朝鮮における識字率

>ちなみに朝鮮半島の国民に「読み書きそろばん」が普及し始めるのは日本統治以降。

朝鮮における識字率はかなり高い。どんな小村にも学校があり、読み書きのできない朝鮮人には滅多にお目にかかれない。夕方になるとしばしば、大勢の子供たちが鮨詰めになっで思い思いにうずくまる、ほの暗く照明された小屋から、二、三音よりなる摩詞不思議で単調な節回しの猛烈な歌声が響いてくる。これは授業が順調に行なわれていること意味する。歌を通して読み書きを教えるという。

上記は1895年12月から翌年の1月に朝鮮旅行したアリフタン中佐の手記からです。

アリフタン中佐はロシアの旅行者で、北朝鮮の東北一帯を調査しながら、土地の自然や人文地理的に観察に従事する傍らで、生活文化などにも目を配っています。しかし、この旅行記は、人類学や民俗学の報告書や民族誌ではなく、しかも全てが朝鮮に好意をもって書かれた訳でもないです。自由に歩きながら国情を調査することでロシアの外交や軍事に資することを目指した諜報活動の一環としての旅行記であったようです。しかし、そうだからと言って研究資料にならない訳ではないと思う。このような直接体験に基づく旅行記は、一次資料として最も価値が高いと思うのである。なぜなら歴史書や解説書、教科書を読んでも、このような一次資料から受ける感動を味合うことは稀である。その点、旅行記からは、実体験から受ける当時の朝鮮の実情がよく理解でると思う。イザベラ・バードの『朝鮮紀行』も読みましたが、当時の朝鮮の様子がよく描かれていて面白かったです。

アリフタン中佐の手記は1958年にモスクワで刊行された「朝鮮旅行記集1885-1896年」にあるひとつで、原書は、ソ連アカデミー東洋学研究所編「東方諸国におけるロシア人旅行者たち」シリーズの一冊として東洋文献出版から上梓されたもので、編者である同研究所のガリーナ・ダヴィドヴナ・チャガイ女史の「朝鮮旅行記」の一編です。訳者は当時関西外語大学教授である井上紘一氏によるものです。

下記はイザベラ・バードの手記からです

 現在(1897年10月)は官立小学校、官立英語学校、外国語学校、ミッション・スクールがある。小学校とミッション・スクール以外に、前に触れた王立英語学校があり、100人の制服姿の学生がイギリス海軍教官から教練を受け、フットボールに夢中になっている。 学生たちは身なりといい、態度といい、英語の急速な上達ぶりといい、教師からみっちり仕込まれているのがよくわかる。この学校につづいて日本語、フランス語、ロシア語の各学校が開校したが、現在のところはおもに語学中心である。ロシア語学校の責任者ビルコフ氏はロシア軍軽砲兵隊大尉だった人物で、ロシア語学校でもフランス語学校でも生徒たちはロシア人の教官から毎日軍事教練を受けている。
 教育の土でも、道徳、知性の上でも朝鮮で最も大きな影響力を発揮しつづけているのは、培才学堂である。この学校は合衆国メソジストか監督教会の所属であるが、11年間にわたって同一の校長、H・Gアペンゼラー牧師が奉職しているという強みがある。培才学堂には古典漢第やシェフィールドの『世界史』その他を教える漢文・諺文部と小規模な神学科、そして読み書き、文法、作文、歴史、地理、算数、初歩化学、自然哲学を教える英語部がある。合衆国で教育を受けた朝鮮人ジェーソン博士が最近まで週に一度世界地理とヨーロッパの政治・キリスト教史を講義しており、熱い関心を呼び覚ました。学生のあいだには愛国精神と、誉れの伝統を備えたイギリスのパブリック・スクール魂のようなものが育まれつつある。この学校が顕著な成果をあげていることは疑問の余地がない。また高等普通教育以外にこの培才学堂がもたらしている広い知的視野と深い倫理観は、やがては朝鮮の救済となるかもしれないのである。キリスト教の授業は朝鮮語で行われ、礼拝への出席は義務となっている。生徒は軍事教練を受けており、1897年はじめの軍隊熱さかんなときに西洋式のあかぬけた軍服を導入した。また活動の旺盛な事業部があり、この部の三力国語をそろえた印刷機器と製本設備はともにフル回転している。
1895年はじめ、政府は培才学堂で行われている普通教育の重要性を認め、授業料と一部教師の給料を負担して生徒数を200名まで増やす契約をかわしている。同じ合衆国メソジスト監督教会の経営で実業教育を行い、ある程度の成果をあげている男子学校・女子学校はほかにもある。また合衆国長老教会は有益な学校を数校経営しており、女子学生の教育に力をそそいでいる。 外国修道会はソウルに孤児院ひとつと男子学校を二校持っており、保護・教育を受けている児童は二六二名にのぼる。その第一の目的は孤児をよきカトリック教徒に育てることにある。男子学校で生徒は漢字と諺文の読み書きを教わり、古典漢籍をある程度勉強する。宗教の授業には諺文が用いられる。その目的は朝鮮人改宗者の子息に初等教育を行うことである。

孤児院の男の子たちは諺文でのみ教育を受け、三一歳でソウルまたは地方のローマカトリック教徒の養子になり、農業なり商業なりを学ぶか、自活の道を選んで商店で雇われたり従僕になったりする。年長の女の子は諺文と裁縫、家事を習い、15歳でローマカトリック教徒の息子と結婚する。ソウル近郊の竜山には司祭職志願者を養成する神学校がある。
 そのほか《日本海外教育団体》が1896年に設立した学校がある。この団体は「進んだ」日本人キリスト教徒を主として組織されている。授業内容は古典漢籍諺文、作文、西洋文化研究の手段としての日本語学習、科学と宗教の講義となっている。この学校にはキリスト教宣伝の役割を担ってほしいとの創設者の願いがこめられている。
1897年、ソウルのミッション・スクールおよび外国語学校には青年男子を中心とする900人近い学生がいた。このなかにはイギリス人教師のいる王立英語学校の学生100人も含まれている。学生の大部分はキリスト教倫理観、自然科学の基礎、歴史一般、愛国心の徳義を仕込まれている。大半の男子学校に朝鮮文化離れの気風がある程度あるが、これは学生がいかなる環境によってもふり払えない新しい理念、思想、人生観を吸収し、自分たちの立脚点と人生に対する心の持ち方を変えつつあるからである。こういった学生たちが旧世代と交代したときに、朝鮮の情勢は好転するのではないかと期待される。



日本統治以降の教育

1910年に朝鮮は日本に併合され、朝鮮教育令が公布されます。その目的は天皇の栄えをたすけために忠義をつくして、勇敢に戦へということで、「忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス」ことです。つまり簡単に述べれば「天皇の赤子」にすることです。そのため学務局を中心とする教育行政機関が整備され、学校が建てられます。普通学校から専門学校までの学校制度がととのえられ、日本人教師が配置され、日本人によって編纂された教科書が配布された。
しかし、日本の公学校に通っていた朝鮮の児童は少なかった。1910年代の朝鮮人の教育は朝鮮人自身の手によって行なわれていたのである。外国人宣教師の設立による私立学校や朝鮮人の手による私立学校など、その数は数千に達したといわれている。ところが日本の教育方針である天皇の赤子化のために、既存の学校が邪魔であったのです。そこで日本は、私立学校令や私立学校規則を出し、私立学校を弾圧しつつ、いっぽうでは私立学校を総督府の教育体系のなかに組み入れる政策をしていきます。

朝鮮には私立学校と並んで、李朝時代からの書堂(寺子屋)も朝鮮全土に広く普及して、その数は1918年には23、369ヶ所にありました。そこでは民族のことばや歴史を教えていましたので、日本の養育方針である朝鮮人天皇の赤子化養育に邪魔になるので、1918年に「書堂規則」を発布して取締りにのり出します。さらに赤子化養育を強化するために第二次朝鮮教育令が改変されます。日中戦争が始まると朝鮮人を「申し分なき皇民化」せねばならなくなり、「皇民臣民」にするために、さまざまな皇民化政策を行います。神社の設置、「皇国臣民ノ誓詞」が制定された。

児童用は、
一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。
二、私共ハ心ヲ合セテ、天皇陛下二忠義ヲ尽シマス。
三、私共ハ忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民トナリマス。
というのであった。

 学校では毎朝朝礼でこれを斉唱し、官公署や各職場でも〝国民儀礼″として、斉唱が義務づけられた。その他、宮城遥拝・神社参拝・国旗掲揚・愛国貯金など21項目の実践要項が実行された。さらに第三次朝鮮教育令が改変された。朝鮮の小学校生にも「忠良ナル皇国臣民」の育成を教育の目的がかかげられ、「立派な皇国臣民である青年」を養成することが教育方針として徹底されていきます。