に侵攻して、これを根拠地として英米と戦争が突入しても、数日でマレー、ジャバの一角に上陸し、これらを攻略する積りであったのです。アメリカは南部仏印を占領するならば重大結果を招くであろうと警告を日本に対して与えていたのです。ところが天皇も東条に説得され「火事場泥棒」を承認してしまったのです。日本の日米開戦のシナリオはすべてドイツがイギリスを下せばアメリカも日本に妥協するという、非常に日本に都合のよい前提で立てられていたのです。

6月3日の独ソ戦の勃発を受けるかたちで7月2日に御前会議が行われた。ここで決められた国策は、南進か北進かに集中され、日本が南部仏印(フランス領インドシナ・現ラオスカンボジア付近)に手を出せばアメリカは参戦するかが主要問題となった。統帥部参謀総長杉山元は『ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う』と報告し、最後には南部仏印の進駐を了承される。
当時の外務次官大橋忠一氏は、この決定に対して非常に憂慮します。なぜなら、この決定は当然日本と英米との問に好むと好まぎるにおいて、戦争を捲き起す結果を生ずるからです。
大本営は外務省に対して.進駄に関して仏印当局との交渉の開始を要求します。当時松岡氏は病気引き籠り中であったので、交渉に当ったのは大橋次官です。交渉に先だし大橋氏は大本営当局に対し「南部仏時に進駐することは、米英に対し開戦を覚悟せねばならぬ。その覚悟と準備があるのか」と反問します。大本営当局はこれに対し「独逸と死闘を繰り返しつつある英国は決して進駐に対し挑戦はせぬ。進駐の結果は恐らくシンガポールの防御強化位が関の山である。又アメリカは英国やオランダのため火中の栗は拾わぬであろう」楽観的な態度であった。
つまり、大日本となるためにはバスに乗らねばならぬ、バスに乗るためにはアメリカと一戦を辞せぬという覚悟が必要だ。問題は、独伊が最後に勝つから英米と敵対しても勝馬に賭けた方が得であり、このチャンスを逃すと日本は膨張の機会を失うからです。
11月15日、戦争になった場合の見通しについて大本営政府連絡会議は討議を重ねます。結論として、アメリカを全面的に屈服させることは、さすがの無敵の陸海軍もできないということになる。ではどうやったら戦争を終結できるのか。
一、初期作戦が成功し、自給の途を確保し、長期戦に耐えることができた時
二、敏速積極的な行動で重慶蒋介石が屈服した時
三、独ソ戦がドイツの勝利で終わった時
四、ドイツのイギリス上陸が成功し,イギリスが和を請うた時
とにかくドイツが勝つことをあてにしているんです。ドイツがソ連を叩きつぶし、イギリスが降参したら、さすがのアメリカも戦意を失うだろう、したがって講和に持ち込むチャンスが出てくる。だからそれまではつらいだろうが長期戦になろうと頑張ろうじゃないかということです。


>②もし日本が合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)を受け入れて開戦を回避する選択をしていたら今の日本はどうなっていますか?
11月5日、帝国陸海軍は天皇の裁可を受けて対米戦の作戦命令を発令し、ハワイ真珠湾を奇襲する機動部隊が択捉島単冠湾の基地に集結を開始する。この時以来、作戦準備を推進する上での時間稼ぎとしての意味しか持たなくなっていた。真珠湾奇襲の機動部隊は11月26日の朝、則ちハル・ノート受諾の2日前に択捉島を出発している。

>③日本は1945年8月14日にポツダム宣言の受諾を決定しましたが、なぜこのタイミングだったのでしょう?また、そのタイミングは適切でしたか?

8月14日早朝、米国磯は大量のパンフレットを東京に投下します。これには今までの経過が印刷されていて、日本国民は、政府が隠していたことを知ったのである。ポツダム宣言が外務省で短波受信された翌28日、戦争推進に都合の悪いものは削除されたり、改竄して各新聞紙上に発表されていた。
8月14日早朝のことを木戸は、次のように述べています。
「私の補佐官がパンフレットの一枚を拾ったと言って私のところに持って来た時、私は起こされたばかりで、朝食を済ましていなかった。このパンフレットは東京一帯にばらまかれ、その一部は宮城の中の庭にも落ちた。情勢は重大であった。軍人は降伏計画について何も知らなかった。彼等がそのパンフレットを見たら何が起こるか分らないと思った。この状況に驚いた私は宮城に急行し、天皇に拝謁を仰せつかった。8時30分頃であった。私は天皇に首相を謁見せられるよう奏請した……」
天皇は早速事態の急を知り、鈴木に伺候するよう命じた。首相は木戸が天皇に拝謁している間に、宮城に到着していた。木戸は鈴木に状況を説明し、最高戦争指導会議を開く準備があるかどうか尋ねた。
木戸は、「……首相は垂高戦争指導会議を開くことは不可能である。それは陸海軍の両方が降伏について考慮する時間をもっとくれと要求しているからであると答えた。ここで、私は首相に緊急処置を講じなければならないと言った。私は戦争を終結に導くため、閣僚と最高戦争指導会議の合同会議を開くことを提案した。その後、首相と私は天皇のところに行き、そのような会議を命令されるよう奏請した。首相と内大臣が一緒に天皇に拝謁を賜ったのは始めてであった。このようなことはこれまでになかった」と述べている。そして天皇は全閣僚、枢府議長および最高戦争指導会議の全員に午前10時半に参内するように命じた。それに先立ち10時20分天皇杉山元・畑俊六・永野修身の三元帥を召致し、「皇室の安泰は敵側に於て確約しあり…大丈夫なり」と述べ、回答受諾について「元帥も協力せよ」と命令した。天皇自身が召集する御前会議は午前11時50分頃から宮中の防空壕で開催され降伏が決定されます。

>④戦争に負けた日本が得たものは何ですか?

太平洋戦争の開戦によって、国家神道による戦争遂行のための国民強化は、ますますファナティックな様相を呈した。1945年7月26日のポツダム宣言発表に際しても、政府指導者たには「国体の護符」の条件にこだわり続けたことが、ソ連の参戦と原爆投下を招く結果となったことは言うまでもない。
占領軍進駐後の二ヶ月の報告書に「民主主義にいたっては、日本人民には未だかつてどのような形式にしろ、その経験がない」と記載れている。これは、国民の臣民的な政治意識の何もののせいでもあるまい。しかし、終戦にいたるまで、言論の弾圧や思想の統制の狂暴な嵐があまりにもながくつづいたために、わが国人の民主主絵義的傾向は文字どおり仮死の状態にまで立ちいたっていたことを思えば、しかたがないことである。