『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』[編集]
第一委員会は1941年に6月に『現下情勢ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』という機密報告書をまとめた[4]。内容は「速に和戦孰れかの決意を明定すべき時機に達せり」「(米英蘭が石油供給を禁じたる場合)猶予なく武力行使を決意するを要す」「泰仏印に対する軍事的進出は一日も速に之を断行する如く努るを要す」「(政府及陸軍に対し)戦争決意の方向に誘導するを要す」としている。
永野修身(当時軍令部総長)は1941年5月頃まではそれほど開戦に積極的ではなかったが、この資料により非常に強い影響を受けて以来非常に強硬になったと佐薙毅は証言している。 この後歴史は仏印進駐、対日石油禁輸、開戦とこの通りに展開した。 『日本海軍400時間の証言 -軍令部・参謀たちが語った敗戦』新潮社 新潮文庫

ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電


ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電
アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルト
訳:日本国外務省
1941年12月6日作成

日本国 天皇陛下
約一世紀前米国大統領ハ日本国 天皇ニ対シ書ヲ致シ米国民ノ日本国々民ニ対スル友交ヲ申出タル処右ハ受諾セラレ爾来不断ノ平和ト友好ノ長期間ニ亘リ両国民ハ其ノ徳ト指導者ノ叡智ニヨリテ繁栄シ人類ニ対シ偉大ナル貢献ヲ為セリ
陛下ニ対シ余カ国務ニ関シ親書ヲ呈スルハ両国ニ取リ特ニ重大ナル場合ニ於テノミナルカ現ニ醸成セラレツツアル深刻且広汎ナル非常事態ニ鑑ミ玆ニ一書ヲ呈スヘキモノト感スル次第ナリ
日米両国民及全人類ヲシテ両国間ノ長年ニ亘ル平和ノ福祉ヲ喪失セシメントスルカ如キ事態カ現ニ太平洋地域ニ発生シツツアリ右情勢ハ悲劇ヲ孕ムモノナリ米国民ハ平和ト諸国家ノ共存ノ権利トヲ信シ過去数ヶ月ニ亘ル日米交渉ヲ熱心ニ注視シ来レリ吾人ハ支那事変ノ終息ヲ祈念シ諸国民ニ於テ侵略ノ恐怖ナクシテ共存シ得ルカ如キ太平洋平和カ実現セラレンコトヲ希望シ且堪ヘ難キ軍備ノ負担ヲ除去シ又各国民カ如何ナル国家ヲモ排撃シ若クハ之ニ特恵ヲ与フルカ如キ差別ヲ設ケサル通商ヲ復活センコトヲ念願セリ右大目的ヲ達成セシカ為ニハ 陛下ニ於カレテモ余ト同シク日米両国ハ如何ナル形式ノ軍事的脅威ヲモ除去スルコトニ同意スヘキコト明瞭ナリト信ス
約一年前 陛下ノ政府ハ「ヴイシー」政府ト協定ヲ締結シ之ニ基キ北部仏領印度支那ニ同地北方ニ於テ支那軍ニ対シ行動シ居リタメ日本軍保護ノ為ニ五、六千ノ軍隊ヲ進駐セシメタリ、而シテ本年春及夏「ヴイシー」政府ハ仏領印度支那共同防衛ノ為メ更ニ日本部隊ノ南部仏印進駐ヲ許容セリ
余ハ仏領印度支那ニ対シ何等ノ攻撃行ハレタルコトナク又攻撃ヲ企図セラレタルコトナシト言明シテ差支ナシト思考ス
最近数週間日本陸海空軍部隊ハ夥シク南部仏領印度支那ニ増強セラレタルコト明白トナリタル為メ他国ニ対シ印度支那ニ於ケル集結ノ継続カ其ノ性質上防御的ニ非ストノ尤モナル疑惑ヲ生セシムルニ至レリ
右印度支那ニ於ケル集結ハ極メテ大規模ニ行ハレ又右ハ今ヤ同半島ノ南東及南西端ニ達シタルヲ以テ比島、東印度数百ノ島嶼、馬来及泰国ノ住民ハ日本軍カ之等地方ノ何レカニ対シ攻撃ヲ準備乃至企図シ居ルニ非スヤト猜疑シツツアルハ蓋シ当然ナリ之等住民ノ総テカ抱懐スル恐怖ハ其ノ平和及国民的存立ニ関スルモノナルカ故ニ斯ル恐怖ハ当然ナルコトハ 陛下ニ於カレテモ御諒解アラセラルル所ナリト信ス余ハ攻撃措置ヲ執リ得ル程度ニ人員ト装備トヲ為セル陸、海及空軍基地ニ対シ米国民ノ多クカ何故ニ猜疑ノ眼ヲ向クルカヲ 陛下ニ於カセラレテハ御諒解相成ルヘシト思惟ス
斯ル事態ノ継続ハ到底考ヘ及ハサル所ナルコト明カナリ余カ前述シタル諸国民ハ何レモ無限ニ若クハ恒久ニ「ダイナマイト」樽ノ上ニ座シ得ルモノニ非ス
若シ日本兵カ全面的ニ仏領印度支那ヨリ撤去スルニ於テハ合衆国ハ同地ニ侵入スルノ意図毫モナシ
余ハ東印度政府、馬来諸政府及泰国政府ヨリ同様ノ保障ヲ求メ得ルモノト思考シ且支那政府ニ対シテスラ同様保障ヲ求ムル用意アリ斯クシテ日本軍ノ仏印ヨリノ撤去ハ全南太平洋地域ニ於ケル平和ノ保障ヲ招来スヘシ
余カ 陛下ニ書ヲ致スハ此ノ危局ニ際シ 陛下ニ於カレテモ余ト同様暗雲ヲ一掃スルノ方法ニ関シ考慮セラレンコトヲ希望スルカ為ナリ、余ハ 陛下ト共ニ日米両国民ノミナラス隣接諸国ノ住民ノ為メ両国民間ノ伝統的友誼ヲ恢復シ世界ニ於ケル此ノ上ノ死滅ト破壊トヲ防止スルノ神聖ナル責務ヲ有スルコトヲ確信スルモノナリ
千九百四十一年十二月六日
          「ワシントン」ニ於テ
            「フランクリン・デイ・ルーズヴエルト」
12月6日 ローズベルト大統領→天皇陛下宛緊急電信原文
President Roosevelt to Emperor Hirohito of Japan [94], 6 December 1941
________________________________________
[WASHINGTON,] December 6, 1941
Almost a century ago the President of the United States addressed to the Emperor of Japan a message extending an offer of friendship of the people of the United States to the people of Japan. That offer was accepted, and in the long period of unbroken peace and friendship which has followed, our respective nations, through the virtues of their peoples and the wisdom of their rulers have prospered and have substantially helped humanity.
Only in situations of extraordinary importance to our two countries need I address to Your Majesty messages on matters of state. I feel I should now so address you because of the deep and far-reaching emergency which appears to be in formation.
Developments are occurring in the Pacific area which threaten to deprive each of our nations and all humanity of the beneficial influence of the long peace between our two countries. These developments contain tragic possibilities.
The people of the United States, believing in peace and in the right of nations to live and let lives have eagerly watched the conversations between our two Governments during these past months. We have hoped for a termination of the present conflict between Japan and China.
We have hoped that a peace of the Pacific could be consummated in such a way that nationalities of many diverse peoples could exist side by side without fear of invasion; that unbearable burdens of armaments could be lifted for them all; and that all peoples would resume commerce without discrimination against or in favor of any nation.
I am certain that it will be clear to Your Majesty, as it is to me, that in seeking these great objectives both Japan and the United States should agree to eliminate any form of military threat. This seemed essential to the attainment of the high objectives.
More than a year ago Your Majesty’s Government concluded an agreement with the Vichy Government by which five or six thousand Japanese troops were permitted to enter into Northern French Indochina for the protection of Japanese troops which were operating against China further north. And this Spring and Summer the Vichy Government permitted further Japanese military forces to enter into Southern French Indochina for the common defense of French Indochina. I think I am correct in saying that no attack has been made upon Indochina, nor that any has been contemplated.
During the past few weeks it has become clear to the world that Japanese military, naval and air forces have been sent to Southern Indo-China in such large numbers as to create a reasonable doubt on the part of other nations that this continuing concentration in Indochina is not defensive in its character.
Because these continuing concentrations in Indo-China have reached such large proportions and because they extend now to the southeast and the southwest corners of that Peninsula, it is only reasonable that the people of the Philippines, of the hundreds of Islands of the East Indies, of Malaya and of Thailand itself are asking themselves whether these forces of Japan are preparing or intending to make attack in one or more of these many directions.
I am sure that Your Majesty will understand that the fear of all these peoples is a legitimate fear in as much as it involves their peace and their national existence. I am sure that Your Majesty will understand why the people of the United States in such large numbers look askance at the establishment of military, naval and air bases manned and equipped so greatly as to constitute armed forces capable of measures of offense.
It is clear that a continuance of such a situation is unthinkable. None of the peoples whom have spoken of above can sit either indefinitely or permanently on a keg of dynamite.
There is absolutely no thought on the part of the United States of invading Indo-China if every Japanese soldier or sailor were to be withdrawn therefrom.
think that we can obtain the same assurance from the Governments of the East Indies, the Governments of Malaya and. the Government of Thailand. I would even undertake to ask for the same assurance on the part of the Government of China. Thus a withdrawal of the Japanese forces from Indo-China would result in the assurance of peace throughout the whole of the South Pacific area.
I address myself to Your Majesty at this moment in the fervent hope that Your Majesty may, as I am doing, give thought in this definite emergency to ways of dispelling the dark clouds. I am confident that both of us, for the sake of the peoples not only of our own great countries but for the sake of humanity in neighboring territories, have a sacred duty to restore traditional amity and prevent further death and destruction in the world.
FRANKLIN D. ROOSEVELT
F・Dルーズベルトアメリカ合衆国大統領から昭和天皇にあてた戦争回避の親電の翻訳 
約一世紀前、米国大統領は日本の天皇に親書を送り、日米両国民の友好関係を呼びかけました。この呼びかけが受け入れらて以来、両国の平和と友好関係は長年続きました。それぞれの国民の徳と賢明な両政府のおかげで、両国は繁栄し続け人類平和にも大きく貢献しました。
だが、両国が非常事態に直面していると考えるからこそ、あえて今、陛下に現状認識の必要性を訴えることに駆られています。ことは重大で広範囲に影響を及ぼす緊急事態が刻々と差し迫っていると感じるからです。
両国の長期平和関係は両国に恩恵をもたらすだけでなく、全世界平和や人類繁栄にも貢献できるものですが、今、太平洋地域で起こりつつある緊急事態によって危ぶまれております。この緊急事態は悲惨な結果を引き起こすかもしれません。
米国民は平和を重んじ国民の生きる権限を重視する眼差しで、この数カ月間の日米政府のやり取りを強い関心を持って見守ってきました。米国民は日中間の戦闘が集結することを望んでおりました。また、太平洋地域においても、この地域の国々が他国の侵攻を憂慮することなく隣国同士共存でき、軍備保持という過酷な重圧からも開放され、そして差別措置や優遇措置などの存在しない通商関係が再開される形で同地域に平和がもたらされることを望んでいました。
私にとって明快であるように、陛下にとってももう明快だと確信していますが、これらの命題を成就させるために、日米両国はいかなる軍事的挑発行為を互いに行わないことに同意すべきです。これが命題解決には必須だと感じます。
一年以上前、陛下の政府はヴィシー政権と条約を結びました。北部仏印の北部奥地で中国軍と交戦中の日本軍に援軍を送り込むという名目で日本軍兵士5、6千人を北部仏印に配備するという条約です。だが、今年春と夏にはさらにヴィシー政権は、仏印全体の防衛という名目で日本軍が南部仏印にも軍備を配備することを認めました。
もっかのところ、仏印に戦火は勃発しておらず、そのような計画もないだろうことは間違いないでしょう。だが、周辺国が疑問視するほど大量の日本陸海空軍が南部仏印にも配備されたことで、日本軍の仏印における継続的軍備増強はもはや防衛目的ではないだろうことは、世界にとってこの数週間で明白となっています。日本軍の仏印での継続的な軍備増強は膨大な規模にまで達しており、またインドシナ半島の南東と南西の端から端まで占めているため、フィリピンや西インド諸島、マレーシア、タイの人々が、これら日本軍勢力が各々の国や周辺国への侵攻を虎視眈々と練っているのではないだろうかと憂慮するのもごく当然のことです。これらの国々にとっては国の存亡や平和維持がかかっているため、ごく正当な脅威であることは陛下も理解していることと思います。また、多くの米国人が、膨大な規模の兵士と軍備を配備した陸海空軍基地は、攻撃さえも可能な軍事力だと疑ってかかる理由も陛下は理解できることと思います。この現状が続行するのが許しがたいことは明白です。また、このことに憂慮を示したどの国も、固唾を呑んでいつまでも危険を見守っているわけには行きません。
ですが、もし、全ての日本軍兵士・軍人が仏印から撤退するのなら、米国が仏印を侵略する意思は一切ありません。また、東インド政府とマラヤ政府(マレーシア)、タイ政府からも同様の保証を取り付けることが可能だと考えています。さらには、同様の保証を中国政府から得られるよう中国政府に働きかけることもやぶさかではありません。日本軍の仏印からの撤退は南太平洋全体の平和維持にも繋がるでしょう。
陛下がこの非常事態を勘案し、私が提案するこの「暗雲を払拭する方法」を検討なさることを熱望していることを、この場を借りて力説いたします。超大国である両国の国民のためだけでなく、周辺諸国の平和のためにも、陛下と私は、これまで培ってきた両国の友好関係を復元し、これ以上の惨事や破壊を地球上から阻止する神聖な責務を負っております。
フランクリン・D・ルースベルト
翻訳 S・Fujimoto

ルーズベルト親電」伝達遅れ、GHQ徹底調査
 外務省は7日、昭和16年の真珠湾攻撃直前にルーズベルト大統領が昭和天皇に宛てた親電の伝達が遅れた経緯に関する連合国軍総司令部(GHQ)国際検察局による調査実態の記録を含む外交文書ファイル72冊を公開した。国際検察局が終戦後、外務省担当者らに事情聴取を行い、詳細な経緯を調査していたことなどが明らかになった。
 外務省が作成した昭和21年8月1日付の文書によると、国際検察局は親電が早期に届けられれば戦争回避が可能だったと認識しており、開戦当時の東郷茂徳外相が伝達を遅らせたとして開戦責任の証拠固めをしたと分析している。
 ルーズベルト親電をめぐっては、平成16年に元ニュージーランド大使の井口武夫尚美学園大教授(当時)が、グルー駐日米大使に配達される前に東郷外相が解読していた可能性を指摘。親電の内容を受けて日米開戦の最後通告を修正したため、開戦通告は真珠湾攻撃の約1時間後になったとしている。国際検察局側の認識は井口氏の議論と重なっており、対米通告遅延の論争に一石を投じそうだ。
 国際検察局の職員2人は昭和21年8月1日、外務省の電信官2人を尋問した。国際検察局の2人は東郷外相の名前を出しながら、親電配達が遅れた経緯や、事前に外務省が解読した上で陸海軍に送付した事実の有無を質問した。電信官2人は「本件親電には何等関係がなかった」「斯かる事実ありたるを知らざる」と回答した。
 文書では聴取を受けた印象として、国際検察局側が「東郷外務大臣は親電を解読したものを事前に見ているに違いない。この電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることが出来た」と認識していると指摘。さらに「検事(ママ)局側の同大臣の開戦責任に関する証拠固めを目的とするものの如く観取せられた」と分析している。
 東郷外相は終戦後、極東軍事裁判でいわゆる「A級戦犯」として禁錮20年の刑を言い渡され、服役中の25年7月に死亡。53年10月、靖国神社に合祀(ごうし)された。

ルーズベルト親電 日米開戦直前に昭和天皇に宛てた親電で、日本に和平を呼びかける一方、日本軍の仏印からの全面撤退を要求する内容。日本時間12月7日正午、東京電報局に到着。グルー駐日米大使に配達されたのは10時間以上遅れの同日午後10時半だった。親電は8日午前0時半にグルー大使から東郷茂徳外相に手渡され、東條英機首相が同2時半に昭和天皇に親電全文を読み上げた。

南部仏印

独ソ戦の勃発を受けるかたちで御前会議が行われた。ここで決められた国策は、南進か北進かに集中され、日本が南部仏印(フランス領インドシナ・現ラオスカンボジア付近)に手を出せばアメリカは参戦するかが主要問題となった。統帥部参謀総長杉山元は『ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う』と報告し、最後には南部仏印の進駐を了承される。
ドイツによりフランス本国は潰れてしまいます。そこで仏印は潰れたフランスの植民地だから、これを誰が拾うかわからない。 先ず、第一に資格のあるのはドイツです。フランスのビシー政府を自分のかいらい政府にしているからです。ドイツは今のところ欧州の戦争で手が伸びないが、将来これを取るかもしれない。また、フランスにはイギリスの庇護下にドゴールという政権がある。このドゴール政権が英米仏印管理を依頼したとして、米国が引き受けたということにでもなれば、支那事変はいよいよ永久に解決しない。だから誰が拾うかわからないものなら、一歩を先んじて進駐したのです。当時ドイツが勝つと思っていたんです。これらの植民地は戦争を継続するために必要なゴム、石油などの重要な資源の産地です。そして南部仏印に侵攻して、これを根拠地として英米と戦争が突入しても、数日でマレー、ジャバの一角に上陸し、これらを攻略する積りであったのです。アメリカは南部仏印を占領するならば重大結果を招くであろうと警告を日本に対して与えていたのです。日本の日米開戦のシナリオはすべてドイツがイギリスを下せばアメリカも日本に妥協するという、非常に日本に都合のよい前提で立てられていたのです。
ちなみに、大日本帝国海軍は日米決戦を想定して軍事予算を得ていたのです。アメリカの戦力を熟知していたので、海軍は戦争をしたくなかったが、出来ないということを表明しなかったのです。つまり、メンツですね。だから、どうせやるのなら、アメリカとの戦力がひらく前に、短期決戦でアメリカ太平洋艦隊を潰すしかなかったのです。

ゼロからの出発と対外不平等の半世紀

第1章 ゼロからの出発と対外不平等の半世紀

第1節 安政の五か国条約

⑴ 条約の締結

安政 5 年(1858)、徳川幕府アメリカをはじめとする欧米各国との間で次々に通商条 約を締結した。翌安政 6 年(1859)には横浜、長崎、箱館(函館)の 3 港(注 1)が開港 し、それぞれの港に税関の前身である運上所が設置された。 日米修好通商条約は 14 か条の条文から成り、公使の江戸駐在、領事の開港地駐在、神 奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂(大阪)の開市、自由貿易、協定関税制、領 事裁判権(注 2)、外国人居留地の設定等に関する規定が設けられた。また条約に付属する 文書として貿易章程が定められ、輸入税及び輸出税の具体的内容や通関手続等について規 定された。同条約に続き、同じ年にオランダ、ロシア、イギリス及びフランスとの間にも 同様の条約(いわゆる「安政の五か国条約」)が締結され、その後、さらにプロシア、ポ ルトガル等とも同様の条約が締結された。これにより我が国は急速に開国への途を歩むに 至ったが、これらの条約は、外国人に居留地内での領事裁判権を認め(治外法権の付与) 、 関税についても我が国に税率の決定権を与えず、外国と相互に協議して定める協定関税制 を採用し(関税自主権の欠如)、しかも片務的な最恵国約款(注 3)が付されているという 極めて不平等な内容を抱えていたので、後に述べるように(25 頁の第 7 節⑴参照)我が 国外交は、これらの不平等が撤廃される明治の末に至るまで、大変な重荷と苦痛を抱え続 けていくことになるのである。

⑵ ハリスとの交渉経緯

ペリーと日米和親条約 ところで、開国と言えば、多くの方々はペリー(Matthew Calbraith Perry,1794~1858) を思い出し、ペリーと言えば、黒船の来航や砲艦外交(gunboat diplomacy)といった言 葉を思い起こされるであろう。次の有名な狂歌は、4 隻の黒船の来航にあわてふためくそ の当時の日本人の様子を実に見事に描写している。 「泰平のねむりをさます正 じょう (上)喜撰 きせん たった四はいで夜もねられず」 ここで上喜撰というのは上質な茶の銘柄であり、それを飲むと神経が高ぶって眠れない。 言うまでもなく、これを蒸気船(=黒船)にかけているわけである。 条約を締結するために翌年再来日したペリーに対して、アメリカの本国政府は、彼が威 嚇的でともすれば武力に頼ろうとしがちなのを抑えて、その使命は平和的交渉にあるとし、 防禦のほかには武力に訴えてはならない旨指示していた。しかし、武力を行使するまでも なく、ペリーの断固たる態度とアメリカ海軍の軍事力を背景にした露骨な示威行動は、幕 閣に対してその意図どおりに大いなる恐怖心を与え、鎖国日本の扉を極めて強引な形でこ じあけてしまったのである。

ハリスの交渉態度とその背景 このような驚天動地の騒ぎのうちに安政元年(1854)、ペリーによってほとんど力ずく で結ばせられた日米和親条約に比べて、その 4 年後(安政 5 年)の日米修好通商条約は、 かなり平和友好裡に締結交渉が進められた。アメリカ側は下田駐在総領事のタウンゼンド・ハリス(Tounsend Harris,1804~78)が代表をつとめ、幕府側は積極開国論を唱える 論客・岩瀬忠震 ただなり (文政元年(1818)~文久元年(1861))と交渉力に優れた井上清 きよ 直 なお (文 化 6 年(1809)~慶応 3 年(1867))(注 4)が全権委員に任じられた。双方の代表は、時 には相手方と厳しく対立することはあっても、お互いを深く信頼し合いながら筋道を立て て条約の締結交渉を進めていった。 ハリスは最初から、幕府に対して日本が貿易をすることの利を説くとともに、イギリス の侵略性・危険性を強調し、イギリスがやって来る前にアメリカと平和的・友好的な条約 を締結する方が得策であると持ちかけた。確かに当時のイギリスはあへん戦争(1840~42) で清を食い物にし、続くアロー戦争(1857~60)でも清をどんどん不利な状況に追いやっ ていた。インドではセポイの乱インド大反乱。1857~59)が契機となってムガール帝国 が廃され、イギリスによる植民地化が完成しつつあった。そうした中でイギリスがまだ日 本に手をつけていなかったのは、同国がたまたま清などとの紛争に手を取られていて、し かも市場の有望性という点から見れば、当時の日本には清などに優先して軍事力を割かな ければならないほどの魅力があるとは考えていなかったためである。しかしイギリスにと っては、そのうちに余裕ができれば日本にやって来て通商を迫ることは既定の路線であっ た。

ハリスからの好意的な提案 そうした情勢を背景にしながら、ハリスは、アメリカはイギリスのような領土的野心を 持っていないことを強調し、その証として条約の交渉過程で日本側に有利になるような条 件をあえて持ち出した。例えば条約第 2 条には「日本国と欧羅 ヨーロ 巴 ッパ 中の或る国との間に差障 さしさわり 起る時は日本政府の嘱 もとめ に応じ合衆国の大統領和親の 媒 なかだち と為りて扱ふべし」という規定が あるが、これは、日本とヨーロッパのある国との間に差し障りが起きたときには、アメリ カが日本のために仲をとりもってやりましょうという意味であり、国際的な法規範として はさしたる価値はないものの、アメリカの日本に対する好意を十分に印象づけるものであ った。また、条約第 4 条には「阿片の輸入厳禁たり」という規定があるが、これもハリス の側から持ち出したものであった。ハリスはあへん問題を利用して幕府のイギリスに対す る警戒心と反発心をかきたて、アメリカを信頼すべきパートナーとして売り込むことによ って条約締結交渉を自分の方に有利に運ぼうとしたのである。さらに、貿易章程には輸出 入品に対する関税率が規定されているが、これはハリスが交渉の過程で貿易による課税上 の利益(歳入の確保)を説いた手前もあって、日本側の言い値(主要輸入品目に対して 12.5%)より高い関税率(20%)を提示して日本により多くの関税収入を得させようとした ためである。 このようなハリスの交渉態度について、幕末・明治のイギリス外交官アーネスト・サト ウ(Ernest Mason Satow,1843~1929)は次のようなイギリス人ならではの見解を述べて いる。 「アメリカ人は、こうした古い時代の受難(当方注 独立戦争)をよく覚えていたので、世 界空前の大貿易と大海運を擁する強国(訳者注 イギリス)に対抗しがたい諸国に対しては、 自然同調する念が強かった。そして、独立権を守ろうとする東洋の諸国民に同情を寄せる と共に、これらの国々と親しく交際しておけば、通商上の特権を得る上に少なくともイギ リス人と同等の資格を得ることができるものと信じていた。この通商上の特権については、 アメリカ人はイギリス人に劣らぬ関心を有していたのである。 」(アーネスト・サトウ著、 坂田精一訳「一外交官の見た明治維新」より)  
国際法に無知だった幕府 ところで、アメリカがそのように日本に対して大変好意的であったとするならば、何故 に幕府は、後々になって自国を大いに苦しめる不平等な条約をそのアメリカと締結してし まったのであろうか。アメリカの「好意」は単に見せかけのものではなかったのか。 この点については、確かに、ハリスの巧妙な外交交渉技術といった要素を無視すること はできないかもしれない。しかし、やはり幕府にとってはあへん戦争以降のアジアの政治 情勢が大きな心理的圧迫要因となっていたであろうし、そもそも外国の軍事力・腕力とい うものが背景になかったならば、我が国が開国を迫られ、不平等な内容の条約を締結させ られるというようなことはなかったであろうと考えられるのである。 これに加えて、幕府側が国際法についておよそ無知だったという事情も考慮に入れなく てはならないであろう。通商条約で規定された事項のうち、領事裁判権治外法権)、協 定関税制(関税自主権の欠如)、片務的最恵国待遇などは我が国に著しい不平等を強いる ものであったが、交渉の過程においてこれらはほとんど議論の対象にならなかった。これ は、要はそれらの重要性について幕府の側にさしたる認識がなく、問題意識が全くと言っ てよいほど欠如していたからである。 これらのうち領事裁判権の問題については、既に日米和親条約第 4 条に、難破船員ある いは在日アメリカ人は、他の国におけるのと同様に自由で拘束されることなく、公正な法 律(「正直の法度」)に服するべきであるとの規定があり、それをハリスがさらに一歩推し 進めた日米協約(安政 4 年(1857)締結。下田協約ともいう)第 4 条には「日本人、亜米 利加人に対し法を犯す時は、日本之法度を以て日本司人罰し、亜米利加人、日本人へ対し 法を犯す時は、亜米利加之法度を以て、コンシュル・ゼネラール或はコンシュル罰すべし」 というように領事裁判権が明確に定められていた。現に幕府の方でも、外国人の裁判を我 が国の役人がやるなどというのはとても面倒なことだから、御免を蒙りたいというぐらい の考え方であったようであり、交渉の過程ではこの点についての議論はほとんどなされず にハリスが出した原案のとおりに決定された。また、アメリカに一方的に最恵国待遇を与 える片務的最恵国待遇についても日米和親条約第 9 条にこれを定めた規定があったが、通 商条約の草案にはこれを双務的なものとする条項があったにもかかわらず、幕府はハリス に輸出税の賦課を認めさせるのと引換えに、日本に対してアメリカの側から供与されるべ き最恵国待遇に係る規定をあっさりと放棄してしまった。さらに協定関税制についても、 幕府の側に何ら問題意識がなく、やすやすとこれを通してしまったのである。 こうした経緯も考慮に入れると、ハリスは、イギリスならばこういう条約にしたであろ うという不平等な内容の条約案をベースにしつつ、そこにアメリカならではの「好意」を もって少しだけ味つけをしたということであろう。しかしそれでも幕府は、あへん戦争の ような形で外国から直接的な武力行使を受けることもなく、南京条約(1842 年にイギリ ス・清間で結ばれた条約)よりも有利な条件で平和裡に通商条約を締結することができた。 国際法をよくわきまえていなかったとはいえ、幕府の外交手腕にも相当のものがあったと も評価しうるであろう。

⑶ 貿易に関する取決め

さて、条約のうち貿易に関する部分についてここで若干触れておきたい。 条約の締結交渉では、どの港を開港するか、江戸・大坂に外国人を住まわせるかなどと いった問題のほかに、会所貿易か自由貿易かということが大きな問題となった。当初幕府 側は、開港場に広い場所(交易場)を設置して内外人一同が品物を持ち寄り、互いに入札 して取引をする(居宅では取引をしない)という貿易仕法を主張した。これは従来長崎で行われてきた奉行所支配下の会所を通じる貿易取引のやり方に若干の変更を加えたもの で、既に安政 4 年(1857)の日蘭追加条約及び日露追加条約(注 5)でもオランダ及びロ シアに対して承認されていたものであった。ところがこれに対し、ハリスは取引に対して 役人が直接に介入することを嫌い、税金さえ払えば商人がどこでも自由に取引できるよう にすべきであるとの主張を強硬に行った。このハリスの決然たる態度が効を奏し、彼の唱 える自由貿易論が交渉のかなり早い段階であっさりと勝ちを収めた。 関税に関しては、前述のように、条約に付属する文書である貿易章程で定められた。そ の中で関税率については、輸入品のうち金銀、家財等は無税、食料、船具、石炭等は従価 5%、酒類は 35%、その他は 20%、輸出品はすべて従価 5%とされた。関税率以外の部分 はすべてハリスの案どおりとなった。貿易章程は、後の関税法及び関税定率法に相当する ものであるが、関税率が慶応 2 年(1866)の改税約書により引き下げられたことなどを除 くと、明治後期に条約の一部改正がなされて関税法等の法律が制定されるまでの実に約 40 年間(税率に関しては約 50 年間)、関税法規範として機能することになるのである。

第2節 横浜港の開港と神奈川運上所の設置

⑴ 横浜開港の経緯

岩瀬忠震の横浜開港論 安政元年(1854)に締結された日米和親条約の定めに基づき、下田駐在総領事としてハ リスが来日し、幕府との間で通商条約の締結に向けて交渉を行ったが、ハリスの条約草案 では、既に開港している下田と箱館のほか、大坂・長崎・平戸・京都・江戸・品川を開港・ 開市すること(ただし下田は江戸・品川の開港後閉鎖)が提案されており、神奈川あるい は横浜は開港の候補地には含まれていなかった。 ハリスとの交渉に先立ち幕府の側では老中首座・堀田正睦 まさよし (文化 7 年(1810)~元治元 年(1864))に外国事務取扱いを命じ、外務専任の閣老としていたが、この堀田に対して 横浜開港を求める開明的な意見書を提出したのが貿易取調御用を命じられていた目付・岩 瀬忠震(後に外国奉行等を歴任)であった。岩瀬はこの意見書の中で横浜開港を主張し、 大坂開港は絶対に避けなければならないとした。大坂は地理的にみて水陸両面における交 通の要衝で、我が国の商業の中心地であった。ここを基盤に全国の利権の 7、8 割を上方 商人が握っていたが、岩瀬は、これに外国貿易の利が加わると、江戸をはじめ全国が衰退 し大坂だけが繁栄するのではないかと懸念し、むしろ、江戸から適当な距離にある横浜を 開港して、全国の輸出品を江戸に輸送し外国からの輸入品は江戸を通じて全国に配給する というシステムによって、全国の利権を江戸に集中させ幕府の権力を強めるべきであると 主張した。岩瀬は明言していないが、大坂には西国雄藩の蔵屋敷が数多く存在しており、 上方にいったん外国との貿易を許すと、これら西国雄藩が勝手に貿易に乗り出して、その 動きにますます手がつけられなくなるということを懸念していたものと思われる。 岩瀬は条約締結に際しては幕府側の全権委員の一人として対米交渉にあたり、その結果、 日米修好通商条約には神奈川の開港が明記された。ただしその際、幕府としては横浜も含 めて「神奈川」と表現したつもりであった。条約上、単に「神奈川」とのみ表現されたの は、幕府の側で「神奈川・横浜」という煩雑な表現を避けようとしたためであるとみられ る。

横浜開港へ向けての幕府の決断と各国の抵抗 ところで、安政の五か国条約のうちの第四番目にあたる日英修好通商条約が締結されて 間もない安政 5 年(1858)8 月、幕府が外国奉行(同年 7 月に新設)の永井尚 なお 忠 むね 、井上清 直、堀利熙 としひろ 、岩瀬忠震及び目付の津田正路を派遣して実地に調査すると、神奈川湊は遠浅 (注 6)で良港としての条件を備えていないうえに、神奈川宿付近(注 7)は台地と海には さまれた地形で外国人居留地等を開設するだけの広さがないことがわかった。さらに東海 道沿いにあり交通の要衛であるため取締り上問題があることから、大老井伊直弼(文化 12 年(1815)~安政 7 年(1860)。安政 5 年(1858)4 月、大老に就任)を中心とする幕 府首脳は、神奈川宿ではなく横浜村を開港場として選定した(注 8、9)。実際、当時の幕府 の懸念は当たり、後に神奈川宿に近い東海道沿いの生麦村で生麦事件文久 2 年(1862)が起きることになる。 しかし当時、神奈川宿が開港場になると思っていたハリスら各国代表は、交通の便の悪 いそのような僻村の横浜が開港場となることに猛然と反発した。彼らは横浜で行う貿易の 発展性に疑問を持っただけでなく、横浜が出島化することについても強く警戒した。長崎 の出島が外国人にとってオランダ商館を半軟禁状態に置く極めて悪名の高い存在であっ たことから、各国の外交団は、横浜の町づくりが第二の出島を目指すものではないかとい う疑念を抱いたのである。 ハリスは自身の著書「日本滞在記」でも「神奈川は繁栄する町の様相を呈している。(中 略)江戸に一番近い港であり、江戸が外国貿易のために開かれるときには、非常に大切な 場所となるに相違ない」(坂田精一訳。安政 4 年 10 月 12 日の記録)と記し、神奈川宿に 多大の期待をかけていた。それだけに、神奈川宿に代えて横浜村が開港されることに大い に腹を立てたのである。イギリスの外交官サトウ(前出)によれば、その後ハリスは横浜 開港は約束違反であるとして領事の駐在を拒み、「自身もあくまでも反対をつづけて一歩 も横浜の地を踏まずに日本を去り、自分の誓いを貫いた」ということである(アーネスト・ サトウ著「一外交官の見た明治維新」より)。 では、神奈川か横浜かということが条約の締結交渉の過程で全く明らかにされていなか ったのかというと、そうではないようである。幕府側から神奈川を持ち出したとき、ハリ スが「横浜村も神奈川湾の中にあるのだから、同じく開かれるべきである」と述べたのに 対し、幕府側は「そのとおりにこれあり候」と明確に答えており、その点については両者 の間に争いはなかった。ただ、ハリスが当然のこととして神奈川湊がメインの港として開 港され、横浜は付け足しで開かれるぐらいに思っていたところ、案に相違して幕府が横浜 だけを開港場として選定してしまったものだから話がこじれてしまったのである。この点 について、条約の交渉当事者であった岩瀬忠震は、交渉の過程でハリスが条文の中に神奈 川・横浜と記したい旨を述べたのに対し、横浜を省いて単に神奈川とだけ書いておけば十 分であるとして了承を得た経緯があるので、「今さら神奈川湊を除外することはできない」 とハリスに同調する考え方を示したが、どうしても外国人を横浜に閉じ込めておきたい井 伊大老は、横浜のみを開港するという線で幕府内部の議論をまとめてしまった。こうして 幕府は、ハリスらの合意が得られないまま一方的に横浜開港の準備を進め、強引かつなし 崩し的にこれを既成事実化してしまった(注 10)。

開港日の設定 アメリカ、オランダとの条約では開港日は安政 6 年 6 月 5 日(新暦 1859 年 7 月 4 日) と定められた。その日はアメリカのイギリスからの独立記念日である。イギリス、ロシア との条約では 6 月 2 日(同 7 月 1 日)とされた。また、フランスとの条約では 7 月 17 日 (同 8 月 15 日)とされた。当時のフランスはナポレオン 3 世による第二帝政期であり、この日は皇帝の誕生日として国民的な祝典が行われる日であった。このように条約上は 様々な期日が開港日として設定されたが、実際には、最恵国約款によって 6 月 2 日(同 7 月 1 日)が開港日とされた。 開港の当日、特別な行事は何一つなかったというが、翌万延元年(1860)からは毎年、 記念行事が行われるようになった。その後我が国では明治 5 年(1873)に旧暦(陰暦)か ら新暦陽暦)への切替えが行われたが、横浜では明治 41 年(1908)までそのまま 6 月 2 日が開港記念日とされた。これが明治 42 年(1909)になると新暦に従って 7 月 1 日に 改められたが、昭和 3 年(1928)になって再び 6 月 2 日に戻された。これは、その前年の 6 月 2 日、開港 100 周年を記念して新築された開港記念横浜会館(現在の横浜市開港記念 会館)で大横浜建設記念式(第 2 章第 2 節(1)参照)が行われ、翌 3 年からは開港記念日 もその日に合わせることとされた、ということのようである。それ以来、横浜では 6 月 2 日を開港記念日としている。

⑵ 横浜開港場の建設と神奈川運上所の設置

神奈川奉行所の中核的機関としての運上所 幕府は安政 5 年(1858)7 月に海防掛を廃止して外国奉行を新設し、水野忠徳、永井尚 忠、井上清直、堀利熙、岩瀬忠震の 5 名をこれに当てた。しかし、安政の大獄により同年 9 月には岩瀬が、翌年 2 月には永井と井上がその職を追われ、彼らに替えて村垣範忠、酒 井忠行及び加藤則著 のりあき が新たに外国奉行に任命された。したがって、横浜の開港を控えて、 その準備は水野、堀、村垣、酒井、加藤という 5 名の外国奉行の手に委ねられることとな ったのである。 幕府は、安政 5 年(1858)10 月からこれら外国奉行神奈川奉行兼務の心得で交替で 神奈川に出張させていたが、繁忙のため、翌年 4 月からそのうちの 2 名を常駐させるよう になった。神奈川奉行が正式な役職として設置されたのは開港直後の安政 6 年(1859)6 月 4 日であり、当初は引き続き外国奉行との兼務であったが、翌年 9 月には専任制に切り 換えられた。神奈川奉行の下には地域(横浜、生麦、鶴見等の 9 町村)の政治・警察上の 事務を取り扱う戸部役所(現在の神奈川県立図書館付近に所在)と外交・通商上の事務を 取り扱う神奈川運上所(現在の神奈川県庁本庁舎所在地)とが置かれた。もとより神奈川 奉行の本来の設置目的は対外関係の円滑な処理にあったので、奉行所の職務内容や陣容は 運上所が中心であった。運上所では、今日の税関が行っている業務のほか、艦船の入出港 手続、洋銀両替、各国領事との交渉や外国人の取締りなどの幅広い任務に従事した。特に 軍事力を背景に強圧的な態度をとる各国領事との外交交渉や一部の山師的な悪徳外国商 人が引き起こす貿易上のトラブルの処理は、不平等条約というハンデを背負っている運上 所にとっては大変に厄介な問題であった。

開港場の建設 横浜開港場の建設は開港までの約 3 か月のうちに突貫工事で進められ、波止場、運上所、 役宅、道路、橋などが急ピッチで造成された。運上所の庁舎や関連施設は横浜開港場の中 心付近に設置・整備され、さらに運上所の海側の東西 2 か所には長さ 109m、幅 18m の石 積みの波止場が築かれた(注 11、12)。また、運上所をはさんで西側(資料 1 の地図では右 側)に日本人居住地、東側(同じく左側)に外国人居留地が形成された。造成した土地は 商人たちに賃貸された。その時期の様子について、日本に着任したばかりのイギリス総領 事ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock,1809~97。後に公使)は、開港場が 「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって」忽然と現れた、と表現してい る(ラザフォード・オールコック著、山口光朔訳「大君の都」より)。

こうして安政 6 年 6 月 2 日(新暦 1859 年 7 月 1 日)、横浜は無事開港し、同時に運上所 も仕事を始めたのである。初めて入港してきた船はアメリカのハード商会所属のワンダラ ー号(176 トン)であった。この船は 6 月 1 日には横浜に到着していたが、6 月 2 日を待 って入港手続を行ったという。 開港当初の横浜に出店した商人は、幕府から半強制的に出店させられた三井八郎右衛門 などの江戸の豪商や、関東甲信越等から新しい取引機会を求めて出て来た在方商人などで あった。後者の中には投機的な商人も多く、相場の変動等によりかなり多くの者が破綻し て早々に横浜から撤退していった。開港場にはそのほか、雑貨小売商や技術者・職人など 様々な職業を有する人々も集まって来た。 ところで、条約上は「其居留場の周囲に門墻 もんしょう を設けず出入自在にすべし」ということで あったが、開港直後に攘夷の志士による外国人殺傷事件が相次いで起きたため、間もなく 開港場に通ずる道には関門が設けられるようになった。さらに、翌万延元年(1860)には 開港場を防衛する観点から周囲の河川を延長して新たに運河が開削された。例えば元町や 山手のあたりはもともとは陸続きであったが、運河が開削されて切り離された。このよう な一連の工事により横浜開港場は周囲を河川や運河に囲まれ、あたかも長崎の出島のよう な観を呈するようになった。開港場と周辺地域の間には何本もの橋がかけられ、それぞれ の橋のたもとには関門番所が設けられた。後に、その内側が「関内」、外側が「関外」と 呼ばれるようになった(関門番所は明治 4 年(1871)に撤去)。

横浜開港と井伊直弼 幕末外交において華々しく活躍した開明派の岩瀬忠震らであるが、将軍継嗣問題も絡み、 極めて保守的な考え方の大老井伊直弼により、条約締結後、次々に左遷され(安政の大 獄)、開港時においてその地位を保っていたのは、開明派の中でもどちらかといえば保守 的な水野忠徳(注 13)らわずかを数えるのみであった。もともと井伊自身は開国そのもの には賛成で、老中・堀田正睦の動きを側面から支えたりもしていたのだが、他方、新規に 抜擢・登用された岩瀬忠震らの開明派が幕閣の中枢を占め、将軍継嗣問題でも紀州藩主・ 徳川慶福 よしとみ (後の第 14 代将軍家 いえ 茂 もち )を推す井伊らに対抗して一橋家の徳川慶喜 よしのぶ (水戸藩主・ 徳川斉 なり 昭 あき の子。後に第 15 代将軍)を推すなど活発な動きを見せているのを苦々しい思い で見ていた。その井伊が日米修好通商条約を勅許を得ないまま調印したというのは、ある 意味では開明派に引きずられ、大老という立場上そのようにせざるをえなかったというだ けのことであり、しかもこのことは本人にとっては甚だ不本意なことだったようである。
ところが、その井伊直弼が横浜開港時の幕閣の最高責任者であったということから、旧 彦根藩士らは井伊を横浜開港の恩人であると考え、明治 15 年(1882)頃からその銅像を 造立する動きを見せていた。市の有力者などからも助力の申し出があったようであるが、 これを断って旧藩士らだけで造立し、開港 50 周年を記念して明治 42 年(1909)、横浜市 の支援を得て銅像の除幕式を行った。 この除幕式の挙行にあたっては一波乱あった。井伊に対し強い反感を抱く明治政府の元 老たちがその業績を顕彰することに激しく反発したのである。そのうえ、当時の神奈川県 知事・周布 すふ 公平の父が長州の周布政之助(文政 6 年(1823)~元治元年(1864))であっ たことから、関係者は式の中止を要請した。これを受け、除幕式はいったんは延期された ものの、旧藩士らの巻き返しがあったのだろうか、間もなく実施に移された。なお、式の 数日後に銅像の首が切り落とされるという事件があったと言われる(例えば吉川英治著 「折々の記」参照)。しかし、この首切り事件については、当時の新聞に該当記事が見当 たらないこと等から、その真偽を疑う見方もある。いずれにしても、その真偽は定かでは ない。 大正 3 年(1914)には、庭園、銅像などの一切が井伊家から横浜市に寄贈され、一帯は 掃部山 かもんやま 公園と名付けられた。ところが昭和 18 年(1943)になると、戦時中の金属回収の ため銅像そのものが取り払われた。その際、勅許を得ずして通商条約を調印し、安政の大 獄を起こして吉田松陰をはじめとする勤王の志士を多数殺した悪逆無道の人間であると いう評価も加えられたようである。 現在の銅像は、開港 100 周年の記念行事の一つとして昭和 29 年(1954)に再建された ものである。

第3節 開港後の貿易と経済

⑴ 国内経済への影響

商品経済全体の活発化と一部地域・産業への打撃 開港後の横浜は急速な勢いで貿易港としての町並みを整え、貿易額も開港 2 年目の万延 元年(1860)から明治を迎えるまで連続して約 7~8 割を占め、我が国最大の貿易港とな った。 横浜港のシェアが高かった理由としては、日本の政治の中心であり一大消費地である江 戸、生糸の主要産地である関東・甲信、茶の産地である静岡を背後に有していたという立 地条件の有利性が挙げられる。
当時の主要輸出品は、生糸、茶、銅類等であった。特に生糸は横浜港の発展に大きく貢 献した品目で、開港以来昭和 16 年(1941)まで実に 83 年間連続で横浜港の輸出品目第 1 位を占めた。当時、世界における最大の生糸消費地はヨーロッパであったが、蚕の病気が 長期間蔓延したため、生産量が落ち込んでいた。さらに、最大の輸出国であった清からの 輸出量が、あへん戦争や太平天国の乱(1851~64)の影響により減少していた。丁度その 頃開国したばかりの日本で高品質の生糸が手に入ることがわかり、外国商人は不足する分 を日本からの輸入に求めるようになった。生糸が外国商人の関心商品であることに気付い た日本商人たちは、全国で生産された生糸の大部分(約 8 割)を買い占め、外国商人を通 じて横浜港から輸出した。多くの生糸商人たちが横浜に集まり、亀屋の原善三郎(文政 10 年(1827)~明治 32 年(1899))、野沢屋の茂木惣兵衛(文政 10 年(1827)~明治 27 年(1894))、吉村屋の吉田幸兵衛(天保 7 年(1836)~明治 40 年(1907))ほか数多くの 商人たちの活躍により横浜港は発展していった。 一方、主要輸入品は、欧米産の工業製品である綿織物、毛織物等であった。もとより当 時の輸入品は、「舶来品」という言葉にそのニュアンスが込められているように、日本人 にとっては文明そのものの輸入でもあった。 開港によって我が国全体の商品経済も活発化した。特に輸出産業が発展し、当時の主要 輸出品である生糸、茶は、技術の改良もあって生産が大幅に増大していった。 反面、この時期には、貿易の拡大によって打撃を受けた地域や産業もあった。生糸を扱 う商人が輸出のために買占めを行ったことにより、織物の原料である糸の価格が高騰し、 桐生、西陣、博多、八王子、秩父等の絹織物業は不振に陥った。特に文久 3 年(1863)は 大霜害があった年で、繭の収穫が半分くらいになってしまったことも桐生、西陣等の不振 に拍車をかけた。また、機械生産による安価な綿織物がイギリス等から輸入されることに よって、下野真岡、武蔵塚越(現在の埼玉県蕨市塚越)、足利、河内等の綿織物業も不振 に陥った。

洋銀両替問題と金貨の海外流出 開港後間もなく、通貨問題が我が国の経済を混乱させた。通商条約には「外国の諸貨幣 は日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし」「双方の国人互に物価を償ふに日本と外国と の貨幣を用ゆる妨なし」「日本人外国の貨幣に慣ざれば開港の後凡 およそ 一箇年の間各港の役所 より日本の貨幣を以て亜米利加人願次第引換渡すべし」(以上は日米修好通商条約第 5 条) との諸規定があり、また金貨・銀貨の輸出も認められていた。そこで運上所ではハリスと の下田以来の交渉に基づき、外国人が持ち込む洋銀(メキシコ銀)1 枚につき一分銀 3 枚 の比率で両替に応じた。ところがこれは市場での実勢(洋銀 1 枚に対し一分銀 2 枚)に比 べ洋銀を持ち込む側に有利な比率であったので、外国商人のみならず外国の官吏や軍艦の 乗組員までもが大量の洋銀を運上所に持ち込み、交換差益を得た。 それに加え、当時の日本では金 1 に対し銀は約 5 という交換比率であったが、諸外国で は金 1 に対し銀が約 15 というのが相場であった。これは、国際的に見て日本の銀が金に 対して割高であり、逆に金が銀に対して割安であったことを意味する。運上所で有利な条 件で大量の一分銀を取得した外国人は、これを用いて国際相場に比べ大幅割安の日本金貨 を大量に取得し、それを海外に持ち出すことによってさらに巨額の交換差益を懐にするこ とができたのである。これはまさに濡れ手に粟であった。こうして海外に流出した金貨は 10 万両以上にものぼったという。 さすがの外国も、ハリスやオールコックがこれでは貿易の正常な発展が損なわれてしま うと憂慮し、幕府に金貨の改鋳を行うべきであるとの意見書を提出した。そこで幕府は万 延元年(1860)、金貨の品質を大幅に低下させる改鋳(万延貨幣改鋳)を行って事態の悪 化を防止した。 しかし、これによって貨幣の実質価値が下がり物価の上昇に拍車をかけたので、庶民の 生活はますます圧迫された。そのために人々の外国貿易に対する反感が強まり、攘夷運動 が激化していく大きな要因ともなった。

⑵ 五品江戸廻送令

貿易商が生糸等の集荷に力を注ぐことによって輸出は急速に拡大したが、生産技術がい まだ発展途上であったため、需要の増大に供給が追い付かなかった。こうした需給のアン バランスが価格の急騰を招き、それが他の商品へも波及して全般的に物価が騰貴し、庶民 の生活不安が増大していった。さらにこれに拍車をかけたのが前述の通貨問題であった。 このような事態は我が国の経済界のみならず、封建体制全体をも揺るがしかねないもので あったので、幕府は何とかして貿易の発展を抑えようとし、開港の翌年の万延元年(1860) には早くも、雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の五品について江戸の問屋を経由せずに横浜に 直接送ることを禁ずる旨の五品江戸廻送令を発出した。また幕府は、五品に続いて銅につ いても同じ取扱いを決定した。 これらの幕令は、通商条約には直接抵触しない幕府の権力による国内限りの措置であっ たが、実質的には江戸の需要を賄った残りについてのみ貿易を認めるという極めて貿易制 限的な内容のものであったので、外国商人や横浜をはじめとする地方の商人には極めて不 評であった。また幕府内でも、江戸の問屋を支援する江戸町奉行と外国との関係や横浜商 人への影響を懸念する神奈川奉行との間で意見の対立があったとされる。 この政策は当初はかなり成果が上がったようであり、文久元年(1861)の輸出額は前年 (万延元年)の実績を下回った(資料2参照)。しかし国内外からの反発があまりにも強 く、たびたび江戸の特権商人と地方の商人間で紛争が繰り返されるようになり、やがては 命令をかいくぐって横浜に商品を送る者も出てきて、そのうちに完全に有名無実化してしまった。 幕府は五品江戸廻送令を補強するため、文久 3 年(1863)にも生糸の輸出制限政策をと ったりしたが、この年は前述の大霜害により生糸の原料が半減したり、生麦事件の発生に より外国との関係が悪化したりして、およそ五品江戸廻送令を強められるような環境には なかった。また、当時は攘夷の志士がしきりに横行しており、出島のような形で水路と関 門番所で隔離されていた横浜とは違い江戸では貿易に関わる商人を対象とした殺傷事件 も発生していたので、この頃には江戸の問屋も生糸等の取引から手を引きたいと考えるよ うになっていた。実際にも三井は、店頭に「天誅」の張紙がされていたので、京都の大元 方(本部)からの指示により生糸貿易から一切手を引いてしまった。翌元治元年(1864) になると、四国艦隊下関砲撃事件が起き、その勝利の余勢をかってイギリス公使オールコ ックはフランス、アメリカ、オランダの代表と共に幕府の老中以下と会見し、横浜におけ る生糸貿易の制限は事実上の鎖国であるから即座にこれを撤廃されたい旨、極めて強い調 子で申し入れた。この申し入れを受け、幕府は、直ちに輸出制限を解除することとした。
このようにして、五品江戸廻送令は実質的に 4 年ほどで終わってしまった。形式上も廃 止されるのは慶応 2 年(1866)になってからのことであるが、いずれにしても、開港前か ら幕府が抱いていた、経済の実権を握り幕府財政の再建を図ろうとする考えはこれにより 完全に空しいものになってしまったのである。

⑶ 幕末動乱の中での対外譲許

以上のような幕府の動きとは反対に、欧米諸国は幕末の動乱に乗じ、ロンドン覚書(文 久 2 年(1862))、日仏パリ協定(元治元年(1864) )、改税約書(慶応 2 年(1866))など の協約を締結することによって、関税の引下げや貿易を阻害する要因の撤廃を次々にかち 取っていった。 すなわち、国内の攘夷運動が活発化し治安が極端に悪化したことから、幕府は兵庫・新 潟の開港や江戸・大坂の開市の延期を図った。文久 2 年(1862)、イギリスとの間にロン ドン覚書が交わされ、開港・開市を同年 11 月 12 日(新暦 1863 年 1 月 1 日)から 5 年間 延期する代償として、輸入酒類とガラス製品の関税率引下げや貿易を阻害する制限の撤廃 が約束され、また横浜・長崎に保税倉庫建設(条文上は倉庫を「納屋」と表現)の準備を することについて取決めがなされた(続いてロシア、フランスとも同様の協定)。続く元 治元年(1864)の日仏パリ協定(パリ約定)でも、四国艦隊下関砲撃事件、薩英戦争等の 国内混乱の代償として大幅な関税率引下げが行われた(最恵国約款により他国にも自動適 用)。その後、イギリス、アメリカ、フランス及びオランダの4か国は、突如として武力 を背景に四国艦隊下関砲撃事件の未払賠償金の放棄を提案するとともに、大坂・兵庫の早 期開市・開港、条約の勅許及び関税率の引下げを強硬に要求してきた。その結果、慶応 2 年(1866)に改税約書等が交わされ、従量税の導入、従価税率の 5%への一本化、神奈川・ 長崎・箱館での保税倉庫建設(条文上は倉庫を「蔵」と表現)の準備等が取り決められた (最恵国約款によりこれら 4 か国以外にも適用)。なお、条約の勅許は実現したものの、 兵庫開港等が実現しなかったことから、未払賠償金の放棄は実現しなかった。

⑷ 明治期の貿易・経済

開港によって我が国の経済は徐々に発展していったものの、自由貿易の下で先進諸国と の競争に耐えられるだけのレベルには達していなかったため、政府自らが事業を興してこ れを経営し、民間に範を示し、事業の払い下げを行うといういわゆる殖産興業政策が推進 された。特に繊維産業は軍需産業と並んで重要視され、政府は群馬県富岡製糸場を設立したのをはじめとして、イギリスから輸入した紡績機を奈良、栃木、山梨、静岡等の希望 者に払い下げるなどして産業の育成を図った。 明治期に入ってからも横浜港の主要輸出品目は輸出額の 50~60%を占めていた生糸で あり、次いで茶であった。生糸は糸として輸出されるだけでなく、羽二重(注 14)や絹製 ハンカチーフといった二次製品としても輸出されるようになった。ただ、開港後 3、4 年 目頃から粗製濫造の弊が現われ、輸出量が増えるに従って品質の悪い生糸も多く出回るよ うになっていた。これが明治初期における生糸輸出停滞の大きな要因になったと言われる。 そこで、そのままでは日本の生糸の評判が下落し輸出に悪影響を与えることが懸念された ので、紆余曲折はあったものの明治 28 年(1895)、生糸検査所法が制定され、その翌年、 横浜生糸検査所(現在の横浜第二合同庁舎付近)が設立された。生糸の輸出は、生糸貿易 の開始当初はイギリス、フランス等ヨーロッパ向けが中心であったが、明治 10 年代後半 頃にはアメリカ向けが中心となっていた。なお、茶の輸出は、明治 32 年(1899)の清水 港開港以来、横浜港から徐々に清水港にシフトしていった。このほか、大正期には高級婦 人帽の材料である麻真田(注 15)の製造が横浜の地場産業として大いに発展し、輸出に貢 献した。 一方、輸入品目は、綿糸、綿織物、毛織物、鉄、兵器、薬品、砂糖、染料等多岐にわた っており、大部分はイギリスをはじめとする欧米諸国の近代工業製品であった。明治 40 年(1907)頃になると、砂糖、綿織物及び毛織物の輸入が著しく減少し、原綿(繰綿)及 び羊毛が増加した。砂糖の輸入が減少したのは、日清戦争後の下関条約によって我が国に 割譲された台湾で精糖業が著しく発達したためであり、綿織物及び毛織物が減少し原綿 (繰綿)及び羊毛が増加したのは、政府の殖産興業政策により国内の紡績業が著しく発達 したためである。

第4節 開港当時の神奈川運上所の業務

⑴ 入出港時の業務

入出港手続 運上所では、前述のように、今日の税関が行っている業務のほか、艦船の入出港手続、 洋銀両替、各国領事との交渉や外国人の取締りなどの幅広い任務に従事した。 当時の波止場はいずれも大型船を接岸することはできず、単なる物揚場にすぎなかった ため、大型船は沖合に停泊し、波止場との間を、貨物は艀や小船が、船客は伝馬船や小型 蒸気船が連絡した。外国貿易船(本船)が入港すると、運上所から来意尋問掛の役人(定 役)が部下(下番)2名を率いて、立会いの御目付及び通詞と共に沖合に停泊している本 船に赴き、船長に面会して「このたびは遠路の航海つつがなくご来着にて、恐悦至極に存 ず」などと切り出し、来航の目的、国籍、船名、積荷等について尋問した。入出港に際し ては手数料を徴求した。 また、取締りにあたっては、運上所の役人(下番)が本船に乗船して貨物を監視すると いう方法がとられた。夜になると通関未済の貨物についてはハッチ(艙口)を封印したう えで 2 名の役人が船に泊り込み、密輸(抜け荷)の防止に努めた。

シュリーマンの日本上陸 トロイ遺跡の発見で有名なハインリッヒ・シュリーマン(Heinrich Schliemann,1822 ~90、ドイツ人)が慶応元年(1865)に日本を訪れている。日本に上陸する際の様子や印 象を何人もの外国人が記録に残しているが、彼も入国の際の神奈川運上所職員の様子を次 のように記している。 「日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏 がにこやかに近付いてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下 げ、三十秒もその姿勢を続けた。次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。 荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞ れ一分(2.5 フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて『ニッポン ムスコ』(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義 務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなけ ればならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足 してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な対応だった。彼らはふたたび深々と おじぎをしながら、『サイナラ』(さようなら)と言った。
」 (ハインリッヒ・シュリーマン 著、石井和子訳「シュリーマン旅行記 清国・日本」より)

⑵ 初期の通関手続

開港当時は陸上に貨物の蔵置施設がなかったため、貨物を外国貿易船(本船)に積んだ まま通関手続が進められていた。しかし、施設が整ってくると、当然のことながら貨物を 陸揚げしたうえで手続が行われるようになった。以下は、「横浜税関沿革」(明治 35 年発 行)の「緒編 開港当時事務扱振」等による初期の通関手続の様子である。

提出書類 貨物を輸入する場合は、運上所に「差出書」(後の「陸揚願」。輸入申告書を兼ねたもの) を提出しなければならなかった。運上所では陸揚免状を荷主に交付し、貨物が陸揚げされ てくると、貨物の検査を行い価格を鑑定して関税の納付を受けた。納税が完了すると、運 上所は受取証を荷主に発給したが、輸入免状は交付せず、陸揚免状にこれを兼ねさせるの が例であった。

ところで、貿易章程では「差出書」に仕入書(インボイス)を添付することとされてい たが、運上所側では外交上の紛議を恐れ、外国商人が添付を怠るのを黙認した。その結果、 仕入書を提出する者が誰もいないというおかしな状態になり、それが明治期まで続いた。 勿論、そのために多くの虚偽申告が行われ、運上(関税)収入は極めて少なかった。当時 は 10 分の 1 ぐらいの低価申告が行われていたという。

価格鑑定 仕入書が添付されようとされまいと難しかったのが価格鑑定である。というのは、当時 の人々は舶来の品物などは滅多に見ることがなかったのであるから、それがいくらするも のなのか、そう簡単にはわかりようがなかったからである。そこで運上所では、輸入貨物 の価格鑑定のために目利人を置くこととした。この目利人には、横浜の日本商人のうち、
西洋小間物商、薬種商など、外国商品を取り扱った経験があり、かつ、資産のある者から 3 名が選任された。しかし目利人の中には、裏で荷主と馴れ合う者もいたため、運上所の 役人が自ら価格鑑定を行わざるをえなくなることもあった。 これについて次のような話が残っている。 当時、改掛(輸出入貨物の検査・鑑定の係)の中に高畠久治という老人がいた。この老 人は横浜を訪れた幕府の閣老や奉行所の役人の指示を受けて、外国の珍しい品物を買う使 いをしていたので、外国商品の相場をよく知っていた。このため、改掛の役人はこの老人 に価格の標準を聞いておき、出退勤の途中で実際に商品を確認する等して鑑定価格の算定 に当たっていた。このような苦心の結果、運上所の役人はやがて目利人に頼らなくともあ る程度自分で貨物の価格を鑑定できるようになったという。 明治期に入ると、税関は日本人の目利人では十分な鑑定を期待できないとして外国人鑑 定役の傭聘に踏み切り、横浜では明治 5 年(1872)から 26 年(1893)にかけてアメリカ 人を鑑定役として雇い入れた。また、アメリカ人鑑定役の建言に基づき、明治 11 年(1878) 以降は日本人の鑑定役も置かれることとなった。 なお、運上所(税関)の役人が輸入申告価格が低額であることを発見し、関税を増徴したときは、当該増徴税額を「増し税」といい、運上所(税関)では税務担当役人一同に対 しその一部を報酬として支給したという。この制度は幕末から明治 10 年(1877)頃まで 続けられた。

通関書類の翻訳 外国貿易船や外国商人から提出される書類は外国語で記載されていたので、運上所の翻 訳方(通詞)が和文に翻訳した。当時の翻訳方からは寺島宗則天保 3 年(1832)~明治 26 年(1893)。後に神奈川県知事、外務卿等を歴任)、福地源一郎(天保 12 年(1841)~ 明治 39 年(1906)。号は桜痴。後に東京日日新聞社長、衆議院議員)、子安 こやす 峻 たかし (天保 7 年 (1836)~明治 31 年(1898)。後に日本初の日本語日刊新聞・横浜毎日新聞の編集者を経 て読売新聞社長)、星亨(嘉永 3 年(1850)~明治 34 年(1901)。後に横浜税関長、衆議 院議長、逓信大臣等を歴任)などの逸材が輩出した。 ⑶ 保税制度の萌芽(借庫制度)

(2)でも述べたように、開港当時は貨物の蔵置施設がなかったため、貨物を本船に置い たまま輸入手続に入っていた。それでは貨物が船上に滞留するとして各国から強い要請が あり、慶応 2 年(1866)、イギリス、アメリカ、フランス及びオランダとの間で締結され た改税約書の中に借庫(保税倉庫の前身)制度が規定された。借庫制度とは、政府が所有 しまたは借り受けた倉庫を保税倉庫として民間人に貸し出す制度である。この改税約書の 規定に基づいて、同年、神奈川、長崎及び箱館の各奉行が借庫規則を制定した(注 16)。 同規則では、倉庫を借り受ける権利が外国の「荷物引請人」に対して認められ、寄託され る貨物も外国人が取り扱うものを対象とするとされた。ただし、やがて日本商人に対して も等しくその利用が認められるようになった。 同規則の制定後、まず神奈川運上所においてオランダ商人から買い取った倉庫(注 17) を借庫とし、輸入者の求めに応じ、保管料を徴収したうえで輸入貨物の蔵置を認めること とした。この借庫の誕生が、陸揚げされた貨物を国内に引き取るまでの間、関税の徴収を 猶予するという今日の保税制度の始まりである。これによりそれまで主に本船上に貨物を 置いたまま進めていた輸入手続を、借庫に貨物をいったん収納・蔵置したうえで行うこと ができるようになった。また、借庫内の貨物を再輸出する場合、いちいち戻税の手続をす るという手間も省けるようになった。この借庫制度は、2 か月間だけ試行し不都合があれ ば再協議を行うこととされていたが、試行期間満了時に各国から再協議の申し入れがなか ったため、そのまま明治元年(1868)まで延長された。明治 2 年(1869)、神奈川運上所 から政府に提出された改正意見に基づき、改正借庫規則が制定され、借庫制度が確立した。

⑷ 臨時開庁制度の始まり

運上所の執務時間外に貨物の積卸しをすることは原則として禁止されていたが、神奈川 運上所では、商業目的を持たない郵便船に限って、手数料を徴収することなくこれを認め ていた。これが臨時開庁制度の始まりである。明治期に入って入港船舶が増加したことに 伴い、郵便船にのみ認められていた臨時開庁の特典を一般の商船にも認めてほしいという 要請が強まったことから、横浜運上所(横浜税関に名称変更される直前の名称)では、明 治 5 年(1872)に臨時開関規則を制定し、税関の執務時間外に貨物の積卸しをすることを 認める一方で、当該臨時開庁については所定の手数料を徴収することとした。同規則の制 定を契機として臨時開庁制度は全国に広まっていった。当時の執務時間は「朝五ツ半(午 前 9 時)開門、夕方七ツ時(午後 4 時)閉門」であったが、、明治 23 年(1890)に税関規 則が制定され、午前 10 時から午後 4 時までに改められた。 なお、臨時開庁手数料は平成 20 年(2008)の関税改正により制度創設以来 136 年ぶり に無料化された(同年 4 月より実施)。

⑸ 明治政府の成立と税関

運上所から税関へ 神奈川運上所は慶応 3 年(1867)に横浜役所に引き継がれた。慶応 4 年(1868)に新政 府が成立すると神奈川奉行が廃止され、代わって神奈川裁判所(当時の「裁判所」は役所 の意)が置かれた。同裁判所は横浜裁判所(横浜役所の後身)と戸部裁判所(戸部役所の 後身)を総括したが、建物や人員も職務の内容も旧幕府時代のものとはほとんど異ならず、 運上所も以前と同じ建物で横浜裁判所の下、海関事務に携わった。神奈川裁判所は慶応 4 年(9 月 8 日に改元して明治元年)のうちに神奈川府、神奈川県とめまぐるしく名称が変 更され、その下部機構である横浜裁判所についても戸部裁判所を吸収統合するなどの機構 改革が行われた。その後、明治 4 年(1871)になると、神奈川運上所は神奈川県のもとを 離れて大蔵省に所属することになり、その名称も横浜運上所に変更されたが、さらにその 翌年(1872)11 月 28 日には横浜税関へと名称変更された。

対外交渉の重要性と役所の人事 横浜開港場において各国領事との交渉や外国商人を含む居留外国人の取扱いがいかに 重要かつ大変な行政課題であったかは、当時の神奈川運上所長官(横浜税関長)や神奈川 県令(県知事)の経歴によって窺い知ることができる。当時、運上所(税関)や県庁は外 国人との関係で絶えずトラブルを抱え、大いに神経を使った。このため、代々の神奈川運 上所長官(横浜税関長)はその大部分が欧米長期出張等の在外経験を有する者であった。 また、関税自主権が完全に回復される明治末期まで、多くの神奈川県令(県知事)が政府 の外国事務の経験者か欧米諸国滞在歴を有する者から官選により任命された(例えば前述 の寺島宗則陸奥宗光)。

ジョン・ハートリーあへん密輸入事件とマリア・ルース号事件 ここで、当時の横浜税関長や神奈川県令が対外的な問題でいかに苦労したかを、横浜港で起きた二つの特筆すべき事件を例にとって紹介してみよう。 一つは、ジョン・ハートリーあへん密輸入事件である。ジョン・ハートリーはイギリス の貿易商であったが、確信犯的にあへんの密輸入を繰り返し、明治 5 年(1872)の初回摘 発以来横浜税関に何度密輸入を摘発されようとも、そのたびに横浜税関長を相手どって執 拗に法廷闘争を繰り返した。この闘争は明治 26 年(1893)まで続いたが、一連の訴訟の うちハートリーを被告人とするものについてはイギリス領事に裁判権があることから、領 事裁判所において同人に対し微温的な判決が下されることもあった。しかし、歴代税関長 はハートリーに対し終始断固たる姿勢を貫き、最後には見事勝利した。 もう一つの出来事は、マリア・ルース号事件である。明治 5 年(1872)6 月 1 日、230 人の中国人船客を乗せたペルー船マリア・ルース号が横浜港に入港して来たが、彼ら中国 人は船客とは名ばかりで、実はペルーに売られていく奴隷であることが判明した。この取 扱いについて政府内では、我が国に法的権限のない問題に関わって外国ともめるのはよく ないとする江藤新平司法卿(天保 5 年(1834)~明治 7 年(1874) )、陸奥宗光神奈川県令 (弘化元年(1844)~明治 30 年(1897)。後に外相等を歴任)らの意見と、人道と正義に 立脚して対処すべきであるとする副島種臣外務卿(文政11年(1828)~明治38年(1905))、 大江卓神奈川県権令(弘化 4 年(1847)~大正 10 年(1921)。神奈川県令を経て、後に衆 議院議員、東京株式取引所会頭等を歴任)らの意見がぶつかった。結局は副島らの意見が 通り、陸奥県令が辞任するという事態になった。後任の県令に任じられた大江は神奈川県 庁で特別法廷を開き、自らが裁判長となって中国人の解放等を内容とする判決を下した。 この大江の裁判は、ペルー政府より越権であるとの強い抗議を招いたが、国際的には世界 共通の道義に立ったものであるとして称讃の対象となった。

県名の由来 ところで、県名には神奈川が採用されたが、何故、横浜県にならなかったのであろうか。 開港場となったのは実際には横浜であるが、条約上(タテマエ)は「神奈川」開港であ った。そこで幕府は「神奈川」奉行を置き、「神奈川」運上所を開設した。明治政府もこ れを受け継いで、行政機関として神奈川裁判所を置き、これが神奈川府を経て神奈川県と なる。明治初期は足柄県、六浦県など他にも県が分立していたが、これらが統合されて明 治 9 年(1876)、現在の神奈川県の原型ができた(さらに明治 26 年(1893)、多摩郡の一 部(三多摩)が東京府に移管されて現在の県域が確定)。結局、神奈川の県名は、横浜が 条約上は「神奈川」ということで開港し、そこに「神奈川」奉行が置かれたというところ から始まったようである。

第5節 対等な貿易取引を求める横浜商人の動き

⑴ 貿易取引の形態

商館貿易と直貿易 開港当初の貿易形態は、日本商人が産地から仕入れた商品を横浜の外国人居留地内にあ る外国商館に持ち込み、または外国商館が海外から輸入した商品を日本商人が引き取ると いう商館貿易(あるいは居留地貿易)であった。日本商人は売込商または引取商として外 国商人を相手に商館で取引をすることは許されていたが、自ら直接外国との間で貿易をす ること(直貿易)は認められていなかった。日本商人による直貿易が初めて本格的な形で 行われたのは明治 9 年(1876)の生糸輸出である。これには明治政府の後押し(注 18)があった。当時、我が国は輸入増加によって貿易収支が赤字に陥っていたが、それに加え、 外債の利払いや償還、外交活動の本格展開等によって外貨への需要が高まっており、政府 としては直輸出によって少しでも多くの外貨を獲得する必要に迫られていたのである。 直貿易はその後、外国商人の抵抗を排しながら徐々に一般化していく。しかし、明治 20 年代中頃でも貿易全体の 1、2 割程度にすぎず、関税自主権を完全に回復した時点(明 治 44 年(1911))でもなお外国商人の取扱いシェアは約 5 割を占めていた。大半の取引が 日本商人の手に移り、その商権が確立されたのは大正期もようやく中頃になってからのこ とであった。

初期の貿易取引の実情 開港に伴い横浜に進出した商人には、江戸の大規模な問屋(門閥の豪商)に始まり関東 甲信越などから集まってきた商人(在方商人)まで、様々な出自・性格の者がいた。 前述のように、横浜で外国貿易に携わる日本商人には売込商と引取商の二つの類型があ ったが、それらのうち売込商はさらに二つのタイプに大別することができた。第一のタイ プは、単に問屋として荷主から口銭(手数料)を受け取るだけのものであり、これには幕 府の要請を受けて横浜に出店した三井などの江戸の商人が多く当てはまった。第二のタイ プは、商品の産地と結びつき、問屋としてだけでなく自らも荷主として横浜・産地間の価 格差を懐に収めようとするもので、各地からやってきた在方商人の多くがこのタイプに属 した。これに対し、引取商の多くは江戸の商人であった。これは、彼らが大消費地・江戸 の流通機構を押さえていたことや輸入商品の買取りに必要とされる資金の調達力を相当 程度備えていたことによるものと思われる。 横浜の地場経済で急速に実力をつけ、主流を形成していったのは主に在方出身の売込商 であった。彼らは生糸、茶等の売込みを通じて大きな利益を得、早々に在方商人の域を脱 して横浜経済界の中枢を担うようになっていった。 ただし、中には甲州屋篠原忠右衛門のように、業容の拡大を急ぐあまり、投機的な取引 に走って多額の損失を蒙り、横浜開港場から姿を消して行く者があったことも忘れてはな るまい。そうした投機的商人の多くは明治の初期頃までには淘汰されてしまった。 また、淘汰された者たちの中には悪徳商人もおり、それらの者たちは、外国商人に品質 の劣る商品を売りつけたり、商品の目方をごまかして取引を行ったりした。前出のアーネ スト・サトウは文久 2 年(1862)における横浜での取引事情を外国人の立場から次のよう に記述している。 「横浜の場合は、外国の商人が取引きの相手にしなければならなかったのは、主として無 資本の、そして商売に無知な山師連中だったのである。契約の破棄や詐欺は珍しいことで はなかった。外国商人は、荷の渡る見込みのない商品購入を目当てに、こんな当てになら ぬ男どもに大枚の前金を支払ったり、また相場が下がれば荷受けを拒絶して自分の懐を痛 めぬようにする者どもを相手に、本国へ製品の注文を発したりしていたのだ。生糸には砂 が混じっていたり、重い紙ひもで結わえてあったりするので、代金を支払う前に梱を一々 念入りに検査せねばならず、茶も見本通りの良質品と信用するわけにはいかなかった。日 本の商人も、往々同様な手段で相手に返報されたが、不正行為を差引きすれば日本の方が はるかに大きかった。そんなわけで、外国人たちの間に、『日本人と不正直な取引者とは 同意義である』との確信がきわめて強くなった。両者の親善感情などは、あり得べくもな かったのである。 」(「一外交官の見た明治維新」より) サトウの見方はあまりにも身びいきであり承服するわけにはいかないが、それでも開港 当初の事情としてはあながち誇張とばかりも言い切れぬ面もあったであろう。

不利な立場の日本商人 以上のような一部の日本商人による目に余る取引は貿易取引全般にも悪影響を与え、明 治初期における生糸輸出停滞の大きな要因ともなる。しかしながら、開港後約半世紀の間 は、貿易の商権ないし主導権が不平等条約を背景に外国商人の側に握られ続けていたとい うことも否めない事実であった。 すなわち日本商人は、言葉のハンデがあるうえに取引上の知識が不足しており、また相 手方たる外国商人の側には治外法権があったことから、取引面で不利な立場に立たされる ことが多かった。外国商人は補助者として中国人の買弁を雇い、有利な交渉を行った(注 19)。買弁は外国商館内に専用の部屋を持ち、外国商人の行う検査の下請けをしたり、日 本商人との取引の仲介を行ったりした。取引の仲介にあたっては、日本商人から「南京進 上」と称する手数料を受け取った。 外国商人は例えば生糸を買い入れるとき、見本をあらかじめ売込商から出させておき、 商品が入荷するたびにこの見本と照合のうえ品質検査をして値段をつけた。これを「拝見」 といい、それがすむまでは手付金や契約証書を渡さなかった。中には品物に何やかやと文 句をつけて買いたたいたり、品物を持ち逃げする者もいた。あるいは、通常は現物を倉庫 に入れさせ、「看貫 かんかん 」と呼ばれる量目検査を行ったうえで代金の支払いを行うのであるが、 本国の値を見て安くなっていれば、損失を避けるため検査不合格として破談にしたりした。 このような場合、日本商人が役人に「おそれながら…」と訴え出ても、裁判権は外国人領 事にあるから(領事裁判権)、日本の役人ではどうしようもなかった。また、荷造り費用 や運搬費用に関しても日本商人が一方的に負担させられる慣行があった。 当時の状況について「横浜商工会議所百年史」では、「外商の買入れ価格は、明治初年 には海外市場価格の 2 分の 1 から 3 分の 1 であったといわれ、いかに外商が内商の無知に 乗じて買いたたき、法外な利益をあげていたかがうかがい知られる」と記している。また、 イギリス公使のオールコックは、「金の採掘のためならいざ知らず、そうでもないのに、 これほどありとあらゆる国から無法で身もちの悪い連中が大量に流れこんでいるところ は、東アジア以外にはない」と述べている(「大君の都」より) 。 さらに、貿易金融、外国航路などが外国人に押さえられていた当時においては、日本人 の立場はますます弱いものとならざるをえなかった。

⑵ 初期の外国商人

代表的な外国商人 横浜に進出した初期の外国商人は、対清貿易で経験を積み、豊富な資金と船舶を持つイ ギリスのジャーディン・マセソン商会やデント商会のような大商社で、これらがアジア全 域での貿易で当時、主導的な役割を果たしていた。 ジャーディン・マセソン商会は系譜的には 1782 年のコックス・リード商会に遡ること ができるが、1832 年に、元・東インド会社の船医でマニアック商会のパートナーであっ たウィリアム・ジャーディン(William Jardine,1784~1843)と、カルカッタで貿易商と して独立し、同じくマニアック商会のパートナーでもあったジェームズ・マセソン(James Matheson,1796~1878)という 2 人のスコットランド人が澳門 マカオ において設立した。同商会 は、東インド会社の貿易独占廃止以降も引き続きインド・清間のあへん・茶貿易を取り扱 い、1841 年には拠点を香港に定め、さらに 46 年に上海、59 年には横浜に支店網を拡張し て、1860 年代には東アジアで最大の貿易商社となった(現在も活動中)。 安政 6 年(1859)、同商会は神奈川運上所に隣接する 1 番の区画を借り入れ、翌年には 耐火倉庫などを建築して横浜に腰をすえ、その建物は「英一番館」と呼ばれるようになっ た。横浜での取扱い商品は生糸、茶、水油、寒天、昆布、銅、樟脳、椎茸等であった。ちなみに、現在の鹿島建設㈱の創業者・鹿島岩吉が「英一番館」の建物を施工したといわれ る(注 20)。 続いてアメリカのウォルシュ・ホール商会、オーガスティン・ハード商会、イギリスの デント商会、デビッド・サスーン商会も 2 番以下の土地を借り入れ、オフィスを構えた。 これらのうちウォルシュ・ホール商会(建物は「亜米一 あめいち 」)は生糸、茶、絹物を取り扱い、 デント商会(「英二番館」)は専ら生糸取引に従事した。ジャーディン・マセソン商会とこ れら 2 商会を合わせた 3 社が横浜では外国人居留地の始祖と呼ばれた(ただし、デント商 会は慶応 2 年(1866)の生糸輸出不振により倒産)。 なお、グラバー邸で有名なトーマス・グラバー(Thomas Glover,1838~99、スコットラ ンド出身)は文久元年(1861)に長崎でグラバー商会を興し、ジャーディン・マセソン商 会等と取引するとともに、同商会の長崎での代理人となった。

横浜外国人商業会議所の設立 開港後、横浜港での貿易がめざましく伸びていくにつれて幕府と外国商人との間の軋轢 も増していった。当時の幕府は国内の攘夷勢力に押されて貿易の国家統制を図ろうとして いたが、これは外国人の側からすれば、幕府の役人が貿易や商業に対して不当な干渉・妨 害を加えているということにほかならなかった。そこで慶応元年(1865)、居留地の外国 商人により横浜外国人商業会議所が設立された。同会議所はやがて東京の会議所と合併し て横浜東京外国人商業会議所となる。 横浜外国人商業会議所では、日常的に内外商の紛議の調停に携わるほか、各国の公使に 対しても商人・居留民の利益のためにしばしばその影響力を行使した。例えば、後述の日 本商人による生糸改会社の設立や連合生糸荷預所事件に際しては、外国商人の利益を守る ために一致団結したほか、後に横浜築港に関する建議なども行った。 同会議所の活動は横浜商人が横浜商法会議所を設立するうえでも大きな刺激となった。

⑶ 横浜商人の団結

商人団体の組織化 横浜開港場には開港当初から横浜町会所という半ば自治的な町政機関が存在していた。 町政を担ったのは総年寄 2 名とその下の名主(各丁目ごとに 3 名)であり、神奈川奉行所 が彼らを指名し役人を常駐させて監督した。行政経費は、売込商・引取商からその貿易額 に 1000 分の 5 を掛けて算出した歩合金を自ら徴収して賄った(注 21)。しかしながら、明 治新政府が成立すると、明治 5 年(1872)に町役人制度(総年寄・名主)が廃止され、翌 年には町政が官選の区長・戸長の手に移されたので、町会所は町政機関としての機能を失 い、貿易商等の商人の集会所となった。 横浜町会所と同じ頃にスタートしたものとしては商人会所というものがあった。これは 横浜商人による組織的活動の始まりともいえるもので、町会所の活動を支える歩合金の徴 収・管理事務もこの商人会所が請け負っていたものとみられる。 明治 13 年(1880)になると、商人会所を発展させる形で横浜町会所内に横浜商法会議 所が設立され、初代会頭には生糸貿易で活躍した原善三郎が就任した。そもそも商法会議 所は、商工業の保護育成を図ることを目的に、明治 11 年(1878)、渋沢栄一天保 11 年 (1840)~昭和 6 年(1931) )、五代友厚天保 6 年(1835)~明治 18 年(1885))らによ って東京・大阪・神戸に設立されたのが始まりであるが、横浜における同会議所設立の最 大の動機は、不平等条約の下における外国商人の専横な商行為を何としても是正したいと いうことであった。当時、いわゆる「商権回復」運動が盛り上がりつつあり、外国人商業会議所の実力のほどを見せつけられていた横浜商人も商法会議所の下に結束・連携して外 国人の勢力に対抗しようとしたのである。 ところが、横浜商法会議所では、内外商間の紛争解決などの実際上の活動は原善三郎、 小野光景、大谷嘉兵衛など主要会員の個人的力量に負うところが大きく、また具体的な対 応も個々の同業組合に委ねられることが多かったようであり、同会議所の組織自体に内外 商の紛議を調停するだけの機能が十分に備わっているわけではなかったようである。その 活動はやがて明治 10 年代半ばから 20 年代にかけて停滞するようになった。 商法会議所は法律によらない私設の団体として活動していたが、我が国の経済発展に伴 い会議所制度の抜本的強化を図るため、明治 23 年(1890) 、商業会議所条例が制定された。 同条例において商業会議所は法人格を有する地域経済団体であると規定され、全国組織と して商業会議所連合会が結成された。横浜では、明治 10 年代以降、共有物事件(注 22) に代表されるように、住民が一般商人や地主を中心とする地主派と貿易商を中心とする商 人派に分裂して内紛を繰り返し、さらに同条例が画一的すぎて開港場である横浜の実情に は合わないと考えられたことなどもあって、他地域のようにすんなりと商業会議所は設立 されなかった。しかしながら、明治 28 年(1895)になると共有物事件が長い抗争の末、 ようやく決着し、条例も改正され、さらには中野健明神奈川県知事らの熱心な働きかけも あって、横浜商人はようやくここに大同団結して横浜商業会議所(初代会頭:原善三郎) を設立することになったのである。(なお、明治 35 年(1902)、同条例は廃止され、商業 会議所法が制定された。) 昭和 2 年(1927)には、会議所の組織を一層強化するとともに経済界における指導的役 割を期して商工会議所法が制定され、全国組織として日本商工会議所が設立された。横浜 においては昭和 3 年(1928)、横浜商工会議所が設立されている。

生糸改会社 生糸輸出に伴い、前述のように粗悪な品質のものも出回るようになったことから、その ままでは日本の生糸の対外的信用が大きく損なわれるおそれが出てきた。そこで陸奥宗光 神奈川県令が呼びかけたのがきっかけとなって明治 6 年(1873)、生糸売込商が団結して 生糸の自主的検査をするために横浜生糸改会社を設立した。しかし、その実態は生糸売込 商の同業組合というようなものであったようであり、検査機関としては見るべき実績を残 すまでには至らなかった。他方で、横浜の生糸商人が政府の後押しを受けて一つにまとま って行動することに危惧を感じた外国商人は、横浜外国人商業会議所を通じてイギリス公 使ハリー・パークス(Harry Smith Parkes,1828-85。オールコックの後任)に対し、生糸 改会社が貿易の自由を侵し通商条約に違反するとの申し入れを行っている。 生糸に続いて明治 8 年(1875)には茶売込商が横浜製茶改会社を設立している。 生糸改会社は運営がうまくいかず、明治 10 年(1877)には廃止されてしまったが、こ のような取組みは後述の連合生糸荷預所等を経て 19 年(1886)には蚕糸売込業組合へと 発展していった。一方、製茶改会社は茶商協同組合(明治 12 年(1879)設立)を経て 17 年(1884)には茶業組合へと発展していった。さらに明治 22 年(1889)には横浜貿易商 組合が結成されるに至る。

鉄輪問題
 明治 12 年(1879)に起きたのが鉄輪問題である。当時、外国からの輸入品である綿糸、 金巾 かなきん 、ラシャ等は、輸送の安全のために布で包装した上を鉄輪で固くくくる慣習があった。 日本商人がこの貨物を買い取る際、外国商人お抱えの中国人蔵番 くらばん が鉄輪をはずして貨物を 引き渡した。そして、蔵番は不用になった鉄輪を鉄商に売却して収入を得ていた。その背景には、欧米の外国商人が中国人を前述の買弁や蔵番として雇用しておきながら、まとも な給与を支給していないという問題が横たわっていた。 ところが、この鉄輪の代金は前もって外国商人に支払ってあったので、日本商人にとっ ては損失となり、その額は年に 8 万円ともいわれた。そこで横浜の引取商たちは明治 12 年(1879)10 月、結束してこの不公正な商慣習をやめると通告、それに同意しない外国 商人とは取引を拒否する旨宣言して同月 23 日よりこれを実行に移した。そして 12 月初旬 までにはすべての外国商人に同意させ、完全な勝利を収めることができた。

連合生糸荷預所事件 横浜商法会議所が設立されたのと同じ年の明治 13 年(1880)、原善三郎、茂木惣兵衛、 渋沢喜作の 3 名から佐野常民大蔵卿にあてて「連合生糸荷預所設立願」が出された。これ は、横浜へ入る生糸をこれまでのように外国商人のところへ個々に持ち込むのではなく、 荷預所がこれから建造する倉庫(共同倉庫)に独占的に集め、検査・秤量や引渡し等もそ こで行おうとするものであった。その狙いは、地場の加盟生糸問屋が団結して流通機構を 押さえるというところにあったが、却下された。この願いは翌 14 年(1881)、三井物産と 三菱の主宰する貿易商会が加わって再提出され、ようやく受理された。同年 9 月、荷預所 は開業の第一歩を踏み出す。 しかし、これに対して外国商人は一切の取引を拒否するなどして激しく抵抗した。この ため、横浜では 9 月半ばから 2 か月間にわたって貿易がストップする事態となった。いよ いよ対立が深まった 10 月、事態を憂慮したアメリカ公使ジョン・ビンガム(John A. Bingham)の斡旋により日本側から渋沢栄一と益田孝(嘉永元年(1848)~昭和 13 年(1938))、 横浜外国人商業会議所側からウィルキン会頭(A.J.Willkin)とトーマス・ウォルシュ (Thomas Walsh)が出て妥協工作が行われた。ウィルキンは、日本側が提案している「中 央市場」(=共同倉庫)の設立は認めるが、それができるまでの間は、現品を外国商人の 倉庫に搬入し検査のうえ、代価支払その他について記入した約定書を交換するという妥協 案を提示した。紆余曲折の末、この案が日本商人、外国商人の双方に受け入れられた。 その結果、旧来の取引上の悪い慣習はいくらか改められたが、それでもなお契約後に破 談になるといった例は相変わらず続き、また共同倉庫も不況の影響により関係者の足並み が乱れ、いったんは看板を掲げたものの、たちまちのうちに、東京に設立された他の新会 社に吸収されてしまった。この事件は、横浜の有力貿易商人の力を伸ばすうえで効果はあ ったが、商慣行の改善という面では必ずしも成功とはいえなかった。

⑷ 横浜生糸検査所の設立

明治 29 年(1896)になると、横浜生糸検査所が設立された(11 頁の第 3 節⑷参照) 。 外国人に検査されるのではなく日本商人自らが検査しようということでフランスから機 械を買い入れて事業を始めたが、当初は利用者が少なかった。これは、生糸検査所法に基 づく検査が任意で強制を伴うものではなかったことや、当時の外国商館や日本商人(売込 商)が生糸の品位を検査する機械を自ら備えていたことなどによる。しかし、その後取引 量が増加し盛況になっていくにつれ、それら自前の設備では対応しきれなくなったことか ら、検査所に持ち込まれる件数が年々著しく増加していった。当時の状況について「生糸 検査所 80 年史」には、「外商は最初検査所を白眼視していたというが、次第に利用するも のが増加し、明治 34 年以降は外商の請求件数が邦商のそれを上回るようになった」と記 されている。横浜生糸検査所ではこうした高まる需要に応えるため、体制や施設を逐次整 備・拡充していった。 同検査所は大正 12 年(1923)に関東大震災により著しい被害を受けたが、その復旧後、間もなく、14 年(1925)には建築家・遠藤於菟 おと (慶応 2 年(1866)~昭和 18 年(1943)) の設計により広大な庁舎や倉庫が建造された。また、昭和 2 年(1927)からは輸出生糸の すべてに対して強制的に正量検査が行われることとなった。これにより生糸の品位が確保 され、安心して取引できるようになったが、皮肉なことに横浜における生糸取引は既にそ の頃から徐々に哀退していく運命にあった。

第6節 港湾関係業務の発展

⑴ 貿易業

明治 20 年代後半頃から日本商人と諸外国との直貿易が増え始め、大正期に入ると、そ れが商館貿易を上回るようになった(注 23)。これは、政府が直貿易を奨励したこと、条 約改正により我が国が諸外国と対等な関係になったこと及び以下に述べるように日本人 自身により貿易業、海運業や貿易金融業務等の港湾関係業務が発展したことなどによるも のであった。 例えば、貿易業をみると、横浜では三井物産会社(明治 9 年(1876)設立。後に(旧) 三井物産㈱)の活躍が貿易の発展に大きく寄与した。同社は明治 7 年(1874)に初代社長・ 益田孝(前出)が井上馨天保 6 年(1836)~大正 4 年(1915))と共に設立した先収会 社がその前身であり、創業とともに生糸、茶等の売込みを始め、10 年(1877)には早く も直輸出を手がけている。横浜正金銀行が誕生するまでは大蔵省から海外荷為替の特権を 賦与され、海外各地にも支店網をめぐらした。明治後期には生糸、綿糸・綿布、石炭をは じめ数多くの種類の商品を取り扱い、明治 40 年代には当時の我が国貿易総額の約 2 割を 占めていたといわれる。このように同社の発展は横浜のみならず日本の貿易の興隆に大い に寄与した(注 24)。

⑵ 海運業

海運業をみると、横浜では日本郵船㈱の存在と役割が大きかった。同社の前身の一つは、 明治 3 年(1870)に設立された三菱商会である(設立当時の社名は九十九商会)。明治 8 年(1875)、政府は三菱商会の海運事業に対し手厚い助成策を講じるとともに、国有会社 であった日本国郵便蒸気船会社の解散に伴い、その所有船舶も無償で提供した。こうして 郵便汽船三菱会社ができた。もう一つの前身は、明治 15 年(1882)に三菱独占の弊害抑 制と海軍の補助機関としての役割を期待して設立された三井系の国策海運会社・共同運輸 会社であった。この郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が運賃値下げ競争でお互いをつぶし あうような消耗戦を展開し始めたことから、政府の仲介で明治 18 年(1885)に対等合併 してできたのが日本郵船会社である。同社は明治 26 年(1893)に日本最初の株式会社の 一つとして日本郵船㈱となった。 日本郵船㈱は外国の有力海運会社と激烈な競争を展開しながら世界各国に向けて次々 に定期航路を開き、日本人自身の足として大いに活躍する。 なお、横浜では、明治 29 年(1896)に浅野総一郎嘉永元年(1848)~昭和 5 年(1930) 。 浅野セメント㈱等から成る浅野財閥創始者)が渋沢栄一安田善次郎大倉喜八郎、原 六郎などの協力を仰いで創立した東洋汽船㈱も活躍した。同社は北米航路を開設するなど 積極的に営業展開していたが、第一次世界大戦後の海運不況と北米航路をめぐる競争の激 化に見舞われて経営が著しく悪化し、大正 15 年(1926)、日本郵船㈱に吸収合併された。

⑶ 貿易金融業

また、貿易金融に関しては明治 13 年(1880)、横浜正金銀行が設立された。 その頃既に国内金融に関しては、明治 2 年(1869)に設立された横浜為替会社が発展的 に解消して 5 年(1872)、第二銀行が誕生し、11 年(1878)には第七十四銀行も誕生して いたが、日本商人に何としても望まれたのは日本人の経営する外国為替銀行であった。 それまでの日本商人は、外国為替や正貨である銀貨の供給が文久 3 年(1863)以降横浜 に進出してきたセントラル銀行(本店・ボンベイ)、チャータードマーカンタイル銀行(本 店・ロンドン)、オリエンタル銀行(同)、香港上海銀行(本店・香港)等の外国銀行に握 られ、それを利用して外国商人が、例えば売込商に前貸資金を供与し、その見返りに大幅 な安値で商品を仕入れるなどしてうまく立ち回り、巨利を得ているのを苦々しくながめて いた。 外国銀行の中でも最も活躍がめざましかったのは当時東洋における最大の植民地銀行 であったオリエンタル銀行で、同行は明治政府との間でも、①維新戦争時にソシエテ・ジ ェネラル銀行(本店・パリ)により押さえられていた横須賀製鉄所の政府への引き渡し、 ②大蔵省造幣寮(後の大蔵省(現・財務省造幣局。現在の独立行政法人造幣局)の建 設と運営、③我が国最初の鉄道建設(新橋・横浜間)などの重要施策に金融を通じて深く 関わった。 このように外国銀行が草創期の我が国の近代国家建設や民間貿易取引において大きな 存在感を示す中、周囲からの大きな期待を担って登場したのが横浜正金銀行である。現在 の神奈川県立歴史博物館がかつての本店である。同行は明治 20 年(1887)の横浜正金銀 行条例により外国為替専門銀行となり、なお勢力の強い外国銀行に対抗しながら、徐々に その地歩を固めていく(注 25)。

倉庫業

倉庫業の発展も重要な要因である。もともと保税倉庫は運上所(税関)自身が保有・管 理する借庫という形でスタートしたが、これを借り受けることができるのは原則として外 国商人に限られていた(やがて日本商人にも開放)。自らの倉庫を持つということは商品 の現物を自ら押さえているということを意味し、治外法権を有する外国商人との関係では 自らの商売の安全性・有利性を確保するという意味も持っていた。そこで明治 10 年代に なると、日本商人に自らの倉庫を作ろうという動きが始まり、20 年代からその動きが本 格化した。しかし、横浜の倉庫業が独立した企業として営業の基盤を固めるようになるの は明治もようやく 30 年代以降のことであり、収益が安定して着実な成長を開始するのは 大正期に入ってからのことであった。倉庫会社は大雑把に言えば財閥系や地場系などに分 かれるが、多くの老舗倉庫が明治 20、30 年代から大正期、昭和初期にかけて創業してい る。 なお、明治 30 年(1897)に保税倉庫法が成立したが、同年にこの法律の下で民営倉庫 として横浜で初めて保税倉庫の許可を受けたのは中央倉庫㈱である(注 26)。横浜商人の 貿易面での活躍は、その商品を保管管理したこれらの倉庫の存在を抜きに語ることはでき ない。 さて、港湾関係業務と言えば、上記のほかに荷役作業、港湾運送、水先案内などといっ た業務も開港時以来、港を支える業務として連綿と続いてきた。本章では対外関係に焦点 を当てているのでそれらの業務についての説明は省略するが、そもそも港に埠頭さえ整備 すれば船がひとりでにやって来るものではなく、必要な一連の業務がきちんと備わってこ そ港が港としての機能を発揮しえ、入港船を招き入れるものである。そのことをあえてここに付言しておく。

第7節 関税自主権の回復と近代的税関制度の確立

関税自主権回復のための努力

安政 5 年(1858)に欧米各国と締結された通商条約は、日本に関税自主権がなく、また 外国人に治外法権を認めるなど極めて不平等な内容であった。そのため我が国にとっては、 この不平等条約を改正することが極めて重要な国家的政策課題となった。例えば関税自主 権の問題については明治 4 年(1871)、伊藤博文大蔵少輔 しょう (天保 12 年(1841)~明治 42 年(1909))が保護関税論と併せて関税自主権回復の必要性を建議・提唱しているが、こ れに同調した大久保利通大蔵卿と井上馨大蔵大輔 たいふ は同年、富国強兵の原資である関税収入 を決定する権利を外国の手に握られているのは「実に苦痛の至りに存じ奉り候」として関 税自主権の回復を求める意見書を正院に対し提出している。 政府は、明治 4 年(1871)、岩倉具視(文政 8 年(1825)~明治 16 年(1883))を全権 大使とする使節団を派遣しアメリカとの交渉にあたらせたが、成功しなかった。明治 11 年(1878)には寺島宗則外務卿が関税自主権回復のための新条約をアメリカとの間で締結 し調印したが、イギリスをはじめとする他国の反対により発効にまでは至らなかった。次 いで明治 15 年(1882)、井上馨外務卿が領事裁判権の撤廃、外国人に対する国内居住権・ 営業権の開放、外国人判事の採用等を発案するとともに、欧化主義を唱え洋風生活を奨励 するという、いわゆる鹿鳴館時代を現出した。しかし、人々の欧化主義への反感もあり、 井上卿の大幅な譲歩案に対する国内の反対運動が高まり、この試みは失敗した。明治 21 年(1888)には大隈重信外相(天保 9 年(1838)~大正 11 年(1922))が先の井上馨案を 若干改善した案を作成し、これをもとにアメリカ、ドイツ、ロシアとの交渉に成功したが、 その内容がロンドン・タイムズ紙に載ると国内の反対運動が再燃し、また大隈外相に対す る爆弾テロもあって、再び挫折した。大隈外相の後を継いだ青木周蔵外相の交渉は改正目 前まで進んだが、明治 24 年(1891)、来日中のロシア皇太子が大津で遭難するという大事 件(いわゆる「大津事件」)が起きたため、青木外相はその責任を取って辞職し、条約改 正作業は中断した。 その後陸奥宗光外相によって作業が再開され、明治 27 年(1894)、日清戦争の開始直前 に我が国はイギリスと新条約の締結に成功したのをはじめとして、30 年(1897)末まで に各国との新条約調印に成功し、32 年(1899)の条約発効を待ってようやく治外法権の 撤廃、相互対等の最恵国待遇の獲得及び関税自主権の一部回復に成功した。しかし、関税 自主権の完全な回復はなお遅れ、明治 44 年(1911)、小村寿太郎外相(安政 2 年(1855) ~明治 44 年(1911))の時にようやく改正に成功し、ここに長年の懸案であった条約改正 が完全に実現した。これにより、政府は関税政策を通じて国内産業の保護と輸出の拡大を 図ることが可能となった。

⑵ 関税関連法規の整備

開港時から明治期の初めにかけては、我が国に外国貿易に関する国内法はなく、各国と の間で締結された貿易章程等の条約法規が唯一の法規範として用いられていたが、貿易の 進展とともに我が国の実情に合致しない適用事例が数多くみられるようになったため、関 連法規の整備の必要性が高まっていた。 こうした中、明治 23 年(1890)に税関法及び税関規則が制定されたが、これらの法規は領事に裁判権があるために外国人に対しては実質的に適用されず、ほとんど有名無実の存在となっていた。したがって、まず不平等条約の改正を行う必要があり、前述のように 各国との交渉の結果、明治 27 年(1894)から 30 年(1897)にかけて各国との間で新条約 の締結が行われた。新条約の締結を契機に国内法の整備が行われ、関税定率法(明治 30 年(1897))、保税倉庫法(明治 30 年(1897) )、関税法(明治 32 年(1899) )、屯税法(明 治 32 年(1899))、税関仮置場法(明治 33 年(1900))及び税関貨物取扱人法(明治 34 年 (1901))がそれぞれ制定され、自主的な税関行政の基礎が確立された。

⑶ 適正通関確保へ向けての前進

監視取締手段の整備 税関の監視部門においては、開港時以来、入港船舶に対し積荷の有無、種類等を調査し て取締り上の手段を講ずるとともに、税関の執務時間外に貨物の積卸しができないよう積 荷の搬出入を行うハッチ(艙口)に施封を行うという方法をとってきた。 明治 32 年(1899)になると前述のように関税法が制定され、船陸交通に対する取締り や犯則事件の調査、処分等に関する規定が定められるとともに、関税法上の犯則として、 輸入禁制品の密輸入、関税ほ脱、無許可輸出入及び虚偽申告書の提出等が規定された。ま た、同法の制定により、犯則調査の際の倉庫等への立入り、捜索、物件の差押え及び警察 官吏に援助を求めることなどが可能となった。

通関手続の改善と税関貨物取扱人制度の創設 明治 23 年(1890)の税関規則には、輸入者は輸入手続の際、「陸揚願」に仕入書(イン ボイス)を添付すべきことが明記された。これに加え、関税法で、仕入書を添付しない場 合は税関官吏の鑑定価格に異議を申し立てることができないと規定されたことから、仕入 書の添付が促されることとなった。 輸出手続においては、明治 32 年(1899)に輸出税が全廃されたため、手続が著しく簡 素化された。 また、明治 34 年(1901)には、通関手続を代行する税関貨物取扱人に関する初めての 法律として税関貨物取扱人法が制定された。税関貨物取扱人制度は、税関長会議での横浜 税関長からの提案をきっかけに海外出張報告(外国にはライセンス・カストム・ブローカ ーがいるから通関がスムーズにいっているとの報告)を参考にしながら立案されたといわ れる。同法においては、税関貨物取扱人の営業を許可制とすることや業務に関して税関長 の監督を受けることなどが規定された。

⑷ 保税制度の確立

幕末期に誕生した借庫によって我が国に初めて保税の概念が登場したが、明治期には上 屋、保税倉庫及び税関仮置場等の保税地域が誕生し、現在の保税制度の原型ができ上がっ た。輸入貨物が我が国に到着すると、短時日のうちに国内に引き取られる貨物は上屋に、 一定期間保管されたうえで引き取られる貨物は保税倉庫(かつての借庫)に、加工・製造 等を行う貨物は税関仮置場にそれぞれ搬入された。これらのうち上屋と保税倉庫の違いは 蔵置期間の差異であり、上屋は輸出入手続を行う通関施設であるため蔵置期間が短く、一 方保税倉庫は商取引の利便を図るために設置されたものであるため長期にわたる蔵置が 可能とされた。 それぞれの制度のあらましは以下のとおりである。

上屋

上屋は、輸出入貨物を一時的に蔵置するために官によって運上所(税関)構内に設けら れた施設である。蔵置された貨物は、商人によって引き取られるまでは運上所(税関)の 監視下に置かれた。明治維新以前は、上屋は単なる物揚場と考えられていたため、上屋内 を整理する規則はなかったが、貿易の進展により貨物が増加するとこれを整理する規則が 必要となった。そこで明治 5 年(1872)、横浜税関が上屋規則を制定し、まず横浜港にお いてこれを実施し、順次各港に適用することとなった。同規則により、蔵置期間は 72 時 間以内とすることやその期間を超える場合、税関長は貨物を借庫に送ることができること などが定められた。上屋は当初は官設のみであったが、蔵置場所不足を補うため、明治 6 年(1873)には私設上屋も認められるようになった。ただし、私設の上屋は、実際には日 本人のみが設置した。その後、上屋規則は明治 32 年(1899)に制定された関税法に吸収 された。

保税倉庫 明治 30 年(1897)に保税倉庫法が制定されたが、これは借庫規則を発展させたもので あり、従来の官設に加え私設の倉庫も認められた。横浜における許可第 1 号が中央倉庫㈱ であることは前に述べたとおりである(24 頁参照)。私設保税倉庫も税関の強い監督下に 置かれた。上屋が輸入手続未済貨物を一時的に蔵置するための施設であるのに対して、保 税倉庫は長期間の蔵置(1年以内)が可能となる施設であった。また、同法によって輸入 手続未済貨物の運搬(保税運送)ができることなども定められた。

税関仮置場 明治 33 年(1900)に税関仮置場法が制定された。従来、輸入者は、陸揚貨物を 72 時間 以内に引き取る場合は上屋を利用し、その期間を超えて蔵置する場合は保税倉庫を利用し ていた。しかし、貨物の改装、仕分及び破損品の手入れを行う必要がある場合にはそれら の施設の利用ができないこととされていた。税関仮置場法はこの不便を解消するために制 定された法律である。 ところが、同法によって設けられた仮置場はすべて官設であり、その機能も輸入手続未 済貨物の改装、仕分及び破損品の手入れができるにすぎなかった。そこで、機能を拡大し 加工貿易の一層の発達を図るため、大正元年(1912)に仮置場法が制定された。これによ って、仮置場では単なる改装や仕分だけでなく、外国貨物の加工や外国貨物を原料とする 製造ができるほか、これらの加工・製造に内国貨物を使用できることとなった。さらに、 従来の官設に加え、税関の監督の下に私設の仮置場を設置することも認められた。この仮 置場法は、昭和 2 年(1927)に保税工場法へと発展した。

一棟貸倉庫と仮置所 上記の保税上屋、保税倉庫及び税関仮置場以外の保税地域として、横浜税関には一棟貸 倉庫及び仮置所という名称の倉庫が存在した。これらは保税上屋等を補完するものとして 設置された倉庫であった。 明治元年(1868)、アメリカ及びイギリスの商人から運上所構内に倉庫を建築したいと いう申し出があったが、神奈川運上所はこれを官費によって建築し、その永代使用を認め た。これが一棟貸倉庫の始まりである。その後、他国の商人に対しても同様に倉庫の永代 使用が認められた。これは、外国商人に対する特別待遇であり、借庫が本来は条約締結国 の国民の利便のために設けられたものであるにもかかわらず一般の商人に対しても等し く開放されていたのに対して、一棟貸倉庫は特定の外国商人にのみ倉庫 1 棟の独占的使用を半永久的に認めるというもので、いわば治外法権的な性格を持つものであった。一棟貸 倉庫は機能的には借庫と同じであり、当該特定の外国商人たちにとっては非常に便利な施 設であったと考えられる。歴代の横浜税関長は、そのようなあり方を改めようと試みたが、 諸外国の抵抗にあって目的を遂げることはできなかった。しかし一棟貸倉庫は、明治 33 年(1900)、税関仮置場法の制定を機に廃止された。 仮置所は、明治 22 年(1889)に横浜税関前の西側の波止場(いわゆる「税関波止場」に接した海面を埋め立ててその上に官費によって建築された 5 棟の倉庫で、上屋の混雑解 消を図るために貨物の引取りまでの間の一時的な置場として設けられたものであるが、機 能的には上屋と同じ施設である。それまでの横浜税関構内の上屋は非常に狭隘であり、貨 物が上屋の内外に置かれ、そのため検査や通関手続が遅れがちになっていた。そうした状 況について苦情を訴える外国商人が多くなり、イギリス総領事が横浜税関に改善を要望し たが、それが受け入れられなかったため外務省に問題を提起した。そこで、外務省が大蔵 省(本省)と交渉した結果、大蔵省から横浜税関に対して外国商人の意向を確認するよう 指示があった。その結果としてこの仮置所が設置されたのである。前述の一棟貸倉庫が外 国商人に対する独占的使用を認めたものであったのに対して、この仮置所は外国商人の要 望によって設置されたものではあるが、内外の商人に利用を認めたものであった。これが 大いに利用され活況を呈したため、明治 23 年(1890)にさらに 1 棟が増築された。その 後、仮置所は明治 33 年(1900)の税関仮置場法の制定に伴い廃止され、6 棟の倉庫のう ち、1 棟は税関仮置場の倉庫に、また 1 棟は収容倉庫に、他の 4 棟は輸入貨物の上屋とし てそれぞれ使用されることとなった。

第8節 象の鼻と新港埠頭

⑴ 鉄桟橋と象の鼻地区の整備

横浜港での貿易は、開港以来、神奈川運上所またはその後身の横浜税関の前の波止場(象 の鼻地区)(30 頁の(注 12)参照)において行われていたが、船舶が着くことのできる本 格的な岸壁がなく、貿易量の増大に既存の波止場の処理能力が追いつかなくなっていた。
ところで、当時の国力は現在とは比べものにならないほど弱く、政府は全国のどこにで も港を整備することができるというわけではなかった。そこで政府内では東京と横浜のど ちらに本格的な港を整備するかで長年論争が続いていたが、そのような中、明治 16 年 (1883)にアメリカから元治元年(1864)の四国艦隊下関砲撃事件の賠償金 78 万 5 千ド ルが還贈されてきた。もともとアメリカの国内では、自国が形ばかり参戦しただけなのに 多額の賠償金(しかもそのほとんどが、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの 4 か 国が下関の街を焼き払わなかった ........ ことに対しての代償なのであった)を幕府からむしり取 ったのは筋が通らないという意見が多かった。南北戦争時の北軍の将軍であったグラント 大統領(Ulysses Simpson Grant,1822~85,在任 1869~76)もその代表的な論者の一人で、 彼は大統領退任後来日した折に一層その感を深め、何年もの歳月を費やしてアメリカ議会 を説得し、ようやく還贈の実現にこぎつけたのであった。 この還贈金とその運用益を活用して横浜の港を整備しようと言い出したのが明治 21 年 (1888)に外相に就任した大隈重信であった。彼は明治初期に長い間大蔵卿を勤めていた のであるが、その頃から積極的な横浜築港論者であった。その彼の閣内での強力な発言が 閣議を横浜築港に導き、こうして明治 22 年(1889)、象の鼻地区の整備工事(第 1 期築港 工事)が開始されたのである。なお、この年は横浜に市制が敷かれた年でもある。

工事は明治 29 年(1896)に竣工した。この工事においては鉄桟橋(大桟橋の前身)が 建築されるとともに(明治 27 年(1894)完成)、税関前から鉄桟橋基部まで(現在の神奈 川県庁より海側の区画)が埋め立てられ、陸上設備として倉庫、上屋、起重機等が設置さ れた。この工事は神奈川県庁と内務省が行い、完成とともに閣議決定を経て横浜税関の所 管に移された。

⑵ 新港埠頭の整備

明治 30 年(1897)になると、横浜商業会議所が横浜税関長に対し「税関貨物渋滞に関 する具申書」を提出し、税関施設等の改善を要望した。これを踏まえ、横浜税関では新た に新港埠頭を建設する案を準備した。この案を時の水上浩躬 みなかみひろみ 税関長(文久元年(1861)~ 昭和 7 年(1932))が大蔵省に上申し帝国議会に提出するよう要望したところ、かねてよ り横浜港建設に積極的であった井上馨蔵相は、「このような小規模な計画はやめて、将来 の貿易の発展にも応じられる大規模なものを作るように」と指示した。そこで水上税関長 は、内務省を退官したばかりの古市 ふるいち 公 こう 威 い 工学博士(安政元年(1854)~昭和 9 年(1934) (注 27)に依頼して新港埠頭の設計図を作成した。ところが、横浜市民はこのような大規模 埠頭では港内が混雑して船舶の航行に支障が出るとして強く反対した。横浜貿易新聞(神 奈川新聞の前身)、時事新報等も反対の論陣を張った。これに対し水上税関長は繋船 けいせん 岸壁 の重要性を熱心に説き、様々な手立てを講じて何とか市民の理解を得ることができた。 こうした迂余曲折を経て、新港埠頭の建設(第2期築港工事)は大蔵省臨時税関工事部 及び横浜税関により着手された。工事は明治 32 年(1899)に始まり、6年半余の歳月を かけて 38 年(1905)末に終了した。 しかしこの工事は日露戦争による財政難のため既存計画の一部(現・新港埠頭の西側突 堤の埋立て等)を諦めざるをえなかったことから、地元より大蔵省に対し、未着手部分の 早期着工に向け強い要望が出された。この要望は大蔵省の受け入れるところとなり、工費 の約 3 分の 1 を横浜市が負担するとの条件の下に残りの工事(後期工事)が開始され(明 治 39 年(1906)起工)、大正 6 年(1917)に完成して現在の新港埠頭の形ができ上がった。 なお、水上税関長が自らの 8 年間の税関行政を綴った「八年記」には、工事決定にまつわ るある秘話が記されている。すなわち、大蔵省内では横浜市が総工費の 3 分の 1 以上を負 担するなら工事を行ってもよいとの結論に達していたが、それを踏まえて水上氏が市原盛 宏市長(安政 5 年(1858)~大正 4 年(1915))の感触を内々に探ったところ、「望アルヲ 発見シ当港ノ将来ノ為メニ多少ノ望ヲ懐 いだ 」いたというのである。 後期工事においては、赤レンガ倉庫も税関倉庫として建設された。赤レンガ倉庫のうち、 北側の第 2 号倉庫は、大蔵省臨時建築部(部長:妻木頼 つまきより 黄 なか )の設計による直轄工事で、明 治 40 年(1907)11 月起工し、44 年(1911)5 月竣工した。南側の第 1 号倉庫は、大蔵省 臨時建築部の設計、原木仙之助の施工により、第 2 号倉庫より少し遅れて明治 41 年(1908) 4 月起工し、大正 2 年(1913)3 月に竣工した。この倉庫は関東大震災で半分が壊れた。 新港埠頭は、その後関東大震災により大きな被害を受けるといった曲折はあったものの、 昭和 30 年代まで横浜港の中核的施設として貿易取引の面で主導的な役割を担うことにな った(注 28)。

[第 1 章の注]

(注1) 箱館日米和親条約等に基づき、安政 2 年(1855)、外国船に薪水、食料及びその他欠乏品を供給する基地として既に開港していたが、外国貿易港としての開港は 6 年(1859) 6 月 2 日(新暦では 7 月 1 日)になってからであり、横浜・長崎と同時である。 (注2) 領事裁判権とは、外国人が被告となった場合にその外国人が属する国の領事がその国の 法律に従って裁判を行うことができる権利をいう。 (注3) 最恵国約款とは、ある条約締結国にとって有利な取決めをした場合にそれが他の条約締 結国にも自動的に適用されることを認める条項をいう。
(注4) 井上清直は、幕末の外交家でめざましい業績を残した川路聖謨 としあきら (享和元年(1801)~慶 応 4 年(1868)。勘定奉行など数多くの役職を歴任)の実弟で、自身も下田奉行として ハリスの応接にあたるなど幕末の外交において大きな役割を果たした。 (注5) 日蘭追加条約は安政 4 年(1857)にオランダとの間で締結された我が国最初の正式な通 商条約で、オランダ人宣教師の行動の自由を保障するために同 2 年(1855)に締結され た日蘭和親条約の追加条約(40 か条)である。また、日露追加条約は、日蘭追加条約に 続き同じ年にロシアとの間で締結された通商条約で、ロシア船への補給のための箱館・ 下田・長崎の開港等を内容とする安政元年(1854)の日露和親条約の追加条約(28 か条) である。 (注6) 例えば当時の大型船である太平洋航路客船のコロラドは喫水が 7m あった。遠浅の神奈 川湊沖に対し、横浜地先は陸から 500m も行くと水深が 7、8m 以上もあり、港として適 していた。 (注7) 神奈川宿は、現在の国道 15 号線(第一京浜)の京浜急行神奈川新町駅付近から青木橋 付近を通り、台町の坂を登って上台橋にまで至る海岸線に沿って存在していた。そして 現在の横浜駅(当時は海の中)の北方 500m ほどのところに東西に細長く町並みが形成 されていた。神奈川湊は、現在の中央卸売市場から青木橋にかけての一帯にあった。 (注8) 外国奉行らは神奈川宿付近を実地検分した結果、神奈川宿は土地が狭隘で開港場として は不適当であるとし、一方、横浜村は遠浅の神奈川に比べて良港の条件を有し、また、 土地が広いので、港町を建設するのにより適しているとした。しかし、その真意は、東 海道筋にあたる神奈川宿は人々の往来が激しく、そこに外国人が居留するとなると、当 時の不穏な情勢の下で自然いろいろ紛争が起こるおそれがあるので、日本人が外国人に 直接接触する機会をできるだけ少なくしようとしたところにある。この時の幕閣の最高 責任者が大老井伊直弼であり、井伊の断固たる姿勢の下で外国奉行は、横浜村を開港 場にすべく準備作業を進めることになった。 (注9) 当時の横浜は、現在の元町付近から北西方面に細長く突き出た小さな半島で、「横に長 い浜」というのがその地名の起こりであるとされている。東海道からは野毛山と入り海 に隔てられており、「横浜沿革誌」(本田久好編集、明治 25 年(1892)発行)によれば、 もともと石高合計 335 石余、戸数 101 戸の一小村で田地も少く、そのために漁業を生 業とする漁村にすぎなかったようである。 (注10) 当初、各国の代表は幕府の強引な横浜開港に反発し、神奈川宿の寺院の一角を借りてそ こに総領事館を構えた。しかしながら来日した外国商人たちは、大型船舶を停泊させる ことができ、貿易取引が実際に行われている横浜開港場にこぞって商館を建設し、神奈 川宿に本拠を構える者はいなかった。そこでやがて各国代表も、オランダを皮切りに 次々に総領事館を横浜に移してしまった。 (注11) 当時の横浜には現在のような高層の建物がなく、富士山がよく見えたようである。例え ば慶応 2 年(1866)にフランス海軍士官として来日したエドゥアルド・スエンソン (Edouard Suenson,1842~1921、デンマーク人)は、「日本人の聖なる山、この尊大な る岩山は・・・・・・とても身近に感じられ、ひと足歩けばたどり着けそうに思われ る。・・・・・・横浜の日本人にとって富士山の意味は深遠である」と述べている(「江戸幕末滞在記」より)。 (注12) 神奈川運上所前の二つの波止場のうち東側のものはイギリス総領事館の近くにあった こと等から「イギリス波止場」「異人波止場」などと呼ばれ(後には「メリケン波止場」 とも呼ばれるようになったが、その名の由来は不明)、外国からの輸出入貨物を取り扱 った。一方、西側の波止場は内航船(ことに江戸との間を往来する船)が内国貨物を積 卸しするのに用いられたことから、「御国産波止場」「日本波止場」と呼ばれたが、運上 所(税関)の建物に近かったせいであろうか、「税関波止場」と呼ばれることもあった。 また、後に貿易量の増大に伴い、東方(現在の山下公園中央付近)に「東波止場」(ま たは「新波止場」)が増設されたことから、上記二つの波止場を総称して「西波止場」 と呼ぶようになった。「東波止場」はフランス海軍の物置場前にあったことから「フラ ンス波止場」とも呼ばれ、荷物改めのために東運上所が置かれた。なお、「横浜税関沿 革」「横浜税関百二十年史」などでは神奈川運上所前の二つの波止場のうち東側のもの を「東波止場」、西側のものを「西波止場」と表記している。いずれにしても、これら の波止場には定着した呼称はなかったようである。
(注13) その水野忠徳も、開港直後に起きたロシア人将兵殺害事件の責を問われて安政 6 年 (1859)8 月、加藤則著と共に神奈川奉行の職を免ぜられた。さらに堀利熙は安政元年 (1860)11 月、プロシア等との条約交渉の進め方について幕府から追及を受け、それに 対して何ら弁解を行わないまま、自ら切腹して果てた。 (注14) 羽二重 はぶたえ は日本の代表的な絹織物で、縦横糸に無 む 撚 よ りの生糸等を使用した、主として平織 りの後 あと 練 ねり 織物(生糸を織物に織り上げてから精練・染色する織物)。 (注15) 麻 あさ 真田 さなだ はマニラ麻の繊維を真田 さなだ 紐 ひも のように編んだもの。 (注16) 明治 35 年(1902)に発行された「横浜税関沿革」によれば、幕末から明治期にかけて、 神奈川運上所(横浜税関)では外国人を高額の報酬で顧問に雇い入れることが多かった という。その第 1 号は慶応 2 年(1866)、借庫規則の制定にあたり雇い入れたイギリス 人のベンジャミン・シールとトーマス・ホッグであった。当時の日本人には借庫の何た るかを解する者がおらず、したがって規則の制定作業を担いうる者もいなかったので、 これら両名を運上所に顧問として迎え入れたのである。借庫規則はシールの起草になる もので、運上所では同規則制定の後も両名をして共に借庫に関する事務に携わらせ、そ の傍ら、運上所の役人から 3 名を選び、両名に付き従わせて当該事務を研修させた。シ ールは明治維新の際解雇されたが、ホッグはなお 1 年間引き続き勤務したという。 (注17) この倉庫が慶応 2 年(1866)の横浜大火(いわゆる「豚屋火事」)により消失したため、 神奈川運上所ではその翌年(1867)に運上所前の両波止場間の埋立を行い、そこに石造 りの倉庫 4 棟を新築して借庫とした。 (注18) 明治 8 年(1875)、大久保利通内務卿(文政 13 年(1830)~明治 11 年(1878))が「海 外直売の基業を開くの議」を提出し、直貿易の必要性を訴えた。 (注19) 居留外国人というと欧米人のみを連想しがちであるが、実は数としては中国人が最も多 かった。明治 32 年(1899)に外国人居留地はその 40 年間の歴史に幕を下ろしたが、そ の前年には横浜に約 5,400 人の外国人が居住していたといわれる。実にその 3 分の 2 が 中国人で、次いでイギリス人、アメリカ人の順に多かった。中国人は欧米人に雇われて 貿易関係実務に携わったり、自らアジア諸国を相手に貿易を行ったりと、港における活 動領域は広かった。ただし、外国人居留地制度が撤廃された後も、いわゆる内地雑居令、 すなわち「条約若ハ慣行ニ依リ居住ノ自由ヲ有セサル外国人ノ居住及営業等ニ関スル 件」(明治 32 年勅令第 352 号)の発布により中国人の居住権と経済活動には厳しい制限 が課せられ、我が国への中国人労働者の流入を困難にした。このため、今日の我が国に おける華僑社会が東南アジアや北米のそれと比べてかなり小規模であるのは、100 年余り前のこの規制にその原因の一つがあると言われている。
(注20) 天保 11 年(1840)、現在の鹿島建設㈱の創業者・鹿島岩吉は、独立して江戸に「大岩」 という屋号の店を構え、水戸徳川家、松平越中守、土井大炊守などの大名屋敷に出入り した。横浜開港は開港場に役所、商館、住宅などの一大建築ブームを巻き起こし、岩吉 も江戸の店をたたんで横浜に進出したが、日本人居住地の建物はいち早く進出していた 大工たちによって既に請け負われていた。そこで、出遅れた岩吉は日本人大工が敬遠す る外国商館の建設を手がけることになり、まずジャーディン・マセソン商会の「英一番 館」を請け負い、続いてウォルシュ・ホール商会の「亜米一 あめいち 」を建築した。伝統的な日 本の建築技術を生かしながら洋館の建築を手がけた岩吉の実績が評価され、鹿島岩吉と その長男・岩蔵が明治初期までに手がけた工事は横浜の居留地の 3 分の 2、神戸の居留 地の半分以上に及んだという。鹿島父子は、「亜米一」のウォルシュ兄弟の推薦により 第十五銀行の洋館、高輪の毛利邸和洋折衷邸宅など数々の建築を手がけたほか、横浜水 道木管の大修繕工事などにも携わった。明治 13 年(1880)になると、岩蔵を初代組長 として鹿島組が創立され、これが㈱鹿島組(昭和 5 年(1930))を経て今日の鹿島建設 ㈱(昭和 22 年(1947)に社名変更)へと発展していく。 (注21) 歩合金の徴収が始まったのは、売込商については万延元年(1860)、引取商については 慶応 3 年(1867)であった。 (注22) 明治 6 年(1873)に町政が横浜町会所から区長・戸長に移管された際、町会所が所有し ていた多額の資産の帰属が問題となった。貿易商はそれらの資産は自らの積み立てた歩 合金(前出)が原資となっているのであるから貿易商組合の共有物であると考えた。こ れに対し明治 22 年(1889)、沖守固 もりかた 神奈川県知事は共有物であることを否定する措置を 打ち出した。この対立が遂に約 500 名いた貿易商のうちの 390 名が 13 町の戸長を相手 に集団訴訟を提起するという事態にまで発展する。訴訟は長期化したが、明治 27 年 (1894)になって、横浜に深い縁のある川田小一郎日銀総裁の仲裁により、共有物のす べてを横浜市の財産とするということで決着を見た。横浜ではこの事件以前にも明治 10 年代初頭に歩合金の取扱いをめぐる県と貿易商の対立やガス局事件と呼ばれる区長と 民権論者との対立などがあったが、この共有物事件が終結したのを機にそうした市民間 の対立も沈静化の方向に向かった。 (注23) 外国人居留地は条約改正に伴い明治 32 年(1899)に廃止されたが、横浜港及び神戸港 では旧外国人居留地を中心とする貿易がなおも続いた。 (注24) (旧)三井物産㈱は戦後の財閥解体によりいったんは解体されたが、昭和 22 年(1947) に第一物産㈱として復活した。昭和 34 年(1959)には、この第一物産㈱を中心にかつ ての三井物産系企業が再結集し、新生・三井物産㈱としてスタートした。 (注25) 特殊銀行であった横浜正金銀行第二次世界大戦後に閉鎖され、その資産をもとに昭和 21 年(1946)、㈱東京銀行が設立された。同行はその後の再編を経て平成 18 年(2006)、 ㈱三菱東京UFJ銀行となる。 (注26) 私設保税倉庫として全国で初めて許可を受けたのは神戸桟橋㈱であり(明治30年(1897) 10 月)、横浜の中央倉庫㈱は二番目であった(同年 11 月)。 (注27) 古市博士は近代土木行政の基礎を形造るとともに、我が国の工学及び土木工学の草分け となった人物である。明治 2 年(1869)から開成学校及び大学南校(東京大学の前身の 一つ)で学び、6 年(1873)には文部省初の留学生としてフランスに渡り、12 年(1879) には中央工業大学(エコール・サントラル)、13 年(1880)にはパリ大学理学部を卒業 した。帰国後は内務省に勤務。その後、帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)学長、 内務省土木局長、土木技監、逓信省次官等を歴任した。古市博士が新港埠頭の設計を引 き受けたのは内務省を退官して間もなくのことであるが、博士は大蔵省・税関が主体となって行う工事に省庁の枠を超えて協力したとされる。また、水上税関長の「八年記」 によれば、博士は後に逓信省次官に転じてからも、部下の港務局長が横浜港の鉄道との 連絡に関して異議を唱えようとしたのを厳しく制止したということである。ところで、 作家・三島由紀夫(大正 14 年(1925)~昭和 45 年(1970))の本名は平岡公 きみ 威 たけ である が、これは内務官僚であった祖父・定太郎が同郷の先輩・古市博士の恩顧を受けたこと から、自分の孫に博士の名を取って「公威」と命名したものであると伝えられている。
(注28) 新港埠頭建設の詳しい経緯については、「横浜港の生い立ちと税関」(横浜税関HP)参 照。

大君制国家

大政奉還の前日、つまり、10月13日、洋学者西周は、二条城に召し出され、慶喜に国家三権の分立やイギリスの議院の制度などを西に問い、西はそれらのあらましを述べた。そして、それを手記して翌日慶喜に提出した、とされる。西の立案した構想は、「大君」制で、大君に慶喜がなり、大阪を拠点として、議会制の形をとりながら政治の実権は大君の慶喜に集中する。軍事的には当面は各藩がそれぞれもっているが、将来はすべて大君が把握する。一方、京都の天皇は政治にまったく無権利の状態におかれる。これを大君制国家という。これをなんの構想もなく、権力闘争で武力をもって打ち砕だき、天皇を神様に祭り上げ日本をダメしたのが西郷隆盛です。
危険がのぞむごとに、日本人の尊皇の心を利用して、その絶対的な権威のかげで、明治の中央政府は徹頭徹尾、武力によってその正統性を確保しなければならなかった。結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかならなかったのです。明治維新以来、対外膨張路線はその表れです。
さらに付け加えれば、幕府はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、さらにはフランスと修好通商条約を結びます。日本における外国の活動は、この修好通商条約できめられたフレームワークのなかでおこなわれたので、日本が西欧列強の植民地にならなかったのです。

 

「女工と結核」と題する演説


[女工結核」と題する演説
石原修は九大医学部で衛生学を専攻した医学士であった。農商務省社会局に入り、紡績工場の監督官として各地を視察してまわった。各地を歩きまわり、数年の精査をへて綿密な基礎資料をつくり,一つを職務上の報告として内務省へ、一つを学位論文として大学へ提出した。しかし二つともタナ上げされてしまった。 「社会へ公表されると影響大なるにより」というのが理由であったが、しかし、大正ニ年十月、国家医学会例会席上で「女工結核」と題する演説が行われた。
まず日本の総体の職工数を見ますれば、私立工場の人数だけでも八十万あります。うち三十万は男で、約五十万は女であります。日本の工業の盛衰権は女の手にあるというても、ほとんど過言ではなかろうと思います。
いきなり結核の数字をのべましても、あるいはおわかりにくい点があろうかと思いますからして、女工全般の模様をいっしょにのベまして, そうして結核の数字をごらん願いたい。女工の数は五十万でありまして, 二号表をごらんになればわかりますが、年齢の関係を見ますれば、五十万のうち二十歳未満は三十万で、二十歳以上は二十万であります。数字にはございませぬが、二十歳以上というのは大部分二十歳ないし二十五 歳未満のものなのでございます。とにかく日本の官立私立をとわず,日本のエ業に従事している労働者の九十万の三分ー、三十万人はまだ充分に発育もしないニ十歲未満の女工ら成り立っているということは、いかにも我が国の工業の基礎が薄弱たるということの証左とするに足ると思います。
次に寄宿舎別の割合を見ますると、女工の七割は寄宿しております。いったい、きくところによりますると、 西洋では工場を建てまするにはそこの村落の者を目的とする。その工場を立てました村落の者を職工にやとう つもりで、その村落に工場を建てます。日本ではそれと反対でありまして、その工場の付近に住っている者などには問題をおかぬ、そこよりはるかに離れた地方から若い子女を引っぱってきて、それを寄宿舎に入れて使うのであります。つまりこれかが結核の問題にとって、深い深い意味を含んでおります。
多数の工場では、じつは日本の工業界一般と申してもよろしいでしょうが、むしろ寄宿女工の方を非常に好んでいるのであります。通勤女工は出勤欠勤がマチマチになるので、一定の機械を動かして事業をするには甚だ不便であります。第一家の都合があって休む、第二には懈けて休む、第三には付近にお祭りがあれば休む,第四には病気になればむろん休みます。ところが寄宿女工はまず第一に家事の都合ということはありませぬ、第二には懈けるということはこれは別問題でありますが、もしも工場の付近にお祭りがあるとすれば見にゆきたいということは通勤女工でも寄宿女工でも同じ心もちであろうと思いま す。また病気にかかれば工場に出られぬということは、通勤女工も寄宿女工も異なるところがないだろうと思います。それらの点から寄宿女工を好むということは理由にはなります。寄宿ということは一つの拘禁制を含んでいる、意思の束縛を含んでいる、意思の束縛を受けやすいという 事柄を含んでいるかとも思われます。それでいったい女工はどういう労働状態にあるかということを少し述べてみたいと思います。まず生糸はどうかといえば、十三時間ないし十五時間も使っております。織物はとうかといえば、十二時間という所もございますが多くは十四時間ないし十六時間も使っております。
さて十四時間ないし十六時間使いますると、どれだけの時間がのこりましょうか。九時間ないし十時間のあいだにお湯にもはいらねばならず髪もゆわねばならず、而してこの時間内で休養もしなければならずという有様でありますから、ずいぶんせわしいように思います。かような状態でありまするから、まだ充分に発育しないところの女工にとって、はたして身体の休養ができるかどうかは大いに攻究しなければならぬところの問題であります。また我が国の文明はまだ充分の発達をいたしておりませぬが為に、これらのことを公認していいる事実があります。生糸織物の如きは外国の文明が入ってまいりましたけれども、在来の作業方法を改良するということが多くないように見受けられます。生糸織物の作業に重なる必要のものは生きた手でありまして,機械をあまり使わぬ。そうして大資本のものはいったいに少なくて、小資本の小仕掛でやっている家内工場に なっている場所が甚だ多いのでございます。
この関係は休憩時間に深き関係をもっているのであります。十三時間ないし十六時間使いまするが、もちろんこのあいだで食事時間を与えなければなりませぬ。またその他に適宜の休憩時間を与えねばならぬのであり ますが、またじつは与えているでもありましょうが、しかし何分にもただ今申しましたとおり生きた手が必要 でありまするから、どうかすると約束どおりにはゆかぬで延び延びになる点が多うございます。どこの工場にゆきましても、食事後休憩時間は二十分ないし三十分間としてあるが、三十分休んでいるからよいと思っていれ ばとんでもないことになる。三十分は最長限を示したので、女工自身が食事時間をちぢめて職業に就くのは勝手であります。もしもゆっくり食事をして食後三十分間も休憩しているというようなことをしたならば、監督者ににらまれるのであります。これに反して少しの余裕でもあれば働くというようにすると、監督者の目つき がよくなるのでございます。誰しも監督者の目つきの穏和なるを望みますから、沈着して食事もじっとしておられぬというような状態でありますのが見受けられます。中にはおにぎりを傍において食いながら糸を紡ぐ、 あるいは布を織っているという所もなきにしもあらずであります。そういう関係でありますから、午前の休憩 午後の休憩というようなことはどういう関係になっているかということはほぼ御想像ができようと思います。
のみならずこの生糸、織物の工場の設備はとうかといえば、立派な所がたまにあるがまず少ない。そうして 工場内はいったいに薄暗いのであります。生糸工場の如きは水蒸気がいつでももうもうと立っております。西洋形の工場でありますると左程でもありませぬが、日本形の工場になりますると、水蒸気が空気内に飛散しております。かくの如き所にまだ十分発育しないところの少女が労働作業をやっておる、これで健康状態を維持されてゆくということは不思議のようであります。
それでございますから、彼ら女工の体格を調べて見ますると一般に悪い、ことに二十歳未満の者の体格が目だって悪い。そうして長く仕事をやっておりますればおりまするほど,体格が悪くなる。十七歳の者の体格を見ると、十六歳ではいった者より十五歳ではいった者の方が悪い。十四歳ではいった者の体格は、なお劣ります。これらはまったく、労働の過激にすぎはせぬかということの反証であります。
第二十一号表に書きましたのは、連続徹夜業と体重との関係であります。三段目からごらん願います。七日間連続夜業を致しますれば一人平均夜業量の減量を示しております。
七日間夜業をいたしますれば、この表に示しておる如く目方が減ると いうのであります。この表はあちらこちらに頼んで、ようやくこれだ けの人員について調べることができたの,でありますが、七日間連続徹 夜したならば体重の減ずるということは推測できようと思います。ど のくらい目方が減るかといえば、一例として紡績甲においては一人平 均夜業後の減量は百七十匁である。次の昼業間に回復するのはどのく らいかといえば、六十九匁である。回復しないうちにすぐ夜業にかかるということになるから、交替期間まで夜業をつづけていれば百一匁 は体重を奪われてしまうのであります。この表をもって推して考えた ならば、いつまでも夜業をつづけていったならば、ついには骨と皮ば かりになる人間が出てこようと思います。これでは堪えられませぬか ら、退職するよりほかないということになりましょう。仮りに目方が 昼業のとき回復するとしても、それは成長した人間であるならばそれ で身体のバランスが立ってゆくかも知れませぬが、まだ発育時代にあるのですからバランスが取れませぬ。そこでたとえば十四歳まで発育 し来たったが、工場生活をすればそれ以上発育をせぬということになるのであります。
ただ今ごらんになりまするとおり、昼業で回復しない上に幼者の発育時代に発育をさまたげるのですから、二重の損害を受けていると言わなけれぱなりませぬ。言葉は少し乱暴に失するかも知れませぬが、見方によりましてはこの夜業というものは、人間を長い時期において息の根を止めつつある行為では ないかと思われます。息を止めつつある行為はついに未遂におわるのであります。それはどういうわけかといえば、その被害者がとても我慢がしきれぬで自由に遁走する のであるから既遂にならぬですむのであろうと思います。かように思いきったところ のことが罪もないところの人の子女の上におこなわれているというのは、じつに異様 の感じをわたしどもに与えます。そこで図抜けて身体の丈夫な者は夜業に堪えてやってゆきますが、しかしながらこの夜業には死亡率の上に結核と密接の関係が出てくる のでございます。
そこで、かような仕事場においてどのくらい身体が堪えられるか、言いかえればどのくらい勤続していけるかということは第三号表をごらん願いたい。この表はある一 定の時期を限って、そこで市勢調査みたいなことをやりました。その結果は生糸は事情が違いますが、紡績と織物は女工の半分は一年と続いた者がありませぬ。勤続一年 未満のそのうちの半分は、六ヶ月続いて勤めないものであります。これは統計にあら われた数字を事実としまして,まず仕事についてから三ヶ月ないし六ヶ月のあいだに 工女をやめて出るものが非常に多い。紡績は三ヶ月で出る者が多いというのは事実ら しい。これを経営している方々からききますれば、こう申します。農業から転じた者 が規則的に出来ないから堪えられぬで帰るのだと言いますが、なるほどそれも確かな 理由の一つでございます。三ヶ月ないし六ヶ月で出てゆくということは、いま申し上げたような仕事は人間の仕事として堪えない、人の身体を破壊するというものではなかろうかと思われます。 三ヶ月ないし六ヶ月内で工場を飛び出すところのエ女の運命は、もう少しあとで申し述べようと思います。かような関係でありますから、毎年毎年工場主は多数の人間を雇いませねば営業を永続することができませぬ。
それで寄宿舎の三十五万の女工の生活について一言したい。彼らの衣食住について申せ ば、被服は工場着を用いることは稀でございますが、事実においては工場に出る着物と寄宿にいるとき着る着物と別になっておりますから、事実において大きな工場において工場着はあると認めてよろしゅうございます。
食物の点はすべて工場主からもらっております。その食物などを調べると、なかなかよい物を食っております。十年前は工場の食べ物は粗末であったということでございますが、ただ今では粗食の所が少ない。割合によい物を食っておりますことは工場主が女工の身体を丈夫にしようということからでもありましょうが、一方 は募集が困難になりましたから、人間の欲のもっとも手近なるものは食欲でありますから、食欲という手近かなものをもって女工の御気嫌をとり、それを広告として募集するようになっているということでございます。
それから住居ということも少し申さなければなりませぬ。小さい工場ならびに二階は寄宿舎を使っておりま すが、これらは地面の面積を節約するのと、前に申しました拘束がやさしいから、今一つはいわゆる風俗取締 りの便利だと称すためであります。大きな工場はまず大概工場と別に学校寄宿舎のようなものを造っておりま すが、その構造を見ますればだいたい二階であって、部屋の大きさは十何畳から三十何畳というマチマチのも のになっております。部屋の中の採光なども充分になっている所が少ないのであり、多くは薄暗い状態になっております。資本の大きいよい会社になりますれぱ寄宿舎の構造その他すベてゆきとどいておりますが、資本 の欠乏しているあまり大きくない工場では、寄宿舎もずいぶん思い切って粗末であります。
それで収容してありまする女工一人に対する畳数はどのくらいかというと、全体をひっくるめて女工一人に 畳一畳というような割合になっております。ところが長野県の生糸工場のたくさん集っているような所では、ずいぶんひどいので畳一畳にならない所があります。小さい工場にゆきますれば、むろんもっと狭い所もある かも知れませぬが、まずそんなものであります。
次に寝具でございますが、これは非常な特別な例外は別にしまして、まず女工二人に寝具一組しか与えませぬ。当業者の話をききますれば寝具は一人に一組ずつ渡しているのだが、場所が狭いから二人ずつ寝るとい うことを言っております。一人あたり畳一畳ではその方が便利でありましょうが、一枚のせんべい布団と一枚 のかけ布団をもらって寒い夜をすごすことは出来にくいと思われます。思いきったことを申すと当業者から御 非難を受けるかも知れませぬが、紡績にはそういうことはございませぬが、生糸.織物などの中以下の工場に なれば、場所が狭い上に布団が足りませぬから,いきなり布団を敷きつめて雑魚寝をやって当番の婆さんがかけ布団をもってあっちこっちから引っかけてゆくという有様の所がございます。女工の出入りは頻繁でござい ますから、一つの寝具は 一年に六人から七人のお客様をいただくことになります。そうして相手方の変るた びごとに日光消毒でもするかといえば、決してそういうことはしませぬ。それでございますから、六、七人の 中に不幸にして伝染病、ことに結核のあったときには、後に寝るお客様に皆伝染することになろうと思います。 伝染病を伝播さす有力なる要素であります。二人いっしょに寝るのでありますから、窮屈で十分に睡眠ができ ませぬ。足を伸ばすことも手を伸ばすことも出来にくいのでございますから、自然寝苦しくて睡眠が不足にな ります。したがって休養が充分にとれないことになります。次は発育時代の若い人間に色情を興奮させる、これらも誘因になって、結孩を惹起しているのではないかと思います。
ことに紡績会社の寄宿舎の事情を述べてみたいと思います。紡績では連続徹夜をしている工場では、二十四時間女工がいると同様に寄宿にも二十四時間女工がおります。これに二つの方法がありまして、一つは「片番 使い」他は「両番使い」であります。「片番使い」は寄宿を折半し、甲組寝室、乙組寝室として使います。この 場合には寝室は十二時間主人なしでおります。而して主人が昼業すれば、昼間は開放にして風を入れ光線を入れることができます。すなわち一力月の半分は室に光線と風が入れられます。「両番使い」は寝室を甲組乙組 共同で使うので、甲組が夜掃って朝工場に出かけると、乙組は朝工場からきて日暮まで寝ます。いずれの所に ても二人一床は通則であります。昼間寄宿で眠りますとき明るいと眠られませんから、戸をしめるなり幕をお ろすなりします。つまり夜の模様に近よせます。それですから「両番使い」では年が年中夜であります。「両 番使い」の場合に寝具まで両番使いになる、すなわち四人一具もまったくないとは申しかねまする。
かような生活状態でおって、結核が伝播せないことを望むは望む方が無理であります。
田舎の村落から募集されるもので調べの出来たのはー府二十七県でありますが、まず全 国で二十万人くらいは毎年工場に出稼ぎをするように思います。まあ二十万人として勘 定しますれば、そのうち十二万人は出たきり帰ってこない。そうして残りの八万人だけは、まず郷里に帰って くるということになっております。一年に十二万とすれば十年に百二十万人の娘たちを田舎から奪い取るということになりますが、これは村落にとりては容易ならぬ問題と思います。
その十二万の娘たちの運命のことを申しますると、彼らは国を出るときには、ふたたび国に帰るときには美服を飾って帰る。あるいは父兄の貧苦を救済するという目的で地方を出ましたが、さて仕事について見まする と、その仕事が思うに違ってじつにつらい。決心したことがとても出来ない。ついに三力月ないし六力月のあ. いだに第一に来た工場を去ります。あきらめて国へ帰ったものは幸福でありますが、せっかく苦心して郷里を 出たのに目的を達しなくては郷里に帰るということは気はずかしい。この工場が食物がよい、仕事が楽だとききますると、つまり無智なるところの彼ら女エはそのエ場に入ってしまう。すると純潔なというては悪いかも知れませぬが、普通の娘でない渡り者になります。その 時分にはもう精神も堕落してくるし、それからしてだんだんニ、三所の工場を歩い ているうちに身体も続かなくなる、工場の仕事は嫌になる。ついには女工の気のきいたものは酌婦になるし、気の利かぬものは貧民窟の私娼になってしまうようなことがはなはだ多いのでございます。
また彼ら女工の国に帰る者の状況を申しますると、国に帰りますもの六人または七 人のうち一人はかならず疾病にして重い病気で帰ってくる。まず八万の中で一万三千余人はありましょう。疾病たるのゆえをもって国に帰ります。一万三千人の中の四分の一、三千人というものは皆結核にかかっております。その関係は第十七号表をごらんになればわかります。
そうしてこれらの人々の故郷に帰りまして、自分の一家はもち工場統計の欺職ろん近隣に向って結核をふりまいております。その実例はたく さんきいております。医学士の菅野次郎という人が「実業之日本」に書いたのによっ てもわかります。肺病の戦慄すべき媒介物として、一青年の結核にかかりて三千人を斃したというような見出しで書いている。菅野君の住んでいるある田舎の方面で、男 女十四、五歳になると京阪地方に職工に出かける、皆ニ年もたたずに帰ってくる、いずれも病気で帰ってくるのであるが、どういう病気かと問いただしてみると結核であ る。衛生の何事を知らぬ田舎のことであるから、ついに四方八方に伝染さしたのである。その一例を挙ぐれば、ある村落で五士尸ぱかりある所である。ある青年が三重紡績の男工になって、国を 出てまもなく結核にかかって帰京して死亡したが、その後五年のあいだに三十名の結核死亡を出すにいたったのである。
私の友人に宮城県の奥に入った所へ調査にいった者がありましたが、その調べによりますると、あるときに 女工が三十人ばかり国に帰ってきたが、そのうちの二十一人は病気のために帰ってきたのであるが、その中で 十五、六人というものは結核にかかっておりましたので、いかに結核のために国に帰るものが多いかということは、この話によつてもわかることであろうと思います。
まだ幾らも例がありますが、まずその例を挙ぐることはこれたけに止めます。
この第十七号表に書いてありますのは、寄宿人百人以上をもっております工場は地方の官署に向って疾病のゆえをもって解雇したものの人名,年齢、病名というものを報告する義務になっておる、それがひとまとめに なって内務省にくる、それを拝借して調べたものでございます。これによって見ても、疾病のゆえをもって解雇したものが結核をもって国に帰る者の多いということが十分おわかりであろうと思います。工場から病気のゆえをもって帰すのはよくよくの重いものに相違ない。軽い者は趣きが違っておる、それらは肺尖ヵタルくらいは潜んでいるように思われます。これらは女工に籍がありますから決して解雇でありませぬ。それでござい ますから、工場を出すときには官辺に出す報告には届出の必要がない。それは事実においては自然の解雇になっている。ニ力月も三ヶ月も帰ってこない、通信もないという者は解雇してしまう。そのときは病気が何かわかりませぬから、工場でも届け出ずることは事実できませぬ。決してわざと内々にしておくというわけのもの でもありませぬ。それゆえに官府の報告にあらわれたものの以外にたくさんあるということは間違いないところの事実であります。少し怪しくなれば帰すのであります。工場で作る疾病統計、死亡統計には結核は少ししかないということはあたりまえである。工場から出た統計を見て結核が少ないということを判断する人もありましょうが、もしそういう人があったらとんでもない間違いであろうと思います。
少しく方面が違いましょうが、女工の出稼ぎの現況と農村の関係ということについて少 少述べさせていただきたい。
田舎の村落から出るところの子女、俗語で申す「あまっこ」、お花さんとかお金さんとかいうそういう手合い、 これらは私の申すまでもなく、村落を繁栄せしむるところの重要なる人間で田舎の花役者である。それが毎年 二十万人に近いものが奪いとられるのである。その中の十二万というものは生れ故郷の町村にも帰らず他郷を 彷徨している。帰ってくる八万の者はたいてい体が弱くなって、中には重い病気もあります。いずれも健全な 身体を持っているとは思えない。
そんな状況でありまして、毎年日本の田舎からして二十万の「あまっこ」を失っている。事実において、これら農村の華役者たるところの「あまっこ」を擦り潰していると同じであろうと思います。農村を研究される 方は、この方面にお考えを願いたい。村落の父兄のことを考えましたならば、彼ら父兄は自分の大切な娘をは かない未来の光明のためにかくの如き悲惨なる境遇におもむかしめて、先刻申し上げた如き悲惨の状態に陥ら しむるのである。しかし悲惨の境遇に陥らしむるということを未然に知っているという者ならばまだしもであ りますが、結果にあらわれてはじめて悲惨の状況を知るというようなことは、彼ら町村の父兄の身上を考えましたならばずいぶん悲惨のきわみであろうと思います。
事柄が全国にわたりまするから、既にニ、三の府県では大いに覚醒をしてこれに対する方法をとっている。 新潟県山梨県宮城県などでは、きくところによると女工として外に出すということはできるだけ妨げることに努力しているということであります。それでございますから、日本全国の医師ならびに有力者がこの事情を知っているならば、何とかしてこれに対する方策を考えねばなるまいと思 います。工業界において女工等のボィコットをされたならば、たちまちにして経済界の大破綻をきたすのでありますが、あるいは将来のためかも知れま せぬ。まず目下のところはそういうこともなくてしあわせでありますが、それらの点もよく実業家などの考えおくべきことであろうと思います。
次に女工の死亡率ということについて述べたい。女工の死亡率ということは二つの方面から考えなければな らぬ。第一は工場で死んだもの、もう一つは工場を去ってから死んだもの。 これを合わせて勘定しなければ女工の死亡率とは言えませぬと思います。
まず工場在籍女工死亡率でありますが、先ほど申しましたとおり疾病のゆえをもって解雇したと同様に、死亡者のあったときは一々届け出ずる。それから全職工数というものを届け出ずる義務があります。これを原にして勘定いたしますると月末の職工現在 に対してざっと平均してみますと、織物は少々不明の点がありますが、まず年末現在員一千人の中十人、十一 人という者は工場で死ぬ、そういう風に一方から報告が出ております。私は工場の寄宿にいる者について調べ ましたが、年末(大正ニ年末)現在の寄宿の女工を問題にして考えますると、寄宿の死亡率は千人につきまず十 三人と考えます。
今度は工場を去って国に帰って、どのくらい死ぬかということを次に調べました。そうして工場を去ってか ら後の死亡率を推算しようと思います。
それは第十一号表をごらんになればわかります。この表の第一段は出稼地において、むろん工場において病気になったまま国に帰って癒らずに死んだ数、第二段目は他の理由で帰郷し、四十三年に重い病気になって死 んだのであります。これを合わした者が、まずまず工業のために影響を受けた死者と見てよかろうかと思います。
そうしますると、千人について三十人は国に帰ってきて死ぬ、そうすると三十人帰ってくれば一人死ぬわけ になる、とてつもない数になります。エ女が工場を去ってから死んだ者の数がそういう割合であるとするに、 よくよく熟慮してみなければならぬと思います。先ほどから二十万、十二万、八万という数字を述べましたが、 それはざっと三分の一しか出稼ぎに行った者が帰ってこない、三分のニという者は郷里に帰ってこない、どこ に経廻っているかわからぬ人間でありますということを申したのであります。
さてその三分のニの人間のことを少しく考えて見たい。まず身体が弱くなって*とこやらすぐれぬという人間 は国に帰るということは人情の然らしむるところと思います。それでこの八万人帰った者の死者を調べて見ますると,すなわち千人の中で三十人死ぬという数字があらわれている。しからば、このあとの十二万人という 者に対してこの数で割り出すということは少しく乱暴の次第と思います。そうかと申して、十二万人の死亡率 の調べようがありませぬ。それでじつに極端の仮想でございますが、仮りに十二万人の人間がピンピンしてお って、そうして一人も死な.ないという前提をおいてみて、そうして国に帰って死亡した人の数を故郷を出た人 の数でもって割ってみた、そうすると一段目の一〇.四一という数になります。これが工場を去ってからの死 亡率とみればよろしい。実際の死亡率はこれより少ないことは決してなかろう、と私は考えます。
むろん十一号表という数字は、四十三年中病気にかかって四十三年に死んだ のである。それから四十三年に他の理由で帰って四十三年中に重い病気になって同年中に死んだ者の数で、四十三年に疾病また他の理由で帰って四十四年、四十五年に死んだというようなものははいっておりませぬ。ハンパの統計と見なければなりませぬ。そういう事実は放擲して千人中十人四分という者は、工場生活のために 国へ帰ってから死んだ者と見てよかろうと思います。それですから、工場在籍中の死亡率八人をこれに加えた もの、すなわち十八人は女工の死亡率の最低限と思われます。
私の考えは十八人から下らぬと思います。太陽が東から出ている以上は、少なくとも十八人以上だろうと思うております。
それで日本の工業はどのくらい死人を出しているかということになると、千人について 工業五千人を殺す死亡者十八人であろう。日本の女工は五十万人とすると、五千人の女工が死んでいる割 合になります。言いかえれば工業のためにこれだけの者が犠牲になった、春秋の筆法でいえば、工業五千人を 殺すということを言ってよかろう。謀殺故殺は刑法上の責任がございますのに、人間をかくして殺したのは何 の制裁がない。工業は見様によっては白昼人を殺しているという事実があらわれている。しかるにその責任を 問う者もない、さほど世間の人が重大とも何とも思っておりませぬ。じつに異様の感がおこります。
今から十年前にあたって奉天の戦争で戦死者七、八千、負傷者五万人くらいを出していると思いますが、エ業のために犠牲になったところの女工の数は奉天の死者あるいは傷者と相当するものではないかと思います。 いわゆる矛をとって敵に向かって戦をして死んだ者は敬意をもって迎えられ,国家から何とかいろいろの恩典 に報いられ、国民より名誉の戦死者とされ、また負傷者となった者は充分の手当を受け、名誉の負傷者として 報いられ迎えられます。それにもかかわらず平和の戦争のために戦死したものは国民は何をもってこれを報 いつつあるのであるか、国家は何をもってこれに報いているかということは私にはわかりませぬ。
涙深いことを申すようでございますが、女工の運命は実に悲惨なものでございます。やはり彼ら女工といえ ども、われわれの大事な同胞であろうと思います。また彼らを憐れむということのほかに、一方には国という上から考えましても,工業が結核を国内に撒布して世に立って働くものの生命を絶ち、よし生命を絶たれぬながらも体質の弱い者は何万人出ているかわかりませぬ。この国がいつまでもかくの如きことをして進んでゆき ましたならば、われわれは子孫のために不祥なる事柄を残すということになります。子孫に対し父祖として誠に恥ずかしいことではないかと思います。
いささか社会のため国家のためどうかと思いまして、あえて御清聴をわずらわした次第であります。

 

 

(23.8.27) NHKスペシャル 円の戦争  もう一つの不思議な通貨戦争

 なんとも不思議な番組が放映された。NHK終戦特集として放映した「円の戦争」と言う番組である。この「円の戦争」とは日中戦争(昭和12年~)から太平洋戦争(昭和16年~)にいたる約8年間の戦費、その中でも中国戦線の戦費をどのようにして調達したかをあぶりだそうとして追ったものである。

 しかしこの番組は非常に理解するのが難しく、想像力を駆使して不足の情報を補わなければならなかった。
理由は二つあって、一般に戦時経済についての知識が私を含めて不足していることと、さらに戦時経済そのものが秘密のベールにつつまれていて今回明らかになった内容を含めて情報が極端に少ないことによる。
 しかしそれにも関わらず当時欧米諸国から見たら最貧国の日本が約8年間にもわたって戦争を継続できたからくりがあるはずで、この番組ではそのからくりが銀行間の「預けあい」というシステムにあったと述べていた。
 当時大日本帝国には3つの発券銀行があり、日本銀行朝鮮銀行台湾銀行がそれである。それぞれが円を発行しており等価(100日本円=100朝鮮円)で交換されていたが、なぜ発券銀行を別にしたかの理由は「植民地経済が悪化したときにそれをすぐに切り離すことができるように」との理由からだったという。

注)現代的なセンスからは、統一通貨円で日本、朝鮮、台湾に円圏を確立して経済統一を図るほうが合理的に思われるが、当時は3地域の経済の発展状況が相当異なっていたため、別個の経済圏としたほうが合理的と判断したのだと思われる。 

 しかしこの個別に円を発行できるという独自性が朝鮮銀行の独走を招いた。それは朝鮮銀行勝田総裁が朝鮮銀行を朝鮮のみならず満州、北支を含めた中国全土の共通通貨発券銀行にしようとの構想を持っていたからだと言う。

 これはちょうど関東軍高級参謀板垣征四郎や石原 莞爾が中国全土を日本の支配下に置こうとして満州事変(昭和6年)から日中戦争へと戦線を拡大していった裏の資金調達の事情と一致すると言う。
私は満州事変も日中戦争も日本の国家予算で実施していたものと思っていたが、実際は関東軍は現地での物資調達が可能な仕組みを考案していたという。

注)当時の大蔵大臣高橋是清は軍部を抑える手段として、軍事予算を絞り込んでおり関東軍は自由に活動できる資金を国家から支給してもらえなかった。このため独自で資金調達をする必要に迫られていた。

 石原 莞爾の言う「戦争を持って戦争を養う」と言う思想だが、はっきり言えば「必要なものは現地で収奪する」と言う思想である。
これは近代戦争としては異例とも言っても良い手法で、アメリカ軍などは武器・弾薬・食料を含めてすべて本国からの輸送によっており、戦費はすべて国家予算で統制されていた。

 

 一方日本は満州事変にしろ日中戦争にしろ、政府や大本営の不拡大方針を無視して現地軍が戦線を拡大させているため政府は予算をつけない。だから関東軍は資金を自分で捻出せざるをえずその財布は「預けあい」と言う方法を編み出した朝鮮銀行だったという。

 なぜ「預けあい」と言うような方法を考案したかの理由は朝鮮銀行といえどもなんの根拠もなく通貨を発行することはできないからである。発券するにはそれなりの根拠が必要で、反対に言えば根拠さえあればいくらでも発券できる。

 番組ではこの「預けあい」の仕組みを図解していたが、いまひとつ理解ができなかった。
通常「預けあい」と言うのは現在の経済用語でスワップといい、信用がない通貨と信用がある通貨を互いに交換して助け合うことで、最近ではリーマン・ショック後の韓国政府を支援するために、円とウォンのスワップ協定が結ばれた事例がある。
注)韓国のウォンが急落して決済通貨として利用できなくなった場合、韓国政府はスワップで手に入れた円を市場で売却してドルに変えてそのドルで決済をするという仕組み。

 朝鮮銀行が編み出した預けあいとは、朝鮮銀行の別会社として設立した中国連合準備銀行(連銀)と言う銀行との間で朝鮮銀行券と連銀券の預けあい(スワップ)をおこない、連銀は朝鮮銀行券を担保に連銀券を発行したのだという。

注)実際は軍部の印刷所でこの連銀券を発行していたので軍票となんら変わらない。
 何のことかさっぱり分からないが、「連銀券の後ろ盾は朝鮮銀行であり、さらに朝鮮銀行の後ろ盾は大日本帝国だから連銀券を信用しろ」と言うことのようだ。
そして関東軍はこの連銀券を使用して現地で主として食料や衣類等の現地調達が可能な物資の調達を行った。

注)小銃・機関銃・大砲といった装備や軍用トラック等は現地での調達は不可能なので、国家予算で支給されていたが、一方食料・現地の住宅・衣類・荷物を運ぶための荷駄・兵隊の遊興費等は連銀券で支払をしていた。
 当時中国には軍閥が割拠して軍閥ごとに通貨(通常は軍票と言う)が発行されており、1000種類に登っていたが、この中で最も信用されていたのは蒋介石が発行した通貨元であったと言う。
なぜ通貨元が最も信用されていたかと言うと、元を支えるためにイギリスとアメリカが資金援助していたからで、元の最後のよりどころはポンドとドルだったことが分かる。
注)蒋介石の通貨の信用は元をポンドやドルが後ろ盾になっていると言うところに有った。一方関東軍が発行した連銀券は朝鮮銀行券に換えられなかったので、紙切れと同様とみなされまったく信用がなかったという。

 日本の戦争は特に食料調達については現地主義であり、はっきり言ってしまえば連銀券(軍票)と言う紙切れで収奪していたことになる。
この金額がどの程度になるかは難しい計算だが、明確に分かっている日中戦争から太平洋戦争の8年間の軍事費7559億円(現在価値で約300兆円)のうち40%、120兆円は預けあいで調達したことになるのだそうだ。
 だから日本軍が主として中国戦線で費消した戦費のうち、120兆円相当は中国人からの収奪だったと言うことになる。
「うぅーん」唸ってしまった。

 当時の国民党も共産党も日本軍もそれぞれの通貨を発行して食料等を現地調達していたのだが、収奪された中国の民衆はたまったものではなかっただろう。その中でも国民党が発行した通貨元が相対的に信頼を得ていたと言うことのようだ。

 この番組で紹介された預けあいと言う仕組みは単なる技術的な勘定処理の手段で、はっきり言ってしまえば連銀券はいくらでも増刷できる紙切れに過ぎないのだから、そうした意味ではタダで強奪しているのとなんら変わりがない。
日中戦争で日本が中国人から嫌われた理由も当然と思われる番組の内容だった。

 

 なんとも不思議な番組が放映された。NHK終戦特集として放映した「円の戦争」と言う番組である。この「円の戦争」とは日中戦争(昭和12年~)から太平洋戦争(昭和16年~)にいたる約8年間の戦費、その中でも中国戦線の戦費をどのようにして調達したかをあぶりだそうとして追ったものである。

 しかしこの番組は非常に理解するのが難しく、想像力を駆使して不足の情報を補わなければならなかった。
理由は二つあって、一般に戦時経済についての知識が私を含めて不足していることと、さらに戦時経済そのものが秘密のベールにつつまれていて今回明らかになった内容を含めて情報が極端に少ないことによる。
 しかしそれにも関わらず当時欧米諸国から見たら最貧国の日本が約8年間にもわたって戦争を継続できたからくりがあるはずで、この番組ではそのからくりが銀行間の「預けあい」というシステムにあったと述べていた。
 当時大日本帝国には3つの発券銀行があり、日本銀行朝鮮銀行台湾銀行がそれである。それぞれが円を発行しており等価(100日本円=100朝鮮円)で交換されていたが、なぜ発券銀行を別にしたかの理由は「植民地経済が悪化したときにそれをすぐに切り離すことができるように」との理由からだったという。

注)現代的なセンスからは、統一通貨円で日本、朝鮮、台湾に円圏を確立して経済統一を図るほうが合理的に思われるが、当時は3地域の経済の発展状況が相当異なっていたため、別個の経済圏としたほうが合理的と判断したのだと思われる。 

 しかしこの個別に円を発行できるという独自性が朝鮮銀行の独走を招いた。それは朝鮮銀行勝田総裁が朝鮮銀行を朝鮮のみならず満州、北支を含めた中国全土の共通通貨発券銀行にしようとの構想を持っていたからだと言う。

 これはちょうど関東軍高級参謀板垣征四郎や石原 莞爾が中国全土を日本の支配下に置こうとして満州事変(昭和6年)から日中戦争へと戦線を拡大していった裏の資金調達の事情と一致すると言う。
私は満州事変も日中戦争も日本の国家予算で実施していたものと思っていたが、実際は関東軍は現地での物資調達が可能な仕組みを考案していたという。

注)当時の大蔵大臣高橋是清は軍部を抑える手段として、軍事予算を絞り込んでおり関東軍は自由に活動できる資金を国家から支給してもらえなかった。このため独自で資金調達をする必要に迫られていた。

 石原 莞爾の言う「戦争を持って戦争を養う」と言う思想だが、はっきり言えば「必要なものは現地で収奪する」と言う思想である。
これは近代戦争としては異例とも言っても良い手法で、アメリカ軍などは武器・弾薬・食料を含めてすべて本国からの輸送によっており、戦費はすべて国家予算で統制されていた。

 

 一方日本は満州事変にしろ日中戦争にしろ、政府や大本営の不拡大方針を無視して現地軍が戦線を拡大させているため政府は予算をつけない。だから関東軍は資金を自分で捻出せざるをえずその財布は「預けあい」と言う方法を編み出した朝鮮銀行だったという。

 なぜ「預けあい」と言うような方法を考案したかの理由は朝鮮銀行といえどもなんの根拠もなく通貨を発行することはできないからである。発券するにはそれなりの根拠が必要で、反対に言えば根拠さえあればいくらでも発券できる。

 番組ではこの「預けあい」の仕組みを図解していたが、いまひとつ理解ができなかった。
通常「預けあい」と言うのは現在の経済用語でスワップといい、信用がない通貨と信用がある通貨を互いに交換して助け合うことで、最近ではリーマン・ショック後の韓国政府を支援するために、円とウォンのスワップ協定が結ばれた事例がある。
注)韓国のウォンが急落して決済通貨として利用できなくなった場合、韓国政府はスワップで手に入れた円を市場で売却してドルに変えてそのドルで決済をするという仕組み。

 朝鮮銀行が編み出した預けあいとは、朝鮮銀行の別会社として設立した中国連合準備銀行(連銀)と言う銀行との間で朝鮮銀行券と連銀券の預けあい(スワップ)をおこない、連銀は朝鮮銀行券を担保に連銀券を発行したのだという。

注)実際は軍部の印刷所でこの連銀券を発行していたので軍票となんら変わらない。
 何のことかさっぱり分からないが、「連銀券の後ろ盾は朝鮮銀行であり、さらに朝鮮銀行の後ろ盾は大日本帝国だから連銀券を信用しろ」と言うことのようだ。
そして関東軍はこの連銀券を使用して現地で主として食料や衣類等の現地調達が可能な物資の調達を行った。

注)小銃・機関銃・大砲といった装備や軍用トラック等は現地での調達は不可能なので、国家予算で支給されていたが、一方食料・現地の住宅・衣類・荷物を運ぶための荷駄・兵隊の遊興費等は連銀券で支払をしていた。
 当時中国には軍閥が割拠して軍閥ごとに通貨(通常は軍票と言う)が発行されており、1000種類に登っていたが、この中で最も信用されていたのは蒋介石が発行した通貨元であったと言う。
なぜ通貨元が最も信用されていたかと言うと、元を支えるためにイギリスとアメリカが資金援助していたからで、元の最後のよりどころはポンドとドルだったことが分かる。
注)蒋介石の通貨の信用は元をポンドやドルが後ろ盾になっていると言うところに有った。一方関東軍が発行した連銀券は朝鮮銀行券に換えられなかったので、紙切れと同様とみなされまったく信用がなかったという。

 日本の戦争は特に食料調達については現地主義であり、はっきり言ってしまえば連銀券(軍票)と言う紙切れで収奪していたことになる。
この金額がどの程度になるかは難しい計算だが、明確に分かっている日中戦争から太平洋戦争の8年間の軍事費7559億円(現在価値で約300兆円)のうち40%、120兆円は預けあいで調達したことになるのだそうだ。
 だから日本軍が主として中国戦線で費消した戦費のうち、120兆円相当は中国人からの収奪だったと言うことになる。
「うぅーん」唸ってしまった。

 当時の国民党も共産党も日本軍もそれぞれの通貨を発行して食料等を現地調達していたのだが、収奪された中国の民衆はたまったものではなかっただろう。その中でも国民党が発行した通貨元が相対的に信頼を得ていたと言うことのようだ。

 この番組で紹介された預けあいと言う仕組みは単なる技術的な勘定処理の手段で、はっきり言ってしまえば連銀券はいくらでも増刷できる紙切れに過ぎないのだから、そうした意味ではタダで強奪しているのとなんら変わりがない。
日中戦争で日本が中国人から嫌われた理由も当然と思われる番組の内容だった。

 

NHKスペシャル『圓の戦争』 より文字起こし

66年前の戦争の負の遺産が、思わぬ場所に刻まれていた。東京霞が関財務省。戦争で使われた膨大な費用の一部が現在(いま)も借入金として記載されている。その額414億円。終戦時の国家予算を超える巨額の借金が何故残されたままなのか・・・・。

日本人だけで310万人もの犠牲者を出した日本の戦争。日本は中国やアメリカを相手に8年にも及ぶ戦いを続けた。戦線はアジア・太平洋に拡大、長期化した戦争は国力を遥かに超えるものだった。天文学的な額に上った戦費。しかし、それがどのように賄(まかな)われたのか、詳しいことは分かっていなかった。

今、日本軍と深く結び付いていた銀行の極秘資料が、次々と見つかっている。日本軍が占領地で、国内では見たことのない通貨「圓(えん)」を作り出していた実態。

「極端に言えば、中国での戦争は、全く日本円を使わないで済んでいる」(研究者)

金融のエリート達は、戦費を生み出す驚くべきシステムを作り上げていた。

「破綻しますよ、いつかは。いつかは破綻します」(元銀行員)

国を破滅へと導いていった戦争。日本軍の影に常に存在していた通貨「圓」。知られざる「圓」の戦争を見つめた――。


昭和6年(1931年)9月、満州事変が勃発。日本の関東軍が、満州と呼ばれた中国東北部を武力で制圧、其処に傀儡国家(実質的に他国の統制下にある国)を作った。計画したのは、関東軍高級参謀の板垣征四郎(1885-1948)大佐。戦後、A級戦犯として死刑となった。そして、作戦主任参謀の石原莞爾(いしわら かんじ 1889-1949)中佐。

国の不拡大方針を無視して行われた満州事変。現地軍の独走を支えた戦費はどう賄(まかな)われたのか。本来、戦争に必要な費用は国から支給される。しかし、石原中佐には「戦争をもって戦争を養う」という思想があった。戦争に必要な資金や物資を、戦争によって自ら賄っていくというものだった。

関東軍の現地での資金調達。その実態が初めて浮かび上がってきた。

東京郊外の住宅街。此処に、関東軍と深い関わりを持つ国策銀行の内部資料があった。当時、日本の植民地だった朝鮮半島に作られた朝鮮銀行。戦争に加担したとして戦後、GHQ連合国軍総司令部に解体された。

「これは朝鮮銀行の極秘資料でしてですね、実態とか綴られている重要書類が全部入っています」。戦後、散逸していた資料を集め、研究してきた多田井喜生(たたい よしお 1939-)氏。多田井氏は、朝鮮銀行の資産を引き継いだ日本債権信用銀行で常務を務めた。社史の編纂にも携(たずさ)わり、銀行が日本の戦争にどのように加担したのかを調べてきた。

朝鮮銀行関東軍に資金を提供していたことを示す極秘文書。

朝鮮銀行券は、朝鮮・満州に留まらず、熱河の聖戦の際にも、軍事支便(軍事の支払い)に多大な便益を与えてきた」

熱河省での作戦(昭和8年(1933年)の熱河作戦)など満州事変における関東軍の軍事行動を支えたのが、朝鮮銀行の「圓(えん)」だった。

戦争を支える自らを事変銀行と自負していた朝鮮銀行。しかし関東軍への協力は、しばしば政府の意向を踏まえず独断で行われた。何故そのようなことが可能だったのか。

当時日本は、異なる3つの「圓(えん)」を発行していた。本土では日本銀行券、植民地の台湾銀行券と朝鮮銀行券、それぞれが同じ価値で交換出来た。万一植民地の経済が悪化した場合、本土から切り離す為に、敢えて別々に「圓」を発行していた。自由に「圓」が発行出来たことが、朝鮮銀行の独断での資金提供を可能にしていた。

「事変がある度に、朝鮮銀行券というのが、陸軍の軍事面の、軍事支出を支える銀行として、色々な面で活躍していく、と。利用されていく、と。朝鮮銀行券というのは、関東州から更には満鉄付属地、満州全体へと通貨圏を広げてゆくわけです」(元日本債権信用銀行常務・多田井喜生氏)

軍と朝鮮銀行には、朝鮮半島から中国大陸に影響力を拡大するという共通の狙いがあった。朝鮮銀行元総裁の日記である。大蔵大臣を二度務めるなど戦前の経済界の重鎮だった勝田主計(しょうだ かずえ 1869-1948)。満州事変後、陸軍の幹部が毎日のように訪れていた。中国における経済や金融について意見を求められていた。

昭和8年(1933年)4月4日、鈴木貞一少佐来る」

大陸強硬派で陸軍の中国政策に強い影響力を持っていた鈴木貞一(すずき ていいち 1888-1989)中佐。後にA級戦犯として終身刑を受けた。

昭和9年(1934年)12月6日、板垣少将来訪」

満州事変を首謀した板垣少将も訪れていた。

陸軍の実力者達に自らの経済的な思想を伝えていた勝田元総裁。中国に「圓」の経済圏を作るという壮大な構想があった。満州事変の3年前に書かれた未発表の原稿にこう記されている。

「経済力の強い国の貨幣が、他の国で使われることはまた、自然な状況である」

強い通貨こそが経済の弱い国を支配すべきという持論だった。

日本が傀儡国家・満州国を作った当時、中国には南京に国民政府があったものの地方では軍閥が割拠、それぞれが独自の通貨を発行し、経済はバラバラの状態だった。そこを「圓」で統一し、日本の一大経済圏を作るというのが、勝田元総裁の考えである。しかしそれは、一歩間違えば、経済的な侵略にも繋がりかねない思想だった。

「勝田(鮮銀総裁)の持っている思想、そういうものは、軍人側にとっては利用し易いもの。軍の大陸侵攻の方向と、朝鮮銀行の『圓』の方向というのは、合致するわけですね」(多田井氏)

関東軍は更に中国の懐深くへと狙いを定めた。

昭和10年(1935年)6月、関東軍の参謀達が密かに会合を開いていた。その時の記録が残されていた。終戦時、GHOが押収していた資料である(『第一回関東軍幕僚 経調懇談会記録』)。関東軍参謀副長となっていた板垣少将。その配下にいた田中隆吉(1893-1972)中佐ら4人の参謀達が意見を述べた。

「軍のほうとしても、差し当って武力によってやることは出来ないから、経済工作によって、北支(ほくし)、中支(ちゅうし)、南支(なんし)とやっていこう。金融的に北支を支配し、国民党政権を倒す」

関東軍は、国民政府の支配下にあった北支と呼ばれる華北地域を狙っていた。しかし其処には、古くから権益を持つヨーロッパの列強(英・仏・独)や、北から共産主義の拡大を図るソビエトの存在もあった。軍が武力ではなく、政治・経済的な工作を推し進めた。

昭和10年(1935年)11月、軍は国民政府の不満分子を担ぎ出し、傀儡政府「冀東(きとう)防共自治政府」(1935~1938)を打ち立てる。緊張は俄(にわ)かに高まっていった。日本政府は強い危機感を抱いていた。現地軍の独走や朝鮮銀行の戦費の支払いを政府は追認させられる形になっていた。

大蔵大臣・高橋是清(たかはし これきよ 1854-1936)。当時、軍事費の増額を求める軍部と激しく対立していた。

昭和9年(1934年)、5相会議での発言「軍事予算の膨張は、いたずらに外国の警戒心を刺激し国民経済の均衡を破ることになる」

高橋蔵相は現地軍と結び付いていた朝鮮銀行から、通貨の発行権を取り上げることも視野に入れていた。

昭和10年(1935年)2月、衆議院第67回議会での発言「今まで朝鮮銀行が国家に迷惑を掛けた原因は、発行権がある為、金が自由になり過ぎる点にある。朝鮮銀行に『圓』を発行させず、日銀券に統一したい」

金融経済界にはこうした考えを支持する人達がいた。かつて高橋蔵相が頭取を務めていた横浜正金銀行。日銀と共に日本を代表する銀行として国際金融を一手に担っていた。国際協調を重視する金融のエリート達だった(昭和2年(1927年)、未モルガン商会総裁と正金幹部の写真)。

その1人、昭和10年(1935年)に横浜正金銀行に入行した小原正弘氏(1912-)、99歳。京都帝国大学出身の小原氏は、国際的な市場で活躍したいと、正金銀行を選んだ。入社時の名簿が残されていた(昭和10年(1935年)4月、横浜正金銀行『人事週報』)。当時、社内では軍の大陸での行動に懸念が広がり始めていたと言う。

「僕ら普通のものには(あの時代は)暗かったね。嫌な空気でしたよ、今思えば」

翌年、昭和11(1936年)年2月26日、二・二六事件が勃発。陸軍の青年将校が、高橋蔵相ら重臣達を暗殺した。その日、小原氏は正金銀行の本店で事件の一報を聞いた。

「これはえらいことになったな、何でああいう人を殺したのかと思いましたね。ああいう人がいないとね、陸軍、あの当時は軍って言ってたけど、軍の思うようになっちゃうんじゃないかということを考えましたね」

軍部と対峙し、軍事費を抑えていた高橋是清。もはや止める者は誰もいなかった。

二・二六事件の翌年、昭和12(1937年)年7月、日中戦争が勃発。日本軍の侵攻と共に一大経済圏を作る為の「圓」の戦争が本格化していく。華北に展開する第5師団の板垣中将、そして、関東軍東條英機(1884-1948)中将。2人は満州国に隣接する地域に進軍、3つの傀儡政権が作られた。

関東軍の極秘文書に、関東軍の東條中将がこの時に出した通貨に関する指示が残されていた。

「幣制及び金融機構の一元的統一、研究を進むべし」

傀儡政権に「圓」の影響力を広げるよう指示していた。

現地軍の意向を受けて、朝鮮銀行員は前線深くまで従軍してゆく。リュックに大量の朝鮮銀行券を詰めて同行。占領と共に現地に出張所を開設していった。朝鮮銀行員は、現地の通貨を回収し、「圓」への切り替えを図った。しかし、外国の通貨への反発は想像よりも強く、朝鮮銀行券は浸透しなかった。

そこで、日本軍は朝鮮銀行券に代わる新たな「圓」を作り出す。

昭和12年(1937年)12月、華北を占領した日本軍が打ち立てた傀儡政権・中華民国臨時政府(1937~1940)。この傀儡政権が発行した中国聯合準備銀行券。この連銀券には、人々に受け入れられるよう、“中國”という文字が入っていた。

聯銀券を浸透させる為、強引な手法が取られていた。戦時中の日本に纏(まつ)わる資料が大量に保管されている北京市档案館(とうあんかん)。日本の傀儡政権・中華民国臨時政府の資料が初めて公開された。

「聯銀券を使わなかった市民は、最高で無期懲役」という厳しい罰を科せられていた。

日本側の資料も残っていた。東京目黒にある防衛省防衛研究所陸軍省経理局の極秘資料。強制的に聯銀券を使わせる為の方策が講じられていた(陸軍省経理局『聯銀券価値向上並びに流通強化策』)。

小麦粉や石油などの必要物資を聯銀券でしか買えないようにしていた。更にアヘンという記述。当時中国には、麻薬であるアヘンの中毒者が溢れていた。中毒者に対しても、アヘンを連銀券で売るよう指示していた。

日本軍は華北を抑えたものの、あくまで点と点に過ぎなかった。周辺ではゲリラ戦が頻発し、戦争は長期戦の様相を呈していた。現地では膨らみ続ける戦費を賄(まかな)う為の手段が求められていた。聯銀券を利用して資金を生み出す“或るカラクリ”が編み出された。

朝鮮銀行の極秘資料の研究を続けてきた多田井喜生氏。多田井が収集した資料の中に、聞き慣れない言葉があった。

「中国聯合準備銀行との『預ヶ合』契約で調達する」

この「預ヶ合」という仕組みに鍵があった。

それまで華北では、朝鮮銀行が現地軍に、自ら発行する「圓」を戦費として渡していた。その戦費は国の臨時軍事費特別会計から賄われた。しかし、その額は急激に膨らんでいた。

(ニュース映画『支那事変国債』より)「今回の支那事変における戦費の大部分は、国債を発行して我々国民からお金を借りるという方法を取るのです。・・・・」

政府が戦時国債の購入を呼び掛けるニュース映画。戦費の大部分は国民からの借金で賄(まかな)っていたが、そのことが国の経済を脅かしていた。

朝鮮銀行が編み出した「預ヶ合」。傀儡銀行(中国聯合準備銀行)に無制限に金を発行させる方法だった。通貨は何の裏打ちもなく発行出来ない。朝鮮銀行が傀儡銀行と「預ヶ合」契約を結ぶ。日本から送金された「圓」を裏打ちとして、傀儡銀行が通貨を発行し、現地軍に渡す。そして、日本の軍事費に借金として計上される。

しかし裏打ちであるこの「圓」を、傀儡銀行は引き出すことは出来ず、国庫に戻される。日本の懐を痛めることなく、無尽蔵に生み出される戦費。それは戦争のツケを将来に先送りしているに過ぎなかった。

「国力がない日本としてはよく考えた知恵だとは思いますけどですね・・・・。極端に言えば、中国での戦争は全く日本円は使わないで済んでいると、そういうことの仕組みが出来ているわけです」(元日本債権信用銀行常務・多田井喜生氏)

預け合いによって膨大な聯銀券が溢れ、占領地の経済は混乱した。華北における聯銀券。そして蒙彊(もうきょう)地域にも新たな通貨・蒙彊銀行券を作り、「圓」の戦争を拡大する日本軍。しかし水面下では、中国が対抗する動きを見せていた。

当時、日本の傀儡銀行には多くの日本人が出向させられていた。横浜正金銀行の小原正弘氏。昭和14年(1939年)、中国聯合準備銀行へ出向したが、小原氏が目の当りにしたのは、日本の「圓」の脆さだった。

「日本軍のね、日本政府のバックにあるお札が出回っていて、それが日が暮れると法幣(中国の通貨「元」)の世界だという風なことを言われましたけど、武力で押し切っていられるうちは保つでしょう、表面的には。でも、それが弱ってきたら値打ちはガタ減りでしょうねぇ」

日本の占領地で広がっていたのが、中国の「元」だった。中国国民政府を率いていた蔣 介石(蔣 中正 1887-1975)は日中戦争が始まる前に“或る政策”を打ち出した。国民党本部に保管される、蔣 介石の公務を記した日記(昭和14年(1939年)『抗戦与建国』)。

昭和10年(1935年)年11月4日、全国で新貨幣制度を実施」

蔣 介石は、「法幣」とも呼ばれる「元」を生み出した。国民政府の他に共産党など数々の軍閥が割拠し、それぞれが通貨を発行していた中国。通貨の種類は1000を超えていた。そこに登場したのが、統一通貨「元」。蔣 介石にとって、「元」は中国を1つに束ねると同時に、日本と対峙してゆく有力な手段となった。

「『元』は蔣 介石にとって、抗日戦に打って出る重要な要素となりました。『元』は武器よりも強い殺傷力があったかも知れない。経済的基盤が無ければ勝てないからです」(台湾国史館研究員・卓 遵宏氏)

新たに誕生した「元」の背後に、中国に権益を持つイギリスやアメリカの存在もあった。昭和12年(1937年)、上海の金融街。日本軍の侵攻を食い止める為、イギリスとアメリカは多額のドルとポンドを提供して「元」の価値を支えていた。欧米の支援を受け、「元」は瞬(またた)く間に中国全土に浸透した。

「もし日本との戦いが『元』誕生より前に発生したならば、中国は早く敗れ、或いは既に恥を忍んで和平を求めていたかも知れない。現在は幸いにして『元』が存在し、これによって極めて厳しい局面でも長期戦の基礎を固めることが出来る」(昭和14年(1939年)『抗戦与建国』)

日本と中国の戦争は泥沼化していった。

「圓」の戦争は、その舞台を更に広げていった。その実態を示す資料が見つかった。ダンボール700箱にも及ぶ膨大な資料である。世界20カ国に支店を持ち、日本の国際金融を一手に扱ってきた、あの横浜正金銀行。中でも重要な資料が『頭取席要録』。世界中に散らばった金融のエリート達が、国際情勢をつぶさに分析・報告していた。

「日本の公債や株式が、日本軍の軍事行動によって下落している」と報告したロンドン(ロンドン支店)からの情報。アメリカに支援を求める中国の財政使節団の動きを詳細に調べたニューヨーク(横浜正金銀行ニューヨーク支店)からの情報。その中に、大蔵省や日銀が、アメリカに密かに純金(金塊)を送ったという情報が頻繁に登場する(横浜正金銀行サンフランシスコ支店へ)。

何故、大量の純金(金塊)を送っていたのか。

日中戦争が始まってから1年が過ぎ、軍事費は増大の一途を辿っていた。軍中央では、日中戦争勃発時現地で指揮を執った板垣征四郎(1885-1948)中将が陸軍大臣東條英機(1884-1948)中将が陸軍次官に就任していた。最大で100万を超す兵力を送っていた陸軍。軍事費は遂に国家予算の7割を超えた。

(日本の国家予算に占める軍事費の割合は、昭和11年(1936年):47.7%、昭和12年(1937年):69%、昭和13年(1938年):76.8%)

日本は戦争に必要な石油や鉄などの戦略物資を海外に依存していた。その獲得に狩り出されていたのが、横浜正金銀行の金融エリート達。この時使われたのが、純金(金塊)だった。

昭和14年(1939年)に横浜正金銀行に入行した寺井弘治氏、89歳。大阪支店で為替業務に携(たずさ)わっていた寺井氏は、或る日、厳重な警備の下、何十もの木箱をアメリカに送るよう言われた。

「何かなぁと聞きますと、大事な金塊をニューヨークに送るので、全くシークレット・マター Secret Matter(極秘事項)だ、と。極秘の極秘で。何で送るんですかと聞いたら、『決済資金が無いから、純金(金塊)で決済するんや』って」

日本からアメリカに密かに送られていた純金(金塊)。日本はこの時期、輸入品を決済する代価・ドルさえ不足していた。アメリカは、石油などの戦略物資に、最大の輸入相手国だった。その戦略物資を輸入する為、政府や日銀が保有している純金(金塊)を切り崩す異常事態に陥(おちい)っていたのである。

一方、アメリカは日中戦争が始まって以降、日本への不信感を強めていた。日本の資金力を密かに分析していたことが明らかになった。アメリ国立公文書館。近年公開が始まったアメリ財務省FRBニューヨーク連邦準備銀行の内部資料。

「こちらが1930年代から40年代の財務省の記録です」(アメリ国立公文書館 女性職員)

日中戦争勃発から半年後の、米財務省の極秘資料である(昭和12年(1937年)12月 米財務省の内部文書)。

「5月半ばに金塊が送られている。日本の銀行に残高は殆んど無い」

純金(金塊)に手をつけざるを得ない日本の厳しい状況(日本銀行の状態や日本の外貨準備量)をつかんでいたアメリカ。戦争を継続させることは難しいと見ていた。

大手企業の財務部門のトップを歴任し、アメリカ海軍大学で戦史を教えていたエドワード・ミラー Edward S. Miller(1930-)氏。経済という新たな視点から、日米開戦の要因を探ってきた。

「誰もが、日本はあと1年か2年で財産を使い果たして破綻するだろう、金融の専門家達は確信していました。日本は支払不能になって、中国との戦争をやめるはずだと。アメリカはそれを待っていたのです」

ところが、そのアメリカも気付かなかった資金の動きが発覚した。

横浜正金銀行ニューヨーク支店。昭和15年(1940年)8月、突如、横浜正金銀行の口座で1200万ドルもの金が動いていたことが分かった(昭和15年(1940年)8月3日のFRBの調査報告書)。FRBは、3週間にわたって密かに調査を続けた。

「日本に外貨を貯める動きがある。それは横浜正金銀行ニューヨーク支店の“隠し口座”にある」(同年8月27日のFRBの調査報告書)

日本がアメリカに送っていた純金(金塊)。売る時の相場によって差額が生じる。その差額は正金銀行ニューヨーク支店の“隠し口座”に貯められていた。その額は2年半で1億4000万ドル。戦争継続に欠かせない石油3年分を賄(まかな)える額だった。正金銀行はアメリカへの報告義務に従わず多額のドルを貯めていたのである。

アメリカは日本が1億ドル以上のカネを持っていることを知ったのです。FRBニューヨーク連邦準備銀行)から僅か数ブロック、目と鼻の先に隠していたのです。それは大きな衝撃でした。日本が中国との戦争を長期間続けることが出来るのですから」(エドワード・ミラー氏)

アメリカは急遽、日本資産の凍結を検討し始めた。その矢先、日本がドイツやイタリアと三国同盟を結び(昭和15年(1940年)9月、日独伊三国同盟成立)、日米関係は悪化。

昭和16年(1941年)1月、横浜正金銀行『頭取席要録』。横浜正金銀行アメリカによる資産凍結を回避する為、第三国への資金の移転を検討していた。

「Banco do Brasil(ブラジル銀行)」

「ニューヨークへ置いておくと、将来戦争になった時に資金が凍結されるんじゃないか、と。もう第三国へ振り替える、付け替えて、そちらへプールしておくと」(元横浜正金銀行・寺井弘治氏)

昭和16年(1941年)7月、日本が蔣 介石への支援ルートを断ち、南方進出の拠点とする為、フランス領だったインドシナ南部に進駐。アメリカは即座に日本資産の凍結に踏み切った(昭和16年(1941年)7月、在未日本資産凍結)。その背景にあったのは、日本が多額のドル資金を隠し持っていたことに対するアメリカの強い不信感だった。

中国での戦争を続ける為の資金調達の動きが、日米開戦へと繋がっていた。

昭和16年(1941年)12月、真珠湾攻撃。日本軍はアメリカとの全面戦争に突入した。欧米から資金や戦略物資を調達し、それによって戦争を賄(まかな)ってきた日本。孤立した日本に、もはや頼れる国は無かった。

内閣総理大臣東條英機大将「我らはあくまで、最後の勝利は祖国日本にあることを確信し、如何なる困難も障害も克服して進まなければなりません」

太平洋戦争。それは軍による更なる「圓」の戦争の始まりだった。日中戦争勃発時に33億円だった戦費。昭和19年(1944年)には740億円にまで達した。国家予算の8割を超える額だった。

(日本の国家予算に占める軍事費の割合は、昭和11年(1936年):47.7%、昭和12年(1937年):69%、昭和13年(1938年):76.8%、昭和14年(1939年):73.4%、昭和15年(1940年):72.5%、昭和16年(1941年):75.7%、昭和17年(1942年):77%、昭和18年(1943年):78.5%、昭和19年(1944年):85.5%)

昭和18年(1943年)3月、東条内閣は“或る決定”を下す。旧大蔵省に残されていた極秘通達。

「大陸の戦線で生じる戦費は、全て現地の銀行に『預ヶ合』で調達させる」

かつて華北朝鮮銀行が編み出した錬金術「預ヶ合」。「戦争をもって戦争を養う」という現地軍のやり方が国家方針となった。華北朝鮮銀行、華中・華南は横浜正金銀行(上海支店)、そして東南アジアは、太平洋戦争開戦後に作られた南方開発金庫が担わされた。

国際協調を掲げてきた横浜正金銀行は、国の方針によって「預ヶ合」に加担することになった。南京で日本が作った傀儡政権の新たな通貨・儲備(ちょび)銀券。日本軍が国民政府と激しく鬩(せめ)ぎ合っていた華中と華南で使われた。正金銀行は、傀儡銀行(中央儲備銀行)と「預ヶ合」契約を結び、膨大な儲備銀券を発行した。戦争中、「預ヶ合」で最も多額の戦費を担わされたのが、正金銀行だった。

これまで「預ヶ合」について記した日本側の資料は残されていなかった。しかし今回、或る陸軍少将の手記の存在が明らかになった。上海に展開した第13軍の経理部長を務めた原田佐次郎(-)陸軍少将。手記には、当時、中国の展開した100万もの兵力をどう維持していたのか、内実が記されていた。

横浜正金銀行を通じ、儲備銀行と相談して、極秘のうちに儲備銀券を軍の手で印刷した。戦時中に中国からどのくらいの戦時物資を調達していたかを暴露したら、その天文学的数字に度肝を抜かれるに違いない」

正金銀行が終戦までに「預ヶ合」によって生み出した金は、2800億円を超えた。日中戦争が始まった時の国家予算の実に60倍だった。

当時、日本の傀儡銀行(中国聯合準備銀行)に出向していた小原正弘氏。「預ヶ合」はあくまでその場しのぎに過ぎず、戦争が終れば全て日本の借金として重く圧(の)し掛かってくると分かっていた。

「いつまでこんなことを続けるのかと思った。増えてゆくのは間違いないんだからね、金額は。このまま続けていったらどうなるんだろう、と。(インタビュア「どこかで破綻しますよね?」)破綻しますよ、いつかは。いつかは破綻します、それは」(元横浜正金銀行行員・小原正弘氏)

占領地の経済はかつてない状況に追い込まれた。儲備(ちょび)銀券を発行すれば発行するほど、その価値は紙切れ同然になっていった。上海では、日中戦争勃発時の3万倍というハイパーインフレ。米など生きていくのに必要な物資さえ買えなくなったと言う。

当時、上海で暮していた93歳の男性。その時の記憶が生々しく残っている。

「日本の傀儡政権がこんな金を作ったことが問題だったんだ。上海では暮らしていけませんよ。1日に物価が3倍になるのですから。どれだけの人が飢えに苦しんだか。20歳の若者も餓死したんだ」

戦争末期には「圓」だけに留まらず、東南アジアから持ち込まれた通貨や「軍用手票軍票)」と呼ばれる軍用通貨、様々な紙幣が日本軍によって中国各地にばら撒かれていった。

昭和20年(1945年)3月、横浜正金銀行『頭取席要録』。正金銀行の中枢にも、現地の混乱は報告されていた。

「通貨の単位はもう既に人々の計算出来る桁数を超え、人々が日本の通貨の受け入れ拒否を起こす可能性がある。インフレは激化し、公衆は貯蓄心を放棄、勤労を嫌悪、道徳は退廃し、秩序が崩壊」

日中戦争から終戦までの8年間、戦費は分かっているだけで7559億円、現在の価値で300兆円を超える。少なくともその4割が「預ヶ合」によって賄(まかな)われていた。現地から収奪した金で戦争が続けられ、更に多くの兵士や民間人の命が奪われていった。それでも軍部は、終戦間際まで「本土決戦」を叫び、経済的な破綻からは目を背け続けた。

戦争を様々な形で支えた国策銀行。朝鮮銀行は軍と共に中国大陸に進出し、「預ヶ合」という錬金術を編み出した。

「日本が大国を相手に戦争をする、そんなことは不可能だったと思いますね。この仕組み(預ヶ合)があったと言うか、この仕組みを作ったからあれだけ戦争を継続出来た、と」(元日本債権信用銀行常務・多田井喜生氏)

横浜正金銀行は、経済原理に反すると知りながら戦争に加担していった。

「北支(ほくし)では聯合準備銀行、蒙彊(もうきょう)では蒙彊銀行、中支(ちゅうし)では儲備銀行。あんなもの拵(こしら)えてやったのは、軍に協力したということの一言に尽きますね・・・・。ああいうことを軍が言い出して、それにやっぱり流れに乗ってやっていくということは、やはり勇気が、今思えば勇気が無かったということでしょうねぇ。残念だけど、事実はそうだったと思いますよ」(元横浜正金銀行行員・小原正弘氏)

終戦から66年。日本の「圓」の戦争は人々の記憶から忘れ去られた。しかし国の一般会計には、現在(いま)も「預ヶ合」による戦費の一部が積み残されている。

「旧臨時軍事費借入金 414億円(41,421,961,000円)」

戦費調達を担った銀行は消滅、借入金はそのままになっている。消すことの出来ない日本の戦争の刻印である。