李朝末期の腐敗悲惨の実情

李朝末期の腐敗悲惨の実情

 ごく初期のころ朝鮮に居住していたある外国人が、私に、つぎのように語ったことがある。「私が最初朝鮮に行ったとき、私はあたかも、現世からほんとうのアリスの不思議な国に来たような錯覚を覚えた。すべてがたいへん幻想的であり、この世のどこよりもあまりに異質的であり、不条理であり、よそよそしく、そして奇妙であったので、私はしばしば、自分自身がいま目覚めているのか、それとも夢をみているのか、と自問せざるをえなかった」と。

 最初のころ朝鮮に到来した欧米人たちがみたように、当時の朝鮮の諸制度は、多くの点で何か五、六世紀前の中国のそれに似ていたのだった。政治制度は専制君主制であり、王は総理(「領義政」)と二人の同僚(左・右議政)と六つの省の長すなわち礼・戸・兵・工・刑・更の「六曹」の長官である「判書」、によって輔弼されていた。全国は八つの行政地域(入道)に分けられ、各道にはその長官である「観察使」(「監司」ともいう)、そしてその下には各地区(府・郡・県)の長官(府使・郡守・県藍などの「守令」)をおいた。この行政秩序を維持するために、王は、あたかもアメリカの百万長者実業家の「私設代理人」に相当する密使(「暗行卸史」)の制をもっており、密命をおび王に代わって全国各地を巡視させ、諸般のことがらを監察して、王に直接報告させた。監獄は呪阻のまとであり、拷問は自由に行なわれ、周期的な監獄清掃に際しては一時に数十名の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。一般国民の犠牲のもとでの徴税請負制と収租地特許制は、政府の二大弊制であった。徴税請負制のもとでは、監司や守令は、なるべく巨額の税を徴収するための自由行動を認められていたので、彼は、その徴収した中央政府要求分以上の余分の額を、自分自身の収益として保有することができたのである。繁昌して富裕になったような人は、たちまちにして守令の執心の犠牲となった。守令は、とくに秋の収穫の豊かであった農民のところへやってきて、金品の借用を申し出る、もしも、その人がこれを拒否すれば、郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同様にさせたうえ、日に一、二回の苔刑を加えるのであった。もちろん善良な守令も悪徳な守令もいたが、総じて官街は、すべての勤労大衆にとって恐ろしいところであった。ある朝鮮の農民が、あるとき私にたずねた。「私が、なぜ、もっと多くの穀物を栽増し、もっと多くの土地を耕作しないのかってで」「なぜ、私はそうしなければならないというのか?より多くの穀物収穫は為政者のよりひどい強奪を意味するだけなのに」と。もっとも、守令の権勢は、一種の自然権のような暴動蜂起と国王に対する直訴とによって、修正されやわらげられるのであった。為政者があまりに強欲であるようなときには、民衆が蜂起し彼を殺害するようなことがあっても、中央政府は、それを、正義が行なわれたのだと考えたようである。このような制度の下では、個人的企業の厳しく制限されることはたしかである。特殊な産業に対する心からの誘因を誰もが持ちえなかったのである。
 貴族に対する収租地の特許は、民衆にとってのもう一つの重荷であった。貴族すなわち両班(ヤングパン)は、自分たちは勤労階級に依存して生活する権利がある、と考えていた。高官の子息が成人すると、その父は、国王に対して収祖地の特許を申請した。この収租地というのは、おそらく、どこかの川などの歩いて渡れるところを通る人たちに多額の賦課をする権利とか、あるいはなんらかの特殊地区内での課税権というようなたぐいのものであったろう。そしてこの収狙権者は、逆に国家に対しては、実際上なんらの奉仕をもすることはなかった。西洋の読者諸氏にとっては、このことは驚き呆れることのようにみえるかも知れない。だがしかし、このことに対する義憤はしばらくおくがいい。イギリスでの荘園に対する領主の特権、あるいは都市のもつその周囲の共有地に対する大君主の特権、を想起していただきたい。その共有地に排水溝を掘りたいと思う人や、自分の家からその共有地のへりを通って空地へと通ずる新しい出入路をひらきたいと思う人は、ただちに相当額の賦課に直面するのである。等価の代償となるべき奉仕を〔国家に対して〕支払うことのない、共有物についての賦課権の所有というこの原理は、いずれの場合についても同一である。
 『デイリィ・ガゼット』の次のような短報は、ソウルの生活の倦怠を破った。
  「国王陛下は、クワソ・イクサンとソング・チュングスプーーいずれも著名な愛国者の子孫である−−おのおのに楽器を与え、最近の文官試験(科挙)及第を祝うための街頭行進の先頭で、それを演奏させるように命じた」
 「国王陛下は、『皇太后陛下が年老いて、近く立后以来すでに五十年にもなるから、朕は明年元旦に正式賛辞と衣服を贈るつもりである』と仰せられた」
と。
 最初の数年間、朝鮮に入国した外国人の大多数が見たのは、開港地である釜山、済物浦および首都だけに局限されていた。これらの場所で、彼らは、朝鮮のもっとも惑い面を見た。とくに、ソウルには、貴族や宮廷に寄生する食客の大群がおり、彼らは怠惰で不潔であり、農村地方では見られないような下劣さを感じさせるのであった。しかしソウルそのものは幻想的な絵のようであった。王と王妃とは、山影を背にした大きな宮殿で統治を行なっていた。低い.平屋建ての建物が広びろとつづき、その周囲は広大な中庭と高い城壁に田まれており、従者たちが充満していた。数多くの石柱を支柱にして、美しい湖水の中に浮かぶように立っている、かの有名な亭(閣慶会稜のこと)で、王は妓生――朝鮮のゲイシャ――と楽しく遊ぶことができた。少なくとも軍人に達する侍臣、官吏、宜宮、魔術師(巫督)、占い師、そして各種の食客たちがいた。魔術師たち――盲人のギルド――は、国内でひとつの勢力を形成していた。彼らは頑固な党派を形成し、人びとは、彼らが見えない両眼で虚空をにらみ、歩く道をさぐりあてるよう長い杖で鷺をたたきながら対をなして通るのを、恐怖の日で眺めるのであった。
ソウル、それはこの上もなくよい位置に配置されており、高い丘に囲まれ、健康的なほどよい気候に恵まれている都市であり、宗教的拝礼の行なわれる寺院の一つもない、東洋諸国の首都中ひときわ注目に値する都市である。すでに数世紀前に、仏教僧の都市境界内に定住することが禁止された。朝鮮人は、不思議な無宗教国民で、彼らの主要な信仰は、「鬼神」の恐ろしい存在である。
 上流社会の婦人たちはきびしい隔離生活を営むが、その隠蔽の厳重さは彼女らの夫に対する尊敬の念の証左とみなされている。下層階級の婦人たちは、たいていはその家族を養うために一生懸命働く。彼女らは異様な衣服をまとうが、それは乳房はあけっぴろげにしておりながら、しかもその乳房の上の方の胸部はこれを丹念に覆うているのである。たとえ、女性が男性に対して屈従的地位におかれているとはいえ、この国の道徳は全体として良く、日本のそれと比較してたしかに、非常に良好にそれが持せられている、と言いうるであろう。
 ソウルの市街は、この不思議な諸側面を示し出している。今にも、道をあけろと民衆を怒鳴りつける威張った従者を従えて、駕寵に乗った高官が通って行くこともあろうし、また、淡黄色の衣服を着用し、大きな冠をかぶり、顔の大部分を隠し、扇子を前方に持って、ゆっくりと歩く、喪中の人の通ることもあるだろう。朝鮮の礼制では、長上の死者のため喪に服することが、もっとも厳粛な重い負担として各人に負わされている。近親者が死去すると、数カ月、ときには数カ年ものあいだ、周囲の人目を避け、日常の仕事も中断して過ごさなければならなかった。またときには、身分の高い貴婦人を乗せて密閉した駕龍が、ながながとつづいて通り過ぎることもあろう。市街を行き来する一般民衆はみな、長い白衣をまとい、ちょんまげを結っている。立ち並ぶ店みせの店頭には、質のよくない東銀器具や油紙、食料品などがいっぱい並べてある。朝鮮は事実上工業生産国ではないからである。またときには、槍兵隊の一隊が、部厚く綿をつめた甲胃をつけて、その勇名を立証するかのように、ひどくむずかしい顔つきで進行することもあろう。日没とともにソウル市の城門は閉ざされてしまう。そしていかなる人も、その人がこの地上での最高の人であろうとも、市内に出入しようとすれば、市の周囲をめぐらした大きな城壁をよじのぼって越えるほかはなかった。夕闇のせまるころになると、高い丘、すなわち南山その他の四つの丘の上で、四つののろしが打ち上げられる。それは、遠い地方ののろし監視人たちに向けて、すべてが良好であり、したがって朝鮮は平穏である、ということを告げる合図なのである。日没から一時間ののちには、男はみんな屋内に退き、女性が街頭に出て来る。それは女性のための時間で、この時間に彼女らは、市街を自由に遊歩することができるのであった。こういうときに、彼女ら女性群のただなかに自分のいることを発見した不幸な男性に災いあれ! やがて、市の中央部にある大きな鐘がいんいんと警告を発して鳴りつづける。これが晩鐘で、ソウルはこれとともに休息に入るのであった。
 当時の朝鮮人の生活をあざやかに描くには、朝鮮民衆の陰影とミステリーを強烈に誇張して描かなくては不可能である。ソウルそれ自体については、どれをとってみても、それがあまりに老いとは言えないというくらいの状態であるが、いっほう地方の民衆に関するかぎりでは、その大部分が繁栄と潤沢の生計を維持しているといって大過ないであろう。今日のロソドン市外に住むイギリスの貧民がおかれている窮乏と何か同じ程度のものが、ソウル市外に住む朝鮮の民衆のあいだにも存在したかどうかは、はなはだ疑問である。この国には乞食はほとんどおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは、貧民のために苦心してつくられた貧民救済制度はその必要がない。地方の人たちは、自らの土地をもち、そこで働き、特別な窮迫時は別として、自分や家族を養うための、今後一ヵ年間の生計を維持するに足るだけの、十分な収穫をその秋に得ることができた。ソウルの男たちが怠けているその間にも、地方の農艮たちは勤勉に働く善良な夫であった。私は、ヨーロッパの繁栄している地方と同じように手入れのよく行きとどいている、地方の広大な農林地帯を通って、旅をしたことがある。一時的な外国旅行者は、朝鮮人の生活の、目につきやすい悪弊や矛盾を目のあたりにして、〔それを強調するのあまり、先にあげた、ロソドン市外住民の窮乏度とソウル市外の朝鮮人のそれとの、程度の比較の例にも、みられるような〕割合やつりあいの関係についての感覚のすべてを見失う傾向がある。具体的な例をあげると、旅行者は、朝鮮人がテコの原理に基づいて三人で一つの長いシャベルを扱ういっぷう変わった土掘り方法(一人はシャベルで土を掘りすくい、あとの二人は前方両側から縄でひっはってそれに助力する方法)が、一人だけで土を掘るのよりも結局において少ない成果をあげている、という事実を見たはずである。
また、彼は、罪人たちがその首をはねられたのち、鳥や犬に食わせるよう野っ原に放り出しておかれるのを見て、不快感を抱いたこともあろう。さらに、彼は、しばしば行なわれた囚人に対する拷問や苔刑の光景を見て、まったく嫌になってしまったこともあるだろう。朝鮮に滞在したことのある外国人は誰でも、その最初の数週間、嫌惑感と恐怖感でいっぱいになったであろう。しかし、彼がその民衆をよりよく理解すればするほど、彼らが、親切で、正直で、ほんとうに素朴で、好学心に富み、かつそのほかにもいろいろと数多くの変すべき、愛さるべき性質をそなえていることをただしく見てとるようになるであろう。これは、私自身の経験に基づくものであり、そしてまた、私よりもいっそうよく朝鮮人を熟知している外国人たちと討論しあった結果、まさにそのとおりであるという私の得た確信である。(あるイギリスのジャーナリストの手記より)