情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱

[太平洋戦争]

                昭和十六年七月二日
                御前会議を経て決定
    情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱

      第一 方針
一、帝国は世界の情勢変転の如何に拘らす大東亜共栄圏を建設し以て
  世界平和の確立に寄与せんとする方針を堅持す
二、帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立する
  為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す
三、帝国は右目的達成の為如何なる障害をも之を排除す

      第二 要綱
一、蒋政権屈服促進の為更に南方諸地域よりの圧力を強化す情勢の推
  移に対し適時重慶政権に対する交戦権を行使し且支那に於ける
  敵性租界を接収す
二、帝国は其の自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続
  行し其の他各般の施策を促進す
  之か為対英米戦準備を整え先つ「対仏印泰施策要綱」及「南方
  施策促進に関する件」に拠り仏印及泰に対する諸方策を完追し
  以て南方進出の体制を強化す 
  帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せす
三、独「ソ」戦に対しては三国極軸の精神を基体とするも暫く之に
  介入することなく密かに対「ソ」武力的準備を整え自主的に対
  処す此の間固より周密なる用意を以て外交交渉を行う独「ソ」
  戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を
  解決し北辺の安定を確保す 
四、前号遂行に当たり各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英
  米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ 
五、米国の参戦は既定方針に伴ひ外交手段其の他有ゆる方法に依り
  極力之を防止すへきも万一米国か参戦したる場合には帝国は三
  国条約に基き行動す但し武力行使の時機及方法は自主的に之を
  定む
六、速に国内戦争時体制の徹底的強化に移行す特に国土防衛の強化
  に勉む
七、具体的処置に関しては別に之を定む
解説
「帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す」「目的達成の為対英米戦を辞せす」「密かに対ソ武力的準備を整え」「独ソ戦争の推移帝国の為有利に進展せは武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」と、 北でも南でも、すなわち対ソ戦でも対米戦でも、情勢が有利とみたならば戦争をしかけようとしたのです。
従来実施されていた関東軍の通常の演習とは異なるので、はっきり区別するため 秘匿名称関東軍特種演習「関特演」と呼称されます。関特演とは、1941年7月7日から実施された日本陸軍による対ソ開戦を見込んだ戦争準備で、「明治健軍以来の最大の動員規模(防衛庁)」であったと言われています。開戦は8月29日に予定していましたが、「独ソ戦争の推移が帝国の為有利に進展」しなかったので、年内は中止になります。しかし、「好機」到来すれば、いつでも開戦にふみきれる「熟柿論」体制をとります。なぜなら、ドイツが単独でソ連を打倒してしまったら、日本は分け前を要求できなくなるからである。そして翌年(1942年)の春には関東軍にさらに二個師団を増強し、その兵力は前後を通じて最も充実したものとなります。1943年一月になるとドイツ軍はスターリングラードで敗北し、日本が独ソ戦にかけていた期待が裏切られ、日本軍もガダルカナル島から退却すると、関東軍から抽出が始まります。一方南進は北部仏印進駐でとどまっていた軍隊を、1941年7月23日に南サイゴンに移動させます。そして28日、南部仏印上陸を開始します。
北進も南進もいずれにしても、当時は「バスに乗り遅れるな」の大合唱で分かるように、何か物に憑かれたように、ドイツの全勝を盲信し、なおもドイツ勝利の暁には、日本の戦争参加によって取り得べき莫大のなる分け前についてのみ、頭を悩ましていたのである。