林房雄の戦争責任論

天皇もまた天皇として戦った。日本国民は天皇とともに戦い、天皇は国民とともに戦ったのだ。・・・日清・日露・日支戦争を含む東亜百年戦争を、明治・大正・昭和の三天皇は宣戦の詔勅に署名し、自ら大元帥の軍装と資格において戦った。男系の皇族もすべて軍人として戦った。東京裁判用語とは全く別の意味で戦争責任は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ」と林房雄氏は述べています。

つまり、われわれは有罪である。天皇とともに有罪であるとして、敗戦は国民すべての責任であり、ひとしく国民が反省を負うべきだという主張のように見えるが。責任を国民全体に拡散することにより、戦争責任を国民全部が負うべきだという論で、それについてワシは疑問を感じておる。いうまでもなく自由と責任は表裏一体で、戦時下の国民にどの程度の自由があったかの検討が先決だと思う。たとえば、生まれてから一貫して軍国主義教育を受けたものに戦争批判が可能であったか、八紘一宇大東亜共栄圏の虚妄を看破する知識を持ち得たか、日本軍の蛮行をどのように知り得たか、さらに徴兵拒否や軍隊離脱の自由があり得たか。何も知らされず聖戦のみを教え込まれた国民の責任を問うのは、神の如き全知全能を求めるに等しいでしょう。このような林房雄氏の論は不毛であるばかりでなく、戦争責任の所在をあいまいにする意味において有害とさえいえるでしょう。そもそも昭和天皇は単なるお飾りではなく、政治意思を持った最高権力者であったことは変わらんことであった。

参考

大分市に四十七連隊があった。昭和八年、私は小学校五年だった。ある日の夕方、私は大分駅待合室で母と列車を待っていた。突然改札口で「気をつけ」の号令がかかった。改札口には飾り房ばかりになった大きな旗を持って、兵隊が不動の姿勢で立っていた。その前には将校が一人同じ不動の姿勢で刀をさげて私をにらんでいた。
「こら、そこの小学生。お前、お前だよ。立って気をつけをし、帽子をとって最敬礼をせんか。学校で習わなかったか。連隊旗は恐れ多くも天皇のお身代わりだぞ」と将校はどなった。はじめ私はだれに言っているのかわからずキョロキョロしていたが、そこまで言われやっと自分だとわかった。私は、あわてて立ち上がり帽子をとり旗に向かって最敬礼した。やがて軍人は大声で号令をかけ、ラッパを吹きならし靴音高く歩調をとって待合室を出ていった。まわりの人の目が自分にそそがれて顔がほてり、「知らなかったからのー」と母は慰めてくれたが、恥ずかしさは容易に去らなかった。
終戦になった。二十一年、天皇は人間になった。そのとき思ったものだ。天皇は初めから人間だったのだ。それを神様に祭り上げたり、そればかりか、飾り房だけの汚れた旗を身代わりなどと大仰に仕立てて、純真な子供にまで最敬礼させた当時の大人たちが間違っていたのだ。それは、何も知らぬ子供のころから皇国精神をたたきこみ、何の抵抗もなく戦争にかり出すための大人たちのずるいやり口だったのだ。こう思うと、私は長年つかえていたものがとれた感じを味わったものである。(昭和60年8月6日 ある元工員の手記より)