軍による独断専行の風習

前項の続き
海城難戦について、山県は「内は国民の誹議讒謗を招く」(日清戦史講究録)と述べていますので、詳しい史料は無いかも知れません。ところで、今気がついたのですが、
日清戦争の作戦は直隷平野の決戦を最終目的として、考えられています。方法は3通りに分かれていますが、基本的には第一期に清国の海軍を撃破して、制海権を確保する。第二期作戦で、日本の主力を渤海湾頭におくり、清国首都北京一帯の平野において清国軍と雌雄を決し、北京を攻略して、清国を降伏させるという作戦です。
旅順の占領は、日本軍の次の作戦をどこに指向するかの問題を提起します。伊藤首相は、清国が降伏しなければ、直隷決戦もやむをえないと決意しますが、しかし、他方では列強の動向から一、二カ月のうち終局に到ることを希望します。
実際、冬季であるうえ、兵站線の確保が容易でないので、大本営は、占領地でそのまま冬営することを命じます。ところが、山県司令官は、積極的な冬季作戦を主張し、直隷決戦を決行するためには、背後の安全を確保する必要があると理由をあげ、独断で海城攻略の作戦を下令します。伊藤首相は病気治療の名目で召還する勅命をもって、山県大将を帰国させ、監軍に任命されます。これをもって、政府によるシビリアンコントロールが機能していたと思っていましたが、部隊はそのまま海城方面の作戦は継続され、栃木城と海城を12月13日に占領します。11月29日に勅命により軍司令官を解任されたのに、部隊はそのまま戦闘を続けて「海城難戦」に陥ります。つまり軍の「独断専行」の風習はこの時代からあったのです。