維新政府の対外膨張政策

>結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかならなかった<

>これは違うでしょう。
対外に出たように見えるのは防衛のためです。
殖民地化の阻止ですね。
あえて国民の不満が有ったとすれば外国の脅威そのものでしょう。


日清の開戦をめざして若者たちが努力したのは、彼らの野望によるところですが、結果的には、内政上の危機を外に転じ、その危機を回避します。つまり、議会の政府に対する攻撃により、最大の危機が訪れていたときに、豊島沖・成歓の勝報がつたわり、緒戦の勝利よって国民は熱狂します。国民の心はことごとく外に向い、もはや政府と議会の抗争もどこへやら、政府はもはや議会のはげしい攻撃を恐れる必要は基本的にはなくなります。明治政府はただただ国内の不満を外に転ずるにとどまらず、あらゆる機会をのがさず、国民を軍事的勝利のうちに酔ひしいれさせて、政府のいっそうの強化を実現しょうとはかります。天皇を擁して本営をより戦地に近い広島に移動させたのは、国民がはじめて経験する対外戦争に、天皇が陣頭指揮するという形をとることによって、国民の距離をちぢめ、戦争を支持する世論と天皇さまを結びつけ、支配を強化しようという政府の思惑があったのです。さすが、維新を達成するほどの若者らのやることが違いますね!内政の危機を外に転じた見事な勝利です日清の開戦をめざして若者たちが努力したのは理由は次の通りです。
世間は大事業の成敗をもって人を褒たり貶したりします。成敗の最も著しいのは戦争です。だから、英雄とか偉人になるためには、古今、政治家で国民の信用を得て大事業をなしたる者、門閥や世家の人を除く外は、皆戦争の勝利によるしかなかったのです。

1894年衆議院で内閣弾劾不信任上秦案が可決されます。政府は強硬方針をえらび6月2目、衆議院を解散します。少し前、陸奥外相は、青木周蔵公使にあてた3月27日付の私信で、次のように述べていた。
「内国ノ形勢ハ日又一日卜切迫シ、政府ハ到底、何力人目ヲ驚カシ候程ノ事業ヲ成敗二拘ハラズ為シツ、アルコトヲ明言スルニアラザレバ、此騒擾ノ人心ヲ挽回スベカラズ。偖、人目ヲ驚カス事業トテ、故モナキ戦争ヲ起ス訳ニモ不参候」
 つまり、反政府運動の高揚により、窮地に陥った政府が、政府指示の人心を回復するためには「人目ヲ驚カス事業」が必要だ、というのである。それを待っていた政府は、朝鮮への派兵を即時決定し、国論を誘導します。日清戦争へ向けての坂道から引き返すことも、立ちどまることもできなくなります。