天皇の戦争責任

我が国民が天皇の戦争責任を追及したがらないのは、天皇は名前を利用されただけで真の責任者ではないと思っているからだと思う。ところが天皇は国家最高の人事、国政の基本方針の決定において、いかに主体的判断、選択を行ったか、天皇はけっして政府・軍部のロボットでもなければ捺印器でもなかった。ことに対英米開戦において、いかに熟慮を重ねて、主体的に判断された。 東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではない。それ以後、急坂を転がり落ちるように事態は悪化し破局に突入した。

東條の秘書官である赤松貞雄氏の手記によれは、天皇はいかに重大な責任感をもって開戦を決断になったかをのべている。

憲法で?天皇神聖にして侵すべからず〃とあるのを解して、学者は、天皇には何の責任もないと論じている。然し、自分は大東亜戦争開戦前の御決断に至る間の御上の御心持をお察しして、天皇は皇祖皇霊に対し奉り大いなる御責任を痛感せられておる卸模様を拝察できた。臣下たる我々は戦争に勝てるかということのみ考えていたのである。それに比べて比較にならぬ程の大きな御責任の下で、細決断になったものである。これは開戦一カ月余になって始めて拝承できた私の体験である」

 それより前、中国東北地方に拡大した戦争も天皇の主体的な御裁可と御内意より実現されたもので、満州事変発端のころ、関東軍救援のため朝鮮師団が独断で鴨禄江を越境した。この時もし天皇が「自分の許しを得ずに兵を動かせば反乱である」と大元帥として統帥権を発動し、師団の撤退を命じていたならば、歴史の流れは大きく変わっていたかも知れない。天皇は、陸海軍の統帥についても、けっしてロボットでもなければ、傍観的批評家でもなかった。このことは、張鼓峰事件のとき戦火の拡大を裕仁が断固としておさえたことをみてもわかるし、裕仁がいかに統帥部を指揮しているかが、史料によりはっきりしている。たしかに開戦のおり、無条件降伏の破局を予見する人は恐らく一人もいなかったのであろうが、これは結果論にすぎないが、私には残念に思えるのである。