第二次世界大戦で敗北の遠因

kyowashugishaさん

日本は第二次世界大戦で敗北しましたが、なぜこうなってしまったのですか?日本はどこで歴史を間違えてしまったのでしょうか?

明治維新の若者らのクーデターで、日本はすっかりおかしくなりました。当時孝明天皇は幕府を頼りして、公武合体思想を持っていましたので、孝明天皇を生かしておいては、討幕が実現しないということで、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、16歳の明治天皇をロボットにして新政権を作ったことから見ればまんざらではないと思う。結局彼らの権威だけでは、国をまとめることができなかったので、対外戦争を繰り返すことによって国をまとめていかなければならなかったのです。そして、勝利よって国民は熱狂して、差別意識が増幅されたのです。近代精神に逆行して、国民の不満を抑えるために天皇さまをますます神様に祭りあげてしまい、人権尊重のごときを「止むをえざる害悪」としかみない警察政治を頼りにします。つまり、近代技術文化の恩恵には存分に浴したいと心がけながら、意識一般、ことに政治意識の近代化だけは巌に自らに否定しつづける人間が、帝国臣民の理想型となったのです。臣民は、「インド以下」という極端な表現をされた例もあるほどの貧窮を強いられ、権利などというものはほとんど与えられず、臣民として不断の戦争にかりたてられつづけたのである。明治維新とは急激な西欧化に成功した半面、維新以後も日本特有な封建的体質が根づよく残っていたという両面があったのです。そして止めどもない西欧化は、いつかは止めねばならなかったのです。それを止め得ずして、日本はその滅亡の淵に立つ事になったのだ。それが「大東亜戦争」です。兵隊さんを海外に送り続け、国力を疲弊させ、挙句の果て、兵隊さんを山程餓死させ、つまるところ敗戦も、尊王心が全くない西欧かぶれな薩長の田舎もんのクーデターがその元であると思う。公武合体路線でそのまま尊王に篤い徳川の権威による近代化を達成したほうが日本的で実状に合致してよりよかったかも知れんね!

ペリー (アメリ東インド隊司令長官)は「実際的および機械的技術において、日本人は非常に巧緻を示している。日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技術を 有したならば、強力なライバルとして、機械工業の成功を目指す競争に参加することであろう」と述べています。また、鉄砲伝来をみても、日本はモノマネにつ いては世界からみても素晴らしいところがあります。明治維新がなくても、西欧から文化との接点が多くなればそれなりに産業革命が行われたと思います。徳川 慶喜は近代化を進めていましたので、工業が発展して、輸入国から輸出国に転化する時代が早まったと思う。明治の中央政府は徹頭徹尾、武力によってその「正 統性」を確保しなければならなかったのです。結局彼らが作った権威だけでは、国内の不満を抑えることができず、その不満を対外にもって行く方向にしかなら なかったのです。明治維新以来、対外膨張路線はその表れです。徳川慶喜主席の諸侯会議なら、「尾大の弊」の弊害もすくなく国内の不満も薩長体制ほどではな かったと思う。「尾大」とは討幕の挙兵を意気込む下級武士・農民・商人などをふくむ兵士大衆のエネルギーを指導者が統制しきれない情勢を意味しています。 それに国際社会の荒波に乗り出したからには避けることのできない暴風に見舞われ、危機に臨むごとに、近代精神に逆行して、最後には天皇を神様に祭りあげて しまいます。徳川なら約700万石、全国の約四分一の石高を占めているぐらいの勢力をもっていたので、武力による「正統性」も必要も無いです。

徳川慶喜の日本統一国家のプランは、西周助が考えます。政府の頂点に徳川慶喜が大君として就任する。政府は大阪に置く。議会は上院と下院のふたつで、上院 には万石以上の大名を招集する。下院の方には有能な藩士を登用するというものです。実際当時においては、現実的な外交交渉を行いえることができたのは徳川 幕府だけです。

江戸後期になれば寺子屋や藩校が急増しはじめ、蘭学、医学、条理学、国学、絵画と多分野にわたって、新しい学問がおこります。よく外圧により、日本の近代 化が始まったと考えるのが、普通になっています。しかし、近代化の要因が外圧にあるのなら、なぜ他のアジア諸国は外圧によって近代化しなかったか。なぜ日 本のみが短期間に近代化に成功したのであろうかと思えば、明治になるまえに江戸時代に多くの近代的な動きがあらわれていたからだと思う。実際江戸後期た近 代的統一国家への思想も全国に普及します。

オールコック(イギリス駐日公使)は次のように述べています。

この封建制によって日本人は、われわれの考えている意味ではないにしても、多くのしあわせを享受することができた。西洋諸国の誇るいっさいの自由と文明をもってしても、同じくらい長年月にわたつて、このしあわせを確保することはできなかったのである。国家の繁栄・独立・戦争からの自由・生活の技術における物質的な進歩これらはすべて、日本人が国民として所有し、そして、何世代にわたってうけついできたものである。(大君の都)

ハリス(アメリカ駐日総領事)は

彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これが恐らく、人民の 本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響受けさせることが、果たてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であろうかどうか、疑 わしくなる。 私は、質素と黄金の時代いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産と安全、全般の人々の質素と満足とは、現在 の日本の顕著な姿であるように思われる。(日本滞在記)

ペリー来航のとき、異国船を一目見ようと海岸に押し寄せ、海辺は人であふれんばかりだったという。幕府によって、不備はあるにしても、当時、外国との折衝は上出来だったと思う。戦争に敗れて講和条約という形で国を開き、巨額の賠償を支払わされ、領土を奪われ、武力で驚かされ植民地のような条項を、飲まされたりするケースがほとんどです。そのなかにあって、平和的な交渉によって不平等が少ない条約を結びます。

「騎兵隊日記」に「天下之人望以前ニ異リ、道路之浮言ニ候ヘ共、王政不如幕政、薩長ハ徳川氏ニ劣候抔、相唱ヘ候様之義モ有之哉」とあります。

天下の人心は、以前とは異なっている。道路の浮言に候へども、王政は幕政にしかず、薩長は徳川氏に劣り候など相唱へ候様之義もこれあるや「道路之浮言」であるということは、人々のあいだにひそひそと語られてるということで、当時の人心の動向の真実性があふれている。