日清戦争の導火線

 明治維新後、この頃の日本臣民は、「インド以下」という極端な表現をされた例もあるほどの貧窮を強いられ、民主的な諸権利と自由はほとんど与えられおらんかったが、アジアで最初の名実ともに完全に独立した国となり、封建的な、おくれた小さな島国から、欧米先進諸国の水準にせまる資本主義産業と大軍備をもつ、大日本帝国になっておった。

当時の言葉で言えば、「日本が中国・朝鮮に通ずるのは侵略を念とするものではなく、朝鮮の独立を保ってわれを利そうとするものであると強調し、やむをえなければ戦いに訴えるとしても、できるだけ外交によって事をきめるよう(毎日)」という主張もあります。

だいたい、日本は「国防上」の理由で戦争したというよりも、当時の言葉で言えば林董氏は日清開戦の事情を次のように述べています。

 牙山の派兵はたるに相違なきも、之を促したるは実に金の暗殺と、此時の活国の挙動なりと予は信ずるなり。此頃予はビスマルクの伝、老ピットの伝、カブールの伝を読み終り、以為らく、世間大概事の成敗に囚て人を賛貶す。而して成敗の最も著しきは戦争なり。故に古今有為の政治家にして、世人の信用を博し大事業を成したる者、門閥世家の人を除くの外は、皆戦争の勝利によりて勢力を占めたる人に非るほなしと。一旦陸奥氏と茶話の席に於て此思想を語る。陸奥氏頭を傾け、良久うして日く、「ヤッテ見ようかネ」と。
誰か知らん、氏が日清の戦争を構造したるは、此時に我言の其心を動かしたるに非るを。五月に至りて清国より牙山に出兵の事あり六月二日の夜外務大臣邸に参謀本部次長川上操六氏来る。予も之に陪席し、朝鮮の事件を議す。陸奥氏も川上氏も出兵の事は直ちに同意なり。而して十五年・十七年の後れを回復する為に、此度は是非に勝利を収むるを必要とす。牙山の清兵多く積りて五千人位なるべし。彼先年の勝に慣れたる故、我出兵を聞けば必ず彼より来撃すべし。其時に必勝を期するには、我六、七千の兵を要す。故に先ず混成旅団を送れば足れり。彼京城或は其近傍にて一敗すれば、必ず和を請うべし。我は軽く勝て後を善くすべし。彼若し和を請わずして更に兵を送るも、仁川等には敢て船を寄せず、満州より進むべし。然れば我は更に一帥団の兵を遺し平壌あたりにて更に一大痛撃を加うれば夫れにて和を請うは必定なり。故に一師団を送るの準備を為し為し置きて、先混成旅団を派出すべしと決議す。

解説

ところが、このように出兵したものの清国軍は日本が予期したように、その手にはのってこなかった。「すでに出兵して我兵京城に入るに及んでも牙山の清兵動かざりしには予期に違うてほとんど困却せり」(林董)ということになった。22日の御前会議の決定にもとづいて陸奥外相は、ただちに「今日の形勢にては、行掛上開戦は避くべからず、よって曲を我におわざるかぎりは、いかなる手段にてもとり開戦の口実を作るべし」との内訓をしたため加藤増雄書記官を特派します。

>これほど明らかな史実を自説のために逆さまに歪曲するようじゃ話にならない。

「弱国にたいするの?強″は強国にたいする?強?ではない。したがって、清・韓に対して得るの栄誉は亜細亜の一方に局する者にして、世界に共認せらるるの栄誉に非るなり。且つ夫れ戦争と平和の進歩とは両立する能わざる者なり」と靖国にたいするこんごの方針としては、朝鮮を永世中立国として日清間の紛議の種子を絶ち、日清交際の親密化をはかれと主張もあります。

つまり、清国が振るわないのは日本にとって不利ではないが、かといって不振の極、他国に侵略、分割されて敗亡しても、日本にとって不利であって、日本の富強が世界の強国と太刀打ちできるようになるまでは靖国が現状を保つことが有利であり、このためには日清の交際を親密にし、他国が乗ずる機会をなくす必要があるというのである、という主張もあります。

英・仏・独・露の列強同士の中国浸食競争が行われ、お互い同士の戦争になれば、戦争特需で貿易立国としては日本の発展はさらに目ざましいものがあった。