甲申政変の真相

昨年2月22日の騒乱の詳細は、わが国でもある程度まで知られているので、それをここで詳述する必要はない。しかし、この騒乱の内幕は、日本公使トカツァイオ(竹添)の陰謀なのである。
 日本は、思いがけぬ中国軍のソウル到来とともに戦術を転換したものの、朝鮮半島を支配する目論みを断念することは全く考えなかった。同国はただ好機の到来を持ち続けていたが、北京の全勢力と注意がフランスとの戦いに向けられた1884年に、好機が到来した。かかる危機的瞬間を迎えた中国が、朝鮮問題で敢えて日本とも事を構えることはない、と確信できたからである。他の列強のうちで、この当時、中国以外に代表をソウルに駐在させていたのは英国、北米諸州ならびにドイツの三国である。日本は、これら三国のうち英国からは、たとえ物質的支援でないにしても、精神的支持は常に当てにすることができた。
外交官でなくとも、セソト・ジェームス内閣の極東における意図を読取るのは難しくない。同内閣にとって、朝鮮は今一つのオスマン帝国であり、アフガニスタソであり、ロシアからインドへ向けて開く門戸なのである。1856年にロシアの艦隊が朝鮮海峡に浮かぶ対馬を占領する意図を示し始めた時、英国が如何に騒がしい声を挙げたか、また同島を日本が占拠した時には、同国が如何に御満悦であったかを想起しよう。現在大慌てで進められているハミルトン港の増強も、やはり注目に値する。これら全てが物語るのは、英国政府の推進する太平洋地域の領土およびその他の現地利害の防衛策で、朝鮮がわれわれの想定を遥かに超越する目論みの中に組み込まれているという事実である。日本は東方で唯一の強力な文化国家であるから、英国は日本との問に、ロシアに対抗して協調・同盟してゆく機会をより多く有している。だからこそ、英国外交は日本の統一権力の下に朝鮮を日本と再統合させ、黒海オスマン帝国によって包囲されているように、日本海を日本帝国に包囲させることをやはり望むのである。まさにこのことをもって、ソウル駐在英国総領事が2月の日本人陰謀に対して示した好意的な態度は説明さるべきだ。
 英国代表の行動はそれなりに了解可能であるが、ソウル駐在米国公使までも日本側に与したのは、いささか腑に落ちない。一つの国家が今一つの国家を隷属させるのを奨励することは、偉大なるトラソスアトラソティック共和国の伝統的政策と矛盾しており、しかも、同共和国は大小のあらゆるアジア国家にとって当然の同盟国と見なされているのである。遺憾ながら、昨今ソウルに流布している以下のような見解には同意せねばならない。即ち、米国公使のフート将軍は、何らかの個人的な商業上の利益を見込んで、日本と同一歩調をとった、というのである。
四国、英国・ドイツ・日本・中国の代表のうちでは、ドイツ総領事のみが11月事件の局外者だった。
 当時まだ代表を常駐させていなかった国家のうちでは、ロシアだけが半島の情勢に関心を持ちえたが、ロシアは常に、彼の地でのあらゆる出来事に関与しないできた。ロシアは今もなお、日本人が朝鮮政府に対して如何なる陰謀を企もうと、全く意に介さないのだろうか。
 要するに、全ては日本が朝鮮支配を獲得するのに好都合であった。唯一の重大なる障害は、朝鮮の人民大衆の日本人に対する反感であった。
 そこで、竹添は日本政府の本当の計画を包み隠さわばならなかった。竹添の直接の目標は、一、親中国内閣の打倒、二、日本との同盟を説く党派の指導者であるキミオニク〔正しくは金玉均〕、デコミオミク〔正しくは徐載弼〕への政府権力の移管、三、国王は新内閣の綱領、換言すれば、日本の提供する綱領を受入れること、以上の三点に集約される。この計画を成功裏に実現するために、11月22日が選ばれた。この日は、新設の郵政局の開局を祝って、ソウルで盛大なる式典が挙行されることになっており、従って、国王政府の全閣僚が集会に列席するはずだった。この日には国王の大臣全員を殲滅し、日本軍は王宮を占拠することが決められた。民衆に対しては、全てが、ソウルに残留したとされる大院君の支持者の起こした蜂起を装う手筈であった。六名の大臣は本当に殺害され、その当時、国王とその家族がいた王宮も、蜂起した大院君の支持者たちから迫ったとされる危険から国王とその家族を保護すると称して、日本公使と彼の軍隊によって占領された。
 しかしながら、全てが極めてぎごちなく進められたため、ソウルの住民にはその夜にもメダルの裏側が見えてしまった。程なく、偽の大院君支持者らは、日本人、金玉均や徐載弼の召使いたち、ならびに彼らの同志たちの変装であることが見破られた。これが判明するや、中国軍とソウルの住民は日本人に対し、国王の解放と王宮の明渡しを要求したが、所定の期限までにそれが実行されなかったので、中国軍は日本軍を王宮から駆逐した。ソウルの民衆はさらに追撃を統行したので、日本軍はソウル在住の同国人全員を引き連れて、日本海軍が守備を固める済物浦へ落ちのびた。
 昨年2月22日、日本公使竹添によってソウルで上演された忌まわしい喜劇は、このようにして幕を閉じた。
だが、東京の政府は、まさにこのような結末をも予見していた。日本では、朝鮮遠征の準備が迅速かつ華々しく始められた。日本人は、全く正当化しえぬ自らの強請りの失敗にすら、朝鮮との戦争のための立派な口実を見出していた。もしもこの時期に、燃えあがった日本人の熱情に冷水を浴びせるような、全く予期せぬ事態が発生しなかったならば、日本の朝鮮侵攻は避けられなかったろう。
 日本人の戦争準備がたけなわの頃、東京駐在のロシア外交使節団書記官のシュペイェル氏が、朝鮮へ向かうロシアの軍艦(ラズポイニク〔盗賊〕号)の艦上で自らの政府を代表して、ロシアは朝鮮半島での戦争を望まないことを朝鮮国王へ向けて言明している。この外交的示威行動は、戦争の勃発を十分に抑止しえたのである。日本は、朝鮮政府に対しソウルでの日本人虐殺について説明を求めるだけにとどめた。既述のように、朝鮮政府は今年1月、釈明のための使節団を東京へ派遣した。朝鮮使節団と日本政府の間の交渉の詳細はむろん私の知るところではないが、11月の反乱の最中に日本商人の襲った損害に対して、朝鮮は13万ドルの賠償金を支払う義務を負うということで落着した。この際に、東京駐在ロシア公使のダヴィドフ氏は日本政府から、同政府は朝鮮に領土的保証を求めない、との約束を取付けていた。
 また、朝鮮王宮における日本兵と中国兵の交戦に関しても、日本はもはや中国使節団の来日を要求せず、自らの使節を北京へ派遣した。上記の事柄がどこまで正しいかについて私は責任を持ちかねるが、今回、私が朝鮮からヴラヂヴォストークへ向う途上で早くも、中国と日本が朝鮮を独立国として承認し、同国からは中国軍も日本軍も撤退させることで合意を見たとかいう話を小耳に挟んだ。
1884年11月22日のソウル事件は、かくて朝鮮政府にとって幸せな決着を迎えた。そしてこれは、ロシアの干渉の賜物なのである。

上記はアムール州総督付 公爵ダデシュカリアニの「朝鮮の現状」からのもので、文章上「昨年」というておるから、1887年にこの文章は書かれたものです。ロシアの干渉を重視しておるのは、国の職業柄しかたがないとこです。彼は甲申事変を「日本公使竹添によってソウルで上演された忌まわしい喜劇」と表現していますが、日本の元外務大臣林薫の手記でも「・・・されど井上氏が朝鮮に対する好功心は猶止むこと仏国とキンを閃きたるに乗じ、朝鮮の野心家を慫慂して内乱を起さしなく、十七年には清国がめ、大に其内政に干渉せんとす。朝鮮人金玉均は、又井上氏の計策に乗りて、却て之れを利用し、己の野心を遣うせんと計り、大に韓延の反対党を暗殺し、政権を掌撞せんと試みたれど、井上氏が使用したる我在韓公使竹添進二郎なる者は、唯一介の文字の士たるに過ぎざる故、事に臨み狼狽恐催して物の役に立たず、清国の駐在官哀世軌の為に京城を追われ、金玉均以下の亡命者を将て日本に遁げ帰りたることは世に知れたる事実り」と日本公使竹添によってソウルで喜劇が演じられたことを述べている。