戦争責任者の問題

おかしな国だ。戦争責任者のヘッドである天皇が処刑されなかったのはおかしい。この戦争がなかったら戦死したおじさんに会えたのに。昭和天皇は何をやっていたんだとこの時期になるといつも思う。あんな大きな墓作る必要はなかったのに昭和天皇がなくなった時、喪に服しているものは周りにはいなかった。みんな不満を言っていた。テレビが昭和天皇のことばかりで面白くないと、ビデオを借りる人間が非常に多かった。国民のほとんどが興味なかったのではないか?一部のものだけだろう。えらい迷惑だった

日本は、ドイツの勝利に便乗し、フランス・オランダ・イギリス支配下の東南アジアに侵攻しました。さらにドイツ・イタリアと同盟した。さすがのアメリカも我慢がならず日本の一連の行為に対して敵対した。こうして日米大戦が起き日本が負けた。海軍はハワイ奇襲、イギリス東洋艦隊の撃破を同時に行い、同じときにグアム島ルソン島ボルネオ島、ミンダナ島にそれぞれ上陸して東南アジアの全域にわたって侵攻しました。周到に準備された日本の大軍の前に不意をつかれた英米蘭は撃破された。裕仁はその功を賞し、いっそうの勝利を励ます勅語をつづけざまにあたえるのにいそがしかった。


多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。……少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進で、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。」「戦争責任者の問題」について映画監督伊丹万作