日本人の間引き

1873年ごろより、世界的に銀価が下落しはじめ、欧米諸国では金本位制の採用が相つぎます。このような趨勢の中で、明治政府は朝鮮にたいし、1876年に日朝修好条規が成立すると、すぐわが国の貨幣を流通させて、朝鮮産出の金を買収しょうとはかります。当時、このような世界的趨勢にひきかえて、日本の産金量は微々たるものでした。しかも1881年ごろまでは日本の通貨制度は金銀比価の諸外国との相違や、不換紙幣の増発などで著しく混乱しており、貿易も入超を続け、金銀が海外にどんどん流出していたことを考えれば、朝鮮産出の金が、はやくから日本政府によって注目されていたのです。とくに松方正義が大蔵卿に就任し、紙幣整理とそれにともない、朝鮮からの金地金の輸入は、ますます重要性を増してきました。朝鮮産出の金地金の買収におもに当っていた第一銀行に、1884年と86年に大蔵省は多額の資金を下附し、金地金の買収につとつとめさせます。
こうして、大量の朝鮮の金が日本に持ちこまれた。とくに1885年から89年にかけては、統計に表われただけでも、その量はわが国の産金量の実に四倍にも達している。もし、この朝鮮産出の金の輸入がなかったならば、わが国の正貨準備はもっと貧弱なものにならざるをえなかったことは明らかである。さらに、我国は1897年、わが国でも金本位制が実施されるにおよび「将来金準備供給ノ見込」をたてたときは、国内の年間産金量二百貫にたいし、朝鮮からは五百〜七百貫の輸入をあてこんでいたことを、あわせて考えるならば、わが国の朝鮮産出の金にたいする重要性がきわめて強いものであったことを充分しることができる。

朝鮮の金についての重要性は、明治2年2月頃に、木戸から、三條と岩倉に送った手紙に見られます。

 「……主として兵力を以て韓地釜山を聞かせられたく、是れ元より物産金銀の利益はこれあるまじく、却て御損失とは存じ奉り候へども、皇国の大方向を相立て億万生の眼を内外に一変仕り、海陸の諸技芸等をして着実に走らしめ、他日皇国をして興起せしめ万世に絶持仕候処、此外に別策はとれあるまじく、未だ蝦夷地(北海道)を開く能はずして他へ手をよくないなどの説もこれあり候へども、是則ち一を知て十を知らざるの説にて……」と

日本人の間引き、堕胎の風習は、すでに戦国時代に日本に渡来した多くのキリシタソ宣教師によれば「日本では貧苦のため、もしくほ古来のならわし、悪魔のすすめによって、生まれた子どものうち養育することのできるもののみを育てることが通常であるゆえ、堕胎は無数であり、生まれたうえ殺される幼児もまた無数である」1585年の『耶蘇会日本年報より』
豊後布教にしたがっていた修道士のゴソザーロ・フェルナンデスの手紙には、つぎのような無残な間引きの消息が出ている。「異教徒、飢饉のさい婦人出産するときは、海辺にその子をたずさえゆきて石をばその上に置き、潮のきたりてこれを持ちさるにまかせるを常とす。その理由を聞くに、食物を与うあたわざるものを育つることは不可といえり」
ルイス・フロイスの『日本史』にほ、「日本では女が堕胎をおこなうことが非常に多い。あるものは貧困から、他のものは多くの子をもつのをいやがるために、また他のものは人に召使われる身であり、もしこれをおこなわなければ勤めを充分に果たしてゆけないために、のどなどの理由からである。こうしてこの行為は何人もとがめないほど一般的になっていた。生まれた子の咽喉に足をのせて圧し殺すものもあれば、ある種の草の葉をのんで堕胎するものもあった。堺の町は大きく人口が多かったから、朝がた岸べや堀はたをいくと、そこに投げこまれたこの種の子どもの死体をときどき見ることがあった」
日本の人口は十八世紀半頃まで3千万人ぐらいになって、その後明治のはじめまではほとんど増えなかった。村での生きてゆける人口の上限があったからだ。なるべく喰い口をへらすために子供を奉公に出すか、間引きするかどちらかであった。その子が男性なら「川遊びにやった」といい、女なら「よもぎつみにやった」といった。