外交交渉は戦争を回避できなかった。こうして真珠湾攻撃が始まった。

根強く語られるルーズベルト陰謀論

戦後の日本外交史研究は、日米開戦史研究だったと言っても言い過ぎではないほど、質量ともに膨大な知見を生み出し、通説を打ち立てている。

それでも根強いのがルーズベルト陰謀論である。この陰謀論がまちがっていることは、歴史実証主義の研究者にとって常識である。この点は須藤眞志『真珠湾〈奇襲〉論争』(講談社選書メチエ、2004年)にあらかたまとめられている。

陰謀論への第1の反証は暗号解読の問題である。アメリカ側が解読できたのは外務省の暗号だった。外務省が真珠湾攻撃を知るのは直前になってからのことである。肝心の海軍の暗号は、翌年春まで解読できなかった。

第2の反証は無線封止の問題である。真珠湾に向かった南雲機動部隊は、厳重な無線封止下にあって、弱い電波を出して連絡し合うこともしなかった。そのような微弱電波の傍受解読の証拠はない。

それでもルーズベルト陰謀論はなくならない。ルーズベルト陰謀論は、真珠湾攻撃=日本の「卑怯な騙(だま)し討ち」との非難を躱(かわ)すことができるからである。ルーズベルトが陰謀を働いたのであれば、悪いのはアメリカであり、日本の方こそ騙されたことになる。

開戦回避の可能性は直前まであった

戦後の日本外交史研究の関心は別の所にあった。それは要するに開戦回避の可能性だった。時間の経過とともに狭められながらも、開戦回避の可能性は直前まであった。

なぜならば英国やオランダとは異なって、日本はアメリカとの間でアジアの植民地をめぐる対立がなく、戦争に訴えなければ解決できないような問題はなかったからである。

日米開戦は日本からさきに手を出さなければ回避できたのだから、11月26日のハル・ノートをめぐって交渉を続けることにも意味はあった。交渉が続けば、ほどなくして東南アジアは雨期に入る。作戦行動がとりにくくなる。そこへドイツに対するソ連の反攻が始まる。対米開戦に踏み切る前提となっていた欧州戦線におけるドイツの優勢が崩れる。開戦を決意するのはむずかしくなる。開戦は回避される。

以上のように開戦回避の可能性が詳(つまび)らかになったあとに、残された疑問があるとすれば、それは「回避可能だったのに、なぜ戦争に踏み切ったか」である。

日米の国力を比較すれば、合理的な結論は開戦回避以外に選択の余地がない。結論が自明であるのになぜ無謀な戦争に突入したのか。

陸軍「悪玉」、海軍「善玉」は本当に正しいのか

この論点に対する最新の研究が牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦―秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書、2018年)である。

同書は歴史的想像力を働かせて、注目すべき議論を展開している。どうすれば秋丸機関は開戦回避論に説得力を持たせることができたのか?

「3年後でもアメリカと勝負ができる国力と戦力を日本が保持できるプラン」を示して時間を稼ぎ、ドイツの敗北と米ソ冷戦の始まりを待つ。このような「臥薪嘗胆」論であれば、開戦は回避可能だった。あるいは3年も待たなくてよかった。戦後の日本外交史研究の知見は、数カ月の先延ばしでも回避の可能性があったと指摘しているからである。

同書が明らかにしたのは、陸軍の開戦の動機である。海軍はどうだったのか。開戦をめぐって、陸軍が「悪玉」ならば、海軍は「善玉」である。海軍「善玉」論は正しいのか。

この疑問に対する先駆的な研究によれば、永野(修身)海軍軍令部総長は1941(昭和16)年7月21日の段階で、早期開戦論を主張している。さらに10月30日になると、今度は嶋田(繁太郎)海相が開戦を決意する。海軍は「悪玉」である。

海軍が開戦に積極的だったのは、組織利益を守るためだった。1930年代から海軍は軍拡を進めていた。「戦争を為し得ざる海軍は無用の長物なり」。そう非難されれば、戦争の決意をもって応えるほかなかった。軍事戦略上は「万一の僥倖(ぎょうこう)」を賭けた陸軍の方が組織利益を優先させた海軍よりも合理的な判断を下していたことになる。

そうだからといって、海軍を単純に「悪玉」と決めつけることもできない。1941年前半の日米交渉に海軍上層部が大きな期待を寄せていたことも明らかになっているからである。海軍にとっての転換点は別のところにあったのではないか。

独ソ戦の勃発で暗礁に乗り上げた日米交渉

転換点として真っ先に思いつくのは1940年9月27日の日独伊三国同盟だろう。この点に関連して、敗戦の翌年、日米交渉に携わった岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)陸軍大佐の重要な証言がある。岩畔の証言によれば、三国同盟の圧力があったからこそアメリカを交渉の場へ引き出すことができた(井上寿一『戦争調査会』講談社現代新書、2017年)。

ところが軌道に乗り始めたかに見えた日米交渉は、6月22日の独ソ戦の開始によって、暗礁に乗り上げる。

独ソ戦の勃発によって、ソ連とも戦争をすることになったドイツは手いっぱいになる。そのドイツと同盟関係を結んでいる日本の外交ポジションは低下する。対するアメリカの外交ポジジョンは強化される。アメリカは強気の姿勢に転じる。交渉の成立には日本側からの思い切った大幅な譲歩が必要になった。

独ソ戦の影響は日米交渉にとどまらなかった。ソ連はドイツを相手に戦うことによって弱体化する。そのように見通す陸軍にとって独ソ戦は好機到来だった。陸軍の仮想敵国は伝統的にロシア・ソ連だったからである。陸軍は7月2日に関東軍特別演習(関特演)を実施する。関特演は対ソ作戦の準備行動だった。

「対米戦争回避」で一貫していた松岡外交

この北進論は国策の矛盾を表す。なぜならば日本は4月13日に日ソ中立条約を結んでいるからである。日ソ中立条約の締結を主導したのは松岡(洋右)外相だった。ところが7月2日の政府決定の際に松岡は北進論を支持している。

一見すると松岡外交も矛盾に満ちていた。しかし7月2日の松岡が北進論を支持するとともに、南部仏印進駐の中止を主張していることに注目したい。

近衛(文麿)内閣は関特演の決定に先立って、6月25日に南部仏印進駐を決定している。南部仏印進駐に対してアメリカは態度を硬化させる。アメリカの対抗措置は在米資産の凍結だった。この対抗措置は事実上の対日全面禁輸につながった(森山優「日米交渉から開戦へ」『昭和史講義:最新研究で見る戦争への道』ちくま新書、2015年)。

南部仏印進駐がアメリカやイギリスを挑発することは、同時代においても認識されていたと推測できる。南部仏印から日本軍機がフィリピンやシンガポールを直接攻撃できるようになるからである(井上寿一『戦争調査会』)。

以上を踏まえれば、矛盾に満ちた松岡外交に一貫性を見いだすことができる。それは対米開戦の回避だった。松岡の意図は、三国同盟と日ソ中立条約によって日本の外交ポジションを強化したうえで、アメリカとの直接交渉によって開戦を回避することにあった。同様に南部仏印進駐は対米関係を決定的に悪化させるゆえに、中止を求めた。松岡外交は対米開戦回避で一貫していた。

「万一の僥倖」に賭け、真珠湾攻撃に突入

対する海軍は北進論を抑制する目的で南部仏印進駐を進める。南部仏印進駐は、アメリカによる対日経済制裁の段階的な実施を見越した「予防的措置」だった。仏印の重要軍需資源を確保すれば、経済制裁に対抗できるからである。

こうして北進論と南進論は相打ちになる。国策の調整と統合は近衛内閣から東条(英機)内閣に持ち越される。

東条内閣は11月1日に和戦両論併記の決定を下す。12月1日午前零時までに外交交渉がまとまらなければ、武力発動となる。

アメリカ側の回答はハル・ノート(編註:アジアの状態を満州事変前に戻せという米国国務長官ハルの通告)だった。海軍は開戦以外に選択の余地がなかった。陸軍も「万一の僥倖」に賭けた。12月1日午前零時までに外交交渉は戦争を回避できなかった。こうして真珠湾攻撃が始まった。

井上 寿一(いのうえ・としかず)
学習院大学 学長
1956年東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院を経て学習院大学法学部教授、2005年に同大学法学部長。2014年から現職。法学博士。吉田茂賞、第12回正論新風賞などを受賞。著書に『機密費外交 なぜ日中戦争は避けられなかったのか』『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』(共に講談社現代新書)など。

世界情勢の推移に伴う時局処理要網

 

 

 前日に閣議決定した「基本国策要綱」を受けて、更に具体的に軍事行動などの方針を規定したものです。
 特に第三条において、日中戦争の帰趨による時期の前後はあるにせよ、「南方」に武力行使する、英国をその相手と想定する、この為には米国との戦争も想定して準備すると明記しています。

 この要綱の提案理由を記した文書はこう語っています。
 『欧州戦争に於ては期成勢力は正に新興国家群の威力に屈し、僅に英国一国を残すに止り、情勢推移の急激なるを予測せしむるものあり』
 『更に帝国が英米依存の態勢より脱却し、日満支を骨幹とし概ね印度以東豪州、新西蘭以北の南洋方面を一環とする自給態勢を確立するは当面帝国の速急実現を要すべき所にして、是が達成の機会は今日を措き他日に求むること極めて困難なるべし 軍備充実完成後に於ける米国の極東政策と国力充実に伴ふ蘇連邦将来の動向とを考察するに特に然りと』

 要するに、これまで東南アジアに植民地を抑えていたオランダとフランスがナチスドイツに敗れ、イギリスも喉元まで迫られている欧州戦況の尻馬に乗ってインドの近くまで版図を広げよう、当時の流行語で言えば「バスに乗り遅れるな」という事です。
 この時点でオランダは本国軍が降伏、政府はイギリスに亡命しており、蘭印(インドネシア)は宗主が遭難した状態でした。フランスもドイツに負け、北部を占領され、南部はナチス干渉下の政権(ヴィシー政府・ペタン政権)になっていました。

 翌1941年12月のアジア太平洋戦争開戦は、この時すでに概ね方針として定められていた事がはっきり判ります。
 「経済制裁を受けて初めてやむを得ず東南アジアに侵攻した」のではない、それ以前から日本帝国自身の主体的意志であった事が明白に証明されます。

 


世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱
                                                        昭和一五・七・ニ七
                                                        大本営政府連絡会議決定

方 針

帝国は世界情勢の変局に対処し、内外の情勢を改善し速に支那事変の解決を促進すると共に、好機を捕捉し対南方問題を解決す
支那事変の処理未だ終らざる場合に於て対南方施策を重点とする態勢転換に関しては内外諸般の情勢を考慮し之を定む
右ニ項に対処する各般の準備は極力之を促進す

要 領


第1条    支那事変処理に関しては、政戦両略の総合力を之に集中し、特に第三国の援蒋行為を絶滅する等凡ゆる手段を尽して速に重慶政権の屈服を策す
対南方施策に関しては、情勢の変転を利用し好機を捕捉し、之が推進に努む
第2条    対外施策に関しては、支那事変処理を推進すると共に、対南方問題の解決を目処とし、概ね左記に依る

    一、    先づ対独伊蘇施策を重点とし、特に速に独伊との政治的結束を強化し、対蘇国交の飛躍的調整を図る

    ニ、    米国に対しては公正なる主張と厳然たる態度を持し、帝国の必要とする施策遂行に伴ふ巳むを得ざる自然的悪化は敢て之を辞せざるも、常に其動向に留意し、我より求めて摩擦を多からしむるは之を避くる如く施策す

    三、    仏印および香港等に対しては左記に依る

    
    (イ)    仏印(広州湾を含む)に対しては、援蒋行為遮断の徹底を期すると共に、速に我軍の補給担任、軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめ、かつ帝国の必要なる資源の獲得に努む
情況により武力を行使することあり

    
    (ロ)    香港に対しては「ビルマ」に於ける援蒋「ルート」の徹底的遮断と相俟ち、先づ速に敵性を芟除する如く強力に諸工作を推進す

    
    (ハ)    租界に対しては、先づ敵性の芟除および交戦国軍隊の撤退を図ると共に、逐次支那側をして之を回収せしむる如く誘導す

    
    (ニ)    前ニ項の施策に当り武力を行使するは第三条に依る

    四、    蘭印に対しては、暫く外交的措置に依りその重要資源確保に努む

    五、    太平洋上に於ける旧独領および仏領島嶼は、国防上の重大性に鑑み、為し得れば外交的措置に依り我領有に帰する如く処理す

    六、    南方に於ける其他の諸邦に対しては、努めて友好的措置により我工作に同調せしむる如く施策す
第3条    対南方武力行使に関しては左記に準拠す

    一、    支那事変処理概ね終了せる場合に於ては、対南方問題解決の為、内外諸般の情勢之を許す限り好機を捕捉し武力を行使す

    ニ、    支那事変の処理未だ終らざる場合に於ては、第三国と開戦に至らざる限度に於て施策するも、内外諸般の情勢特に有利に進展するに至らば、対南方問題解決の為武力を行使することあり

    三、    前ニ項武力行使の時期、範囲、方法等に関しては、情勢に応じ之を決定す

    四、    武力行使に当りては戦争対手を極力英国のみに局限するに努む
但し此の場合に於ても、対米開戦は之を避け得ざることなるべきを以て、之が準備に遺憾なきを期す
第4条    国内指導に関しては、以上の諸施策を実行するに必要なる如く諸般の態勢を誘導整備しつつ、新世界情勢に基く国防国家の完成を促進す
之が為、特に左の諸件の実現を期す

    一、    強力政治の実行

    ニ、    総動員法の広汎なる発動

    三、    戦時経済態勢の確立

    四、    戦争資材の集積および船腹の拡充
(繰上輸入および特別輸入最大限実施ならびに消費規正)

    五、    生産拡充および軍備充実の調整

    六、    国民精神の昂揚および国内世論の統一

対日全面禁輸

昭和15年9月23日、北部仏印へ進駐。また昭和16年6月25日大本営政府連絡会議で南部仏印進駐決定。7月28日南部仏印へ進駐開始。南部仏印進駐に対してアメリカは態度を硬化させる。アメリカの対抗処置は在来資産の凍結だった。この対抗処置は事実上の対日全面禁輸につながった。

なぜ日本はアメリカに対して真珠湾攻撃をしかけたか

なぜ日本はアメリカに対して真珠湾攻撃をしかけるという“必敗の戦争”に突き進んだのか。学習院大学学長の井上寿一氏は「開戦回避の可能性は直前まであった。しかし、海軍は組織利益を守るために、戦争に突き進んだ」という――

三国機関

ナチス独逸にはゲシュタポがあった。ソ連にはゲー・ペー・ウーがある。何れも秘密の国家警察機関である。この秘密警察は一国一党の独裁政治形態を有する国家にとっては必要とする。
第二次近衛内閣から東條内閣に到る間は、軍部の力が絶頂に在った頃である。日本の一切の政治は陸軍の指導下に一国一党の姿に於て運営せられて居た。故にわが陸軍も御多分に洩れず、極秘裡に、秘密警察組織をもって居た。その名は三国機関である。
この秘密機関の創設は、板垣陸軍大臣時代の末期昭和十四年の四月である。創設当初はゲシュタポ的の性質を帯びたものではなかつた。その目的はスパイの防止を主とした単純な防諜機関であり、その内容は貧弱なものであつた。所在地は麴町の萬平ホテルで、その秘密事務所は、このホテルの一室を占有するに過ぎない有様であつて、人員も僅少であつた。従ってその活動範囲もスパイ行為の追及のみに限られ、追及の対象は主として外国人であつた。そしてその管轄は憲兵司令官に属して居た。
昭和十五年七月、東條氏が陸軍大臣になると、憲兵政治の好きな氏は早速この機関に眼をつけた。そして直ちにこの機関を大臣直轄とし、その内容を拡充して政治部門と防諜部門の二つに分かち、之をゲシュタポ式の組織とした。その指揮者には三国直福中将を選び、優秀な憲兵将校と政治情報の蒐集に堪能な民間人を起用して機関員とした。この機関を三国機関と呼ぶに到つたのは此時からである。
この機関の存在を知るものは大臣、次官、関係局長等の極めて少数のものに限られ、その活動は極秘中の極秘とせられていた。本部の所在地は最初牛込若松町の砲工学校内であり、事務所は同校の気象研究室を充てていたが、太平洋戦争の開始と共に市ヶ谷の陸軍省内に移転した。この機関の特徴は機密費が極めて豊富であつたことと、捜査の実行のためあらゆる最新の科学的資材を完備して居たことである。
科学的捜査資材とはなんであらうか。その一つは録音機である。この録音機は極度に小型な精巧なものであつて、之を部屋の壁の中に装置すれば、その部屋の中で取り交はされる総ての音声が記録せられる。又バンド止め兼用のスパイカメラもある。このカメラは路上で行き違つた人の面影を突差に而も確実に撮影することが出来る。その外に精妙な電話窺取器材,暗号解読の電気装置など近代科学の粋を集めたあらゆる捜査器材を備へて居た。中野正剛氏の東條内閣打倒の陰謀に関し、伸つ引きならぬ証拠を摑んだのは、電話の窃取と交詢社内に装置せられてあつた録音機の賜物である。
東條氏によつて完成せられた日本のゲシュタポである三国機関も、その防諜部門は民間に対してあまりに大なる害毒は流さなかつた。何んとなれば太平洋戦争開始後は内地に於てはスパイ的存在が殆んどなかつたためである。然し政治部門の活動は、アンチ東條の政客や団体を戦慄せしめた。
政治部門に集まつた情報は大小となく殆んど毎日三国氏から東條氏に直接通告せられた。東條氏はこの通告に基いて、必要と見れば直ちに憲兵隊に通じ、逮捕或は取り調べの実行を命じた。
東條氏の性格の最大の欠点は自己を信ずることが極めて強く、偏狭であつて猜疑心の深い所にある。従つて氏は阿諛と佞弁(*ねいべん)を好み、極度に直諫を忌み嫌う。三国機関の政治部門に属する機関員は最もよく東條氏の性格を知つて居た。彼等は東條氏のこの弱点に乗じてその意を迎へ自己の立身出世の具に供した。故に彼等の蒐める情報は概ね東條氏をして満足の意を表せしむるものが多かつた。
昭和二十年(十九年の誤り)七月、人心既に東條氏を去り、客観的情勢は著しく東條内閣に不利となり、その存続は全く不可能となれる状態に於て、東條氏が尚且執拗に政権に囓ぢりつかんとしたのは主としてこの三国機関が東條氏に阿(*おもね)つて、政治情勢の真相を伝えなかつたためである。
太平洋戦争の勃発以後、東條氏が最も力を注いだのはアンチ東條の運動を弾圧することであつた。三国機関の政治部門はこの目的のために殆んど全力を注いだ。
私(*田中隆吉)は東條氏の性格より判断して、三国機関の存在が東條氏の国内情勢に対する判断を誤らしめ国家の運命に暗影を投ずることを恐れ、戦争勃発の直後、三国機関の廃止を進言した。そのとき私*は(*三国機関の)政治部門が流す害毒を詳細に述べて廃止の必要を力説し、若し強いて残置するとすれば防諜部門のみに止(*とど)むべきであると主張したが、東條氏は反対に、戦争の勃発は盛々(*ますます)その重要性を増加したと主張して私*の進言を一蹴した。
三国機関の活躍は巧妙且迅速であつた。昭和十八年一月、東條氏が肺炎を病んで高熱に苦しみ議会の再会(*ママ)を延期したときの話である。その頃私は伊豆の長岡温泉に滞在して居た。ある日の午後大和館の一室で宇垣一成氏と東條氏が退陣した場合の対策に就て密議して居た。会談半ばに東京の憲兵司令部から宇垣氏に向つて、「何を話して居るのか。貴方は何時田中(*隆吉)の所から家に帰るのか」と電話して来た。この一事は私の周囲に三国機関の手先が動いて居り、その行動が極めて迅速であつたことを立証する。
又昭和十九年の春、近衛氏は私に
「私の行動は詳細に東條が知って居る。電話の内容や、訪問客の人等は兎も角会談の内容まで知って居るのには驚く」
と語った。私は(**近衛)氏に対し三国機関なるものの存在とその内容を打ち明けて氏の行動の慎重なるべきことを忠告した。その年の秋、内大臣官邸で木戸氏に面会したときに、木戸氏も私に
「東條内閣時代には私の行動は事細かに東條が知つて居た。電話は勿論、宮中で人に会つたときの話の内容すら知つて居た。今になつてもどうしてあんなに詳しく知つて居たかその理由が判らぬ」
と言った。氏は私が近衛氏の場合と同様に、三国機関の内容を詳細に説明したため始めて疑問を解いた。
中野正剛氏が昭和十八年の九月、警視庁で取り調べを受けたときには、証拠不十分で無罪放免となつた。憲兵は東條氏の命令で再び中野氏を逮捕した。取り調べは厳重を極めたが中野氏は終始頑強に事実を否認し続けた。然し最後に憲兵が、交詢社(*銀座にある実業家の社交クラブ)の一室で中野氏と東方会の幹部とが会談をした内容を録音に依つて中野氏に聞かせたので、流石の中野氏も終に前言を翻さざるを得なくなつた。中野氏の自裁の原因は恐らくこの録音にあるのではなからうか。
(昭和十六年)十二月七日正午に日本に到着したルーズベルト大統領の親電が、同日夜に到つて始めてわが外務省に手交せられ、天皇の手許に到達するのが著しく遅れたのは、この三国機関が裏面に於て活躍したためである。その方法は極めて簡単である。電信線をある一定の時間、遮断すればよい。この種の操作は三国機関に取つては朝飯前の仕事である。翌八日(昭和16年12月8日)、アメリ国務省に手交すべき日本の最後通牒が、予定より遅れて、真珠湾攻撃と殆んど同時にハル長官に交はせさられたのも亦この(*三国)機関の活動の結果である。それは、六ヶ絛から出来て居たこの電文の最後の一ヶ絛を、数時間遅らしたためである。この方法も亦極めて簡単である。前と同様にある時間を限つて電話線に故障を起させればそれで十分である。
昭和十九年七月小磯内閣が成立してから杉山陸相の下に柴山兼四郎中将が次官に就任した。氏は就任と殆んど同時にこの機関を解散した。明敏なる氏はこの機関の害毒がそのもたらす効果に比してあまりにも甚大であることを知つたからである。
私は若し三国機関なるものが存在しなかつたならば太平洋戦争は起つて居なかつたと思う。何となれば東條氏の国内情勢判断の資料は議会の言論や、大政翼賛会が蒐めた報告には全然之を無視して、主として三国機関のもたらす政治情報を基礎として居たからである。三国機関の政治情報が常に東條氏の意を迎ふるに汲々として居たことは既に述べた。彼等は太平洋戦争勃発の直前、只管(*ひたすら)東條氏の開戦決意を狩り立てるのに有利な情報のみを提供した。高慢にして思ひ上がれる東條氏はその情報によつて、一億国民悉く開戦を欲して居るものと速断しアンチ東條の空気は絶無であると過信した。
昭和十六年十二月九日、即ち太平洋戦争勃発の翌日の夜のことであつた。私は三宅坂の大臣官邸に東條首相兼陸相を訪れて、兵務局が蒐めた国民情報を忌憚なく述べた。その要旨は次の通りであつた。
「この戦争の勃発は、国民には全く寝耳に水である。一般国民は国際情勢の推移には全く無知であつて、その真相を把握して居らぬ。故に唯政府の言う所に盲従して居るのがその実情である。然しインテリ階級は、軍部を恐れて口にこそ言はぬが多くは反対である。私の恐るるのはこのインテリ階級の態度である。戦争が長期に亙ると必ずこのインテリ階級の態度が国民に反映する。その結果は反戦思想の台頭となつて、国民の結束が破れる。故にこの戦争は可及的早期に終結せしめねば、惨敗に終るであらう」
之に対し東條氏は不機嫌な態度で次の様に答へた。
「それは杞憂だ。三国機関の情報では、寧ろインテリ階級が挙つて戦争を欲して居る。故に自分は国民全部の信頼があることを確信して居り、この戦争は必ず勝利を以て其局を結ぶことを疑はない」
と。一事が万事である。三国機関が東條氏を誤つた罪は重い。然し誤られた東條氏の罪は更に重い。反省なき思ひ上がれる愚昧が生んだ結果である。・・・(同上書、新風社版 97~104頁、長崎出版版 96~103頁)

オランダ領インドネシア

12月8日、陸軍は、英国軍の激しい抵抗の中、英領マレー半島コタバルに上陸。やや遅れて同半島シンゴラ(タイ領)にも上陸し英領内へ進軍を開始。日本軍は、マレー半島をへて、石油資源が豊富なオランダ領インドネシアの占領を目指しました。

吉田松陰

吉田松陰は当時の思想家佐久間象山から学びます。象山は幕末期に幕府の昌平坂学問所の教官となった佐藤一斎に学んだ。一斎は表向きは朱子学だが、実は陽明学の学者です。陽明学は中国、明代中期に王陽明によってとなえられた学問で中国では王学、または彼の出身地から姚江(ようこう)の学というが、陽明学というのは、日本の明治期にはじめられた呼称です。
中国宋の時代は、新興の知識人たちが科挙試験を通じて官僚になるという近世的社会になったので、当時の知識人の子弟は、科挙の試験に及第して官僚になることを人生の目標にしていた。王陽明もまたそのための勉強をしながらも、聖賢になるために学問をするのだという気持ちをもっていた。28歳で最終試験に及第して役人の道をすすむことになったが、年少の武宗が即位すると劉瑾(りゅうきん)一派の宦官たちが勢力をもって横暴をはじめ、彼らに批判的だった王陽明はむち打の刑をうけて貴州の竜場にながされた。左遷されて貴州の竜場という僻地(へきち)にながされたとき、倫理的実践の方法に深くなやんだ。朱子は事事物物、個別に理を追究することからはじめるべきだという「格物窮理」の説を修養の方法としたが、この方法によるなら、まずは四書五経などの経書をよみ、外から知識として理をまなび、それからそれを実践するという「知先行後」となる。
しかし僻地にあっては、書籍もなければ読書も思うにまかせず、中央とはことなる異文化の中で通常の礼法は通用しない。彼は朱子流の方法では解決がつかないことをさとり、倫理的判断をみずからの純粋な心意にもとめることにした。つまり自己の心こそ理であると考え、「心即理」の説をとなえる。政変によって中央にかえることができたのち、彼はこの考えを発展させて学問をすすめる。経書観についても、経書の言葉はほかでもない自分の心を書きしるしたものだと解釈し、朱子格物致知を重視するのに対し、誠意(心の意念を純粋にたもつこと)を重視する。しかしここで、聖人が今この境遇にあったらどうするであろうと考え、「心即理」、つまり、わが心こそ道理なのだ、わが心を基準にして行動すればいいという境地に目ざめた。そしてやがて「知行合一」つまり知識と行動が一体のものだということであり、朱子の「知先行後」に反対して「知行合一」を考えた。

吉田松陰は、主宰した松下村塾で、久坂玄瑞木戸孝允高杉晋作伊藤博文山県有朋らをそだてた。明治維新の推進役となった彼らは、「知行合一」という一種の過激思想(テロ)が行動の源かもしれませんね。吉田松蔭の松下村塾に「知行合一」の掛け軸があったと言われています。

知ることと行うことは同じでなければいけない、知っていても実行に移さなければそれは知らなかったということになる、少なくとも周りの人から見ると。
支配層には行動を起こさない朱子学が都合の良かったのに対し、行動に出る陽明学は危険因子と見なされ革命的とされます。三嶋由紀夫曰く革命哲学。

 

 三嶋由紀夫曰く

 行動哲学としての陽明学はいまや埃の中に埋もれ、棚の奥に置き去られた本になった。別な形で、朱子学が復興しているなどといわれながら、朱子学の一分派ともいわれる陽明学は、ごく一部の愛好者を除いて、その名のみが知られているのが現状である。アメリカでは陽明学を研究している三人の学者がいるそうだが、日本では陽明学の家といわれる二、三の学者の家に伝承されるばかりで、政治家や、現実的な行動家のよって立つべき基本的な哲学としてのメリットは、おおよそ失われたといってよい。
 このことには、現在の老人支配の日本において、ちょうど大正教養主義の洗礼を受けて育った世代が、知的指導層を占めているために(一例をあげれば、志賀直哉氏、武者小路実篤氏のような自樺派や、故小泉信三氏を象徴とする開明派、「心」グループの知的風土とその影響下にある中壮年層の知的指導層)、陽明学がそれらの世代の青年期に、意識的に忌避されたこともあずかっている。
 乃木大将の死とともに終った陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかった。過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなった。というのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、昭和初年にいたって、このように否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の温床となったために、ますます大正知識人に嫌われる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあえて伝えまいとした有害な「黒い秘教」になったのである。
 一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪い去った。北一輝のような日本的革命思想の追究者は、孤立した星であった。マルクシズムが陽明学にとって代り、大正教養主義・ヒューマニズムが朱子学にとって代ったということもできるであろう。朱子学の、なかんずく、荻生徂徠のような外来思想の心酔者は、大正知識人にとってもむしろ親しみやすかった。しかし国学陽明学はやりきれぬ代物だった。国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になった。インテリは触れるべからざるものになったのである。
 今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒しているいくつかの思想的タブーがあり、武士道では『葉隠』、国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがって天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされている。そういうものを何か「いまわしい」ものと考えるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落している。西欧的合理主義の移入者であり代弁者であるところに、自已のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なお日本知識層の気質の底にひそんでいる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまわしいもの、醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つであったのである。
 現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いている。すなわち、西欧化近代化の文明開化主義の明治政府と、その戯画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを批判し、あるいは「教育」する立場に矜(ほこ)りを見つける。マルクシストさえ、近代化の方策の差というのみで、近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児であるという点で、矛盾はない。
 現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派という様相を呈するであろう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあったよりも激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなった現在、菌にも耐性ができて、大ていの薬では利かなくなったのである。
 さて今まではといえば、たとえば丸山真男氏の『日本政治思想史研究』における陽明学の取り扱いにも見られるように、氏はそのかなり大部の著書の中でわずかに一頁のコメンタリーを陽明学に当てているに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学であるとなし、陽明学朱子学の理の内包していた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失った、と説いている。
 しかしながら陽明学は、明治維新のような革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印していた。陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
 大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの二本の柱にあると思われる。フランス革命はルソーの楽観的な哲学の裏にマルキ・ド・サドの深いニヒリズムを隠し、一方ではジエラル・ド・ネルヴァルが言っているように、多くの見神論者の群れを革命の前駆として輩出しながら、ジャコバン党員ですらスコットランドのフリー・メーソンの本殿へお告げを承りに行ったこともあった。また、二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッガーの準備した能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの『二十世紀の神話』が、ナチスのミスティシズムを形成した。
 革命は行動である。行動は死と隣り合わせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜(とりこ)にならざるを得ないのは人間性の自然である。
 明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によって準備された。本居宜長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがって平田篤胤、さらには林桜園のようなミスティックな神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培った。
 また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学明治維新的思想行動のはるか先駆といわれる大塩平八郎の乱の背景をなし、大塩の著書『洗心洞箚記(さっき)』は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいうぺき西南戦争の首領西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であった。また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打っており、一度アカデミックなくびきをはずされた朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へおりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあずかるのである。
 主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによって善悪を超越する哲学であるこの陽明学という危険な思想は、丸山氏のいうところの、まさに逆を行って、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派という仮面に隠れながら、その実、もっとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かって進んでいった。その「良知」とは、単に認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入って創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、武士的な行動原理と思われる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもっとも危険な消息を伝えるものであった。
 ところで、現代において陽明学がふり返られるとすれば、どのような見地からであろうか。ここ数年来の大げさな革命的言論と、それについに相伴うことのなかった革命的行動の蹉跌との間には、現代政治と社会、政治理念と行動との間における真っ黒な深淵が暗示されている。われわれは、いまその深淵の上を閉ざす弥縫(びほう)的な「平和」にたぶらかされているが、やがてその深淵は人間精神の上にもっと恐ろしい形で再現することは十分予期されるのである。それは認識と行動とのギャップ、認識と行動とが相纏綿し相疎外するアンビヴァレンツ的関係の始まりであり、政治における無効性と有効性との対立であり、政治的理念が無効性のかなた、およそ銀河系のかなたに追いやられる如く、追いやられていくこちら側に、理念不要の現実政治の退屈きわまる術策と妥協とが横たわり、一度精神の問題に思いをいたすと、人々はこの二つのものの間の目のくらむほどの深淵に直面せざるをえない状況がきているのである。
 ごく手近な例をとっても、全学連運動の帰結は、単に警察力の増強という物理的理由によって、たちまち理論的破綻に瀕していった。全学連運動、いわゆる新左翼の思想の根底には認識と行動との一致、陽明学にいわゆる知行合一のエトスが潜在していると思われるのだが、またそれによってこそ、単なる蒼ざめた認識者としての大学教授達は心底から脅かされたと察せられるのだが、いま警察の規制によって民青的焼香デモに甘んじざるを得ない彼らは、民青に対してただ自分達の認識の差を保持するだけになってしまった。
 しかし、行動に現われない認識が何ものでもないことを主張したのは新左翼自身のはずであるから、もはや行動に現われない認識の形で優劣を競うことは、相手の土俵に入ったも同じである。この矛盾に逢着するとき、かれらが行動の基盤とした能動的なニヒリズムは失われて、そのいわば逆、受動的なオプティミズムに陥らざるを得ないであろう。革命の機会を待望し、ただ待ち、待ちこがれてその機会に向かって周到な準備を重ね、あらゆる妥協を容認し、その方法論においてどのような矛盾撞着(どうちゃく)も平然としてのみ込むような楽天主義は、もはや知行合一とは無縁のものになってしまう。そしてそのとき、新左翼もまた、あれほど憎んだ体制側の政冶の次元と同じ次元に立つことになるのである。
 もちろん、彼らをこのような窮地に陥れたのは警察力の物理的増強のみではない。一つは彼ら自身の内面の問題であり、またその内面に反映していた大衆社会状況の問題でもある。大衆社会状況に処するのに、認識と行動との合致をもって対抗することが、そもそも論理的矛盾であって、大衆社会を巻き込むためには、「大衆社会こそは認識と行動との背反にその存在理由のすべてをもつ」というところに着目しなければならなかった筈である。まさに反陽明幸的な思考方式こそ、平和な時代の大衆社会を成立せしめる最大の基盤であった。なぜなら、大衆社会は道理の感覚によって動くことを求めず、それ自体の物理的法則によって動こうとするからである。
 認識至上主義が、結局、物理的法則に陥らざるをえぬとは、何たる皮肉な状況であろう。大衆社会状況とは、人々が危惧しているように、文化の低俗化の一途を辿るものではない。閑暇が与えられれば、より高いより洗煉された知的快楽が求められるのは当然で、人々の「認識欲」は増すのである。このためには、種々な贅沢な芸術(まがいのもの)や娯楽が用意され、一方では情報化社会の趨勢がこれを満足させる。ニュースも豊富、哲学も豊富、人々は「知る欲求」を満足させることに事欠かないのだ。現代、「あなたはスポーツがお好きですか」ときかれて「はい」と答える人は、大ていの場合「見るスポーツ」を意昧している。「野球が好きです」ということは、おおむね「野球をやること」ではなくて「野球を見ること」を意味している。これほど大衆社会における認識至上主義と、無道徳無制限の好奇心の満足を求める傾向を、明示しているものはない。
 認識至上主義はニュートラルである。また、超道徳的であって無倫理である。しかし、ニュートラルでありえ、無倫理でありえているのは、行動に自已を投入しない以上当然のことであり、行動はいやでも中立性の放棄と倫理的決断を要求する。それがいやだから行動しないという心理は、行動しないから行動を永久に恐れるという次の心理に至って、悪循環に陥る。この悪循環がオートマチックに働いて、その動きが物理的法則を形づくる。そこには認識と行動の乖離(かいり)がはじめから予定されているのであるから、知行合一のような哲学は、はじめから無意識裡に忌避されているのは当然であろう。そして富める大衆社会の政治行動は、決して我身に傷を負わぬという保証の下に、良心的なポーズを満足させる小さな小さな冒険に類するものになるであろう。一寸した薬味の利いた、薄荷のような淡い反体制的な感情が、拡大された中間層の基本的色調になるであろう。
 もはや「道理」は要らない。「道理」はガタピシして、持ち運びのたびに、壁のあちこちに傷をつくる厄介な家具であり、その上ノスタルジーと関わりがあるから、あまりに「主観的」なのである。思い出は要らない。消費経済の時代に歴史や伝統が何だろうか。何でも使い捨てればよいのであり、自分の教養のひけらかしに必要な骨董だけをとっておけばよいのである。そのためには政府は文化財の保護を抜け目なくやってくれており、文化とは安全無類なものになった。多少の難解さは、暇つぶしのパズル遊びのために必要である。しかし、ゆめゆめ、認識と行動をつなごうなどという野望を起さなければよいのである。そういう野望を起さぬ限り、あらゆる文明の産物、生活を快適ならしめるあらゆる新製品は、すべてわがものになるのであり、わざわざ手製爆弾などを不自由な思いをして作らなくてもよいのである。ニヒリズムは不要なのだ。 

三島曰く

私はさっき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するということを言った。陽明学の時代にはニヒリズムという言葉はなかったから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に表われている。
 「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚というものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを良知によって弁別し得る最後のものであり、ここに至って人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとえば壷が毀されると壷を満たしていた空虚はそのまま太虚に帰するようなものである、といった。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなわち肉体に包まれた思想がもし良知に至って真の太虚に達しているならば、その壷すなわち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に遍在する太虚に帰することができるのである。
 その太虚はさっきも言ったように良知の極致と考えられているが、現代風にいえば能動的ニヒリズムの根元と考えてよいだろう。ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまうことは、森鴎外も小説『大塩平八郎』の中でそれとなく皮肉に指摘している。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のようであるが、いったん悟達に達してまた現世へ戻ってきて衆生済度の行動に出なければならぬと教える大乗仏教の教えには、この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されている。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、また陽明学的な行動ともいうことができるのである。
 陽明学をごく簡潔に説明したものとしては、井上哲次郎博士の『王陽明の哲学の心髄骨子』という古い論文がある。この論文を概説すると次のようである。明代の哲学者王陽明朱子哲学の反動としておこった人であるが、朱子哲学が二元論であったので、これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるいは平等主義的な傾向を与えて陽明学を体系づけた。
 陽明学のいくつかの理論的な柱には、
 一、理気一元説
 二、致良知
 三、知行合一
 四、四箇格言
 などがある。
 一、理気一元説。朱子は「理気決してこれ二物」と言って、理気二元論を唱導しているのであるが、王陽明はこれに対し理気一元論を唱えて「理ハ気ノ条理、気ハ理ノ運用、モト二事アルニアラザルナリ」といった。その一元がすなわち良知なのである。
 二、致良知説。良知とは何かというに、倫理学者のいう良心と同じものではなく、むしろ、ウパニシャッドブラフマンのような唯一無二の宇宙の根本原理である。しかもこれは創造的作用があり、陽明も、「良知ハ是レ造化的ノ精霊、這些(しゃしゃ)ノ精霊、天ヲ生ジ、地ヲ生ジ、鬼ヲ成シ、帝ヲ成ス、皆是レヨリ出ヅ」と言っている。もともと各個人の胸の中には澄みきった鏡のような聖人が住んでいるのに、普通の人はそれに気づかない。この鏡の曇りをとり、これを明らかにすることがすなわち良知であって、『大学』にいう格物致知も、陽明は、この「良知を致す」ことだと解釈するのである。
 三、知行合一説。王陽明はすべてに一元論であるから「知八行ノ初メ、行ハ知ノ成ルナリ」と言っている。「知ッテ行ハザルハ未ダコレ知ラザルナリ」というのは、この知行合一説をもっとも簡潔に表明したものであって、この点が朱子の先知後行とは違っているところである。ここに認識と行動との一致というもっとも自然でまたもっとも厳しい主張が秘められている。陽明学はまた心学ともいわれるように、主観的唯心論的に認めた道徳的真理を、直ちに行動にうつさなければその認識自体が無効になるのである。行動がなければ認識すらない、そして行動に移らなければ認識は完成しない、ここに陽明学のもっともラディカルな思想の拠点がある。
 第四、四箇格言。四言教ともいわれ、陽明学の要点を四つの格言にまとめて言い表わしたものである。格言の第一は「善無ク悪無キハ是レ心ノ体」といい、心の本体というものは絶対的で宇宙の真理であるから、善悪を超越したものだ、というのである。第二に「善アリ悪アルハ是レ意ノ動」と言うのは陽明学における倫理学的な側面であって、善と悪が対立してきたときには必ず意志が動いてくる、また意志が動いてきたときにはすでに善悪の差別が生じてくる、意志がなければ善と悪の対立を道徳的行為にもちきたせることはできない、ということである。第三に「善ヲ知り悪ヲ知ル、是レ良知」というのは、良知が善悪を識別する良心的作用であると言っているわけであるが、良知がいわゆる良心の作用だけにとどまらないことは、前にも述べた通りである。第四の「善ヲ成シ悪ヲ去ル、是レ格物」というのは『大学』の格物致知の解釈であるが、それは単に善を行なうということだけではなく、また悪を退けて善を勧めるということだけでもない。認識それ自体の効用を認めない陽明は、格物ということ自体に万物の理を行動即認識の裡にきわめるということを意味しているのである。
 王陽明の哲学の中には、後代、西洋哲学とも類似するようなさまざまな萌芽があるが、簡単にいえば一元的唯心論であって、朱子哲学の二元的実在論と対立するものである。それは中国でも実際行動の上に大きな効果があったが、日本に移入されてから一層めざましく発展し、中江藤樹、熊沢蕃山を始めとして、林子平梁川星巌、大塩中斎、佐藤一斎、また西郷南洲横井小楠、真本和泉守、雲井竜雄、その他明治維新をいろどる幾多の偉大な星を、この思想は生んだ。
 ー以上の如きが、井上哲次郎博士の陽明学に対する概論である。
 そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに立てこもううとする人は、この狂熱を避けて通る。
 もちろん、認識と行動との一致ということを離れて考えてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては古人がすでに二つの道を用意していた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいわゆる脱自、陶酔、恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するという方法である。これは哲学の中の二つの潮流を形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表われとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現われた。
 陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである。私がこう言うのは、学間によってではなく行動によって今日までもっとも有名になっている大塩平八郎のことをいま思いうかべるからだ。
 大塩平八郎については、森鴎外に『大塩平八郎』という作品があるが、このすばらしい文章で書かれた中篇の傑作にも、隙間風が吹いていることは否定できない。これは当然の話で、あくまでもアポロン的な鴎外は、大塩平八郎ディオニュソス的な行動に対して十分な感情移入をなしえず、むしろ一揆鎮圧に当った有能な与力坂本鉉之助のほうに視点をおいているのである。鴎外の自分が描く人物に対する共感は、多くはその人間が止むをえざる受身の行動をするときにかぎっている。『阿部一族』は我慢に我慢を重ね、忍耐に忍耐を重ねて爆発した行動によって鴎外に認められたのであり、『堺事件』もまた罪なくして責めを負った若い武士達の切腹に対する同情によって描かれ、『興津弥五右衛門の遺書』における乃木大将への心酔も、同じようなパッシヴな情熱への感情移入によるものであった。
 しかし大塩は違う。大塩の行動は義によって立ったとはいいながら、その蜂起の二つの大目的、腐敗した権力者の打倒と貧民救済とは、二つながら果しえず、むしろすべて逆目に出た。返り忠をした裏切り者がとりたてられ、大坂の無辜(むこ)の市民は暴動によって理不尽な損害を受け、しかも大塩の行動自体は完全な失敗に終ったのである。徒党の一昧は惨憺たる結末をとげ、平八郎親子も火の中で自らの命を絶った。こうした行動の無効性、反社会性について鴎外は批判的なのである。

 

 三島曰く

  陽明学を革命の哲学だというのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとしたものだからである。私がこう言うのは、学間によってではなく行動によって今日までもっとも有名になっている大塩平八郎のことをいま思いうかべるからだ。

 

吉田松陰曰く

 

 夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。

私心さえ除き去るなら、
進むもよし
退くもよし、
出るもよし
出ざるもよし。

一日一字を記さば
一年にして三百六十字を得、
一夜一時を怠らば、
百歳の間三万六千時を失う。

大器をつくるには、
いそぐべからずこと。

人間はみな
なにほどかの純金を持って生まれている。
聖人の純金もわれわれの純金も
変わりはない。

小人が恥じるのは自分の外面である、
君子が恥じるのは自分の内面である。
人間たる者、
自分への約束をやぶる者が
もっともくだらぬ。
死生は度外に置くべし。
世人がどう是非を論じようと、
迷う必要は無い。
武士の心懐は、
いかに逆境に遭おうとも、
爽快でなければならぬ。
心懐爽快ならば人間やつれることはない。

今日の読書こそ、
真の学問である。

みだりに人の師となるべからず。
みだりに人を師とすべからず。

一つ善いことをすれば、
その善は自分のものとなる。
一つ有益なものを得れば、
それは自分のものとなる。
一日努力すれば、
一日の効果が得られる。
一年努力すれば、
一年の効果がある。

道を志した者が
不幸や罪になることを恐れ、
将来につけを残すようなことを
黙ってただ受け入れるなどは、
君子の学問を学ぶ者がすることではない。

大事なことを任された者は、
才能を頼みとするようでは駄目である。
知識を頼みとするようでも駄目である。
必ず志を立てて、
やる気を出し努力することによって
上手くいくのである。

過ちがないことではなく、
過ちを改めることを重んじよ。

自分の価値観で人を責めない。
一つの失敗で全て否定しない。
長所を見て短所を見ない。
心を見て結果を見ない。
そうすれば人は必ず集まってくる。

平凡で実直な人間などいくらでもいる。
しかし、事に臨んで大事を断ずる人物は
容易に求めがたい。
人のわずかな欠陥をあげつらうようでは、
大才の士は、もとめることが出来ない。


学問とは、
人間はいかに生きていくべきかを
学ぶものだ。

志定まれば、
気盛んなり。

決心して断行すれば、
何ものもそれを妨げることはできない。
大事なことを思い切って行おうとすれば、
まずできるかできないかということを
忘れなさい。

人間には精気というものがあり、
人それぞれに精気の量は決まっている。
この精気なるものは抑制すべきである。
抑制すればやがて溢出する力が大きく、
ついに人間、狂にいたる。
しかし、おのれの欲望を解放することによって、
固有の気が衰え、
ついに惰になり、
物事を常識で考える人間になってしまう。

君子は何事に臨んでも、
それが道理に合っているか否かと考えて、
その上で行動する。
小人は何事に臨んでも、
それが利益になるか否かと考えて、
その上で行動する。

敵が弱いように、
敵が衰えるようにと思うのは、
皆、愚痴もはなはだしい。
自分に勢いがあれば、
どうして敵の勢いを恐れようか。
自分が強ければ、
どうして敵の強さを恐れようか。

 

至誠にして動かざる者は
未だこれ有らざるなり。

17、18の死が惜しければ、
30の死も惜しい。
80、90、100になっても
これで足りたということはない。
半年と云う虫たちの命が短いとは思わないし、
松や柏のように
数百年の命が長いとも思わない。
天地の悠久に比べれば、
松柏も一時蠅(ハエのような存在)なり。

世の中には体は生きているが、
心が死んでいる者がいる。
反対に、体が滅んでも
魂が残っている者もいる。
心が死んでしまえば生きていても、
仕方がない。
魂が残っていれば、
たとえ体が滅んでも意味がある。

学問をする眼目は、
自己を磨き
自己を確立することにある。

学問の上で大いに忌むべきは、
したり止めたりである。
したり止めたりであれば、
ついに成就することはない。

人を観察するのは、
目によってする。
胸の中が正しいか、正しくないかは、
瞳が明るいか、暗いかによって分かる。

今の世の中、
優れた人物がいないと人は言うが、
上の者が優れている人物を
好むということさえすれば、
人物がいないことを
心配する必要はない。

教えるの語源は「愛しむ」。
誰にも得手不手がある、
絶対に人を見捨てるようなことを
してはいけない。

人を信ずることは、
もちろん、遥かに人を疑うことに
勝っている。
わたくしは、人を信じ過ぎる
欠点があったとしても、
絶対に人を疑い過ぎる欠点は
ないようにしたいと思う。

どんな人間でも
一つや二つは素晴らしい能力を
持っているのである。
その素晴らしいところを
大切に育てていけば、
一人前の人間になる。
これこそが人を大切にするうえで
最も大事なことだ。

死して不朽の見込みあらば
いつでも死すべし、
生きて大業の見込みあらば
いつでも生くべし。

奪うことができないものは志である。
滅びないのはその働きである。

成功するせぬは、
もとより問うところではない。
それによって世から
謗されようと褒められようと、
自分に関することではない。
自分は志を持つ。
志士の尊ぶところは何であろう。
心を高く清らかにそびえさせて、
自ら成すことではないか。

賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。
責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、
真の忠臣孝子である。
武士たるものが覚悟すべきこと、
実にこの一点にある。

悔いるよりも今日直ちに決意して、
仕事を始め技術をためすべきである。
何も着手に年齢の早い晩いは
問題にならない。

思想を維持する精神は、
狂気でなければならない。

英雄はその目的が達成されないときには
悪党や盗人とみなされるものだ。
世の中の人から馬鹿にされ、
虐げられたときにこそ、
真の英雄かどうかがわかる。

法律をやぶったことについてのつぐないは、
死罪になるにせよ、
罪に服することによってできるが、
もし人間道徳の根本義をやぶれば、
誰に向かってつぐないえるか、
つぐないようがないではありませぬか。

人間が生まれつき持っているところの
良心の命令、
道理上かくせねばならぬという
当為当然の道、
それはすべて実行するのである。

利をうとんずるといふ事は、
必ずしも富を厭ひ
貧を欲するといふ事ではない。
貧富によりて少しも心を
みださないといふことである。
親思う心にまさる親心。

満開となれば、
やがて花は落ちる。
太陽は南中すれば、
やがて陰りはじめる。
人は壮年を迎えれば、
やがて老いていく。
百年の間、
必死で勉強すべきであり、
ゆったりとくつろぐ暇などない。

だいたいにおいて
世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、
あてにならぬものである。