ジェネラル・シャーマン号事件2

彼らは今日まで意図的に外国人とりわけヨーロッパ人との関係を回避してきたこと、またヨーロッパ人との関係から生じ得べきことについて判断するために、彼らは中国を凝視してきたことを率直に認めている。そして実際に、一九世紀にとって恥ずべき一八四〇年の阿片戦争、ならびに引き続いて起こった中国領土の一部掠奪は、アジアの民衆が全てヨーロッパ人から離反し、その文明を罵るのに十分であった。最近の二世紀で最大の悪は、ヨーロッパ人と外国人の関係がほとんどの場合に、各種の山師や冒険家、ならびに他人の金でぼろ儲けを企む人々によって結ばれたことにある。文明といえども利己的な目的達成の手段にしてしまう、これらの道徳的に卑小な人々が、さまざまな国に侵入し、現地の富に目がくらんで自らの抑えがたい貪欲に身を委ねていった。しかもその際には、現地民の自尊心、ならびにその信仰や聖地を泥足で跨みにじったのである。ところが、かかるならず者が自らのあるまじき行動や不敬行為の報いを受けるや、関係するヨーロッパの政府は、そこに自らの国家的尊厳への侮辱を認めて、諸国民の懲罰のために軍隊を派遣するのであった。ところで、これらの国民の科はといえば、彼らは掠奪に抗い、各種のペテン師を誹謗しただけに過ぎないのである。朝鮮人もまた、いわゆるアジアの野蛮人らを総嘗めにした、かかる不運の例に漏れるものではなかった。
例えば、六〇年代にはフラソス人何某やアメリカ人何某が朝鮮の奥地へ侵入して、そこら国王の柩を幾つか奪ったあげく、朝鮮人に対して柩の買い戻しを要求することを企てたのである。このような厚かましい行為を思いつくのは容易だが、そうは問屋が卸さなかった。そして勇敢なる掠奪者らは全く当然の報いとして、朝鮮国王の墓所に自らの骨を埋めることになった。ところで、これは結局、どのような結末を迎えたのであろうか。一八六六年、フランス艦隊が漢江へ侵入して、朝鮮人数百人を殺害した上で、首都の周辺を壊滅させたこと、これが結末である。同じことは、一八七一年にアメリカ艦隊も行なった。この後に、朝鮮人が文明化した外国人に対して門戸を鎖し、全面的に絶縁する決断を下したのは、驚くべきことだろうか。『アムール州総督付 公爵ダデシュカリアニ著「朝鮮の現状」(1886年刊行)よる」

参考

この注釈(ゲ・デ・チャガイ)によれば、アメリカ船シャーマン号について

「1866年8月、アメリカ船(シャーマン将軍号)が朝鮮へ向かった。この遠征隊のリーダーたちは朝鮮との通商条約締結を実現するとともに、金で出来ていると噂された国王の棺を掠奪することも併せて目論んでいた。1866年8月17日、(シャーマン将軍号)は平安道の岸辺に姿を現わした。外国人とは没交渉を国是とする故に、退去されたいとの要請が徒労に終わったので、朝鮮人は船に火を放った。アメリカ人らは落命した。1867年、アメリカ人ジェンキンスは、朝鮮に対する新たな掠奪遠征を企てた。その首領にはドイツ人山師オッベルトが据えられたが、この折も朝鮮民衆はものの見事に異国人たちを駆逐した」

さらに一八七一年のアメリカ艦隊について

「一八七一年、米国政府は劇鮮へ向けて、八五門の大砲ならびに1,230人の兵士を積載する五艘の軍艦からなる遠征隊を派通した。遠征隊は朝鮮との不平等通商条約の締結、ならびに外国貿易のための港湾解放をかち取る手筈であった。650人の部隊を江華島に上陸させると、干渉軍は広城鎮要塞の包囲を間始した。アメリカ兵らは広城鎮を占拠したものの、そこに踏み止まることができず、すごすごと中岡へ向けて逃走した」