重光葵氏の昭和の動乱

>当時の日本の資本家階級にとっては、朝鮮半島はよい土地だったわけです。ただ、朝鮮半島に安価な労働力を求る工業政策が、大陸への侵略拠点建設と併行していたわけですね。

 要するに日本は、朝鮮を、第一に本国の外郭陣地として、また中国への拡大の前進基地として軍事的政治的に確保し、そのために朝鮮民族の抑圧を教育・文化の面にまで徹底させたんですね!

経済的には主としてここを日本企業に対する安価な食糧・原料供給地、および後にはさらに超安価な労働力供給地とすることに、その統治の眼目を置いたのです。

>朝鮮植民地統治は、日本の支配階級のためでもあり、アジア侵略の拠点の経営でもありました。

 明治の薄閥外交は、常時の風潮に治って、所謂官用強兵主義の上に立った発展政策を採用していた。而して、日本の発展は、常時の四囲の状況に鑑み、結局隣接地域即ち事業上東亜大陸に向ふのほかはなく、日清日露の同戦役の結果、日本は、やうやく朝鮮を経て、満州にカを伸ばすことが出来た。これがまた日本の人口問題解決の一方法であった。満州は、支那の領有に係る辺境植民地であったが、がくして、ロシアのカは北から、日本のカは南より延びた。これと同時に、通商貿易を伸張せんとする米英等の経済政策は、著しく東亜を重要視するに至った。この大勢は大正以後においてもだいたい変りはなかった。
 かくの如く、日本の大陸発展政策は、結局支那を対象とするほかなかつたが、支部の排外連動は、第一次大戦欧州に高調せられた民族主義の風潮に乗じ、ソ連革命の影響を受け、急に激しくなっていた。日本の大陸政策を、この支部の排外的民族連動と如何に調節するかの点が、日本にとっては、最も現実的問題であって、満州問題は即ちその試金石とたったのである。 満州において有する権益を保全することは、食糧に不足し、資源に乏しく、且つ世界の情勢上人口の吐け口のない、島国日本にとっては、現に死活の問題であった、ことは云ふまでもない。これを如何にして護って行くか、といふことは、日露戦争以来、歴代内閣の頭を悩ました問題であった。
満州は人口稀薄の未開の支那の辺境であったが、日本がロシアより受けついだ権益、即ち雄大租借地と南満職道との運営によって、次第に開発せられて、年々百万に近い移民が支那本土から流れ込んで、その大部分は満州に定着するやうにたった。支部の領土であるから、支那人の数が増加するに従ってその政治力は強くなり、外図の権益を排除して、自らこれを経営せんとするに至る、ここにおいて日本と利害の衝突を見るわけである。

以上は重光葵氏の昭和の動乱からです。

>「天皇教国家カルトの集団」というのはうまい表現だと思います。戦前日本の宗教界の様相は、まさにそういったものだったのでしょう。

軍部の上層部(決定権者、年輩の将軍達)の多くは、軍人勅論をはじめ、軍が教育していたこと、たとえば、天皇現人神、神国日本、八紘一宇などは、さすがにそういうことが「建前」にすぎないことはわかっている。しかし若い将校たちに「建て前」論を掲げられて正面から迫られると、いつもそのように訓示している将軍たちとしては、これを否定することはできなくなってしまう。1936年の2・26事件の翌年に日中全面戦争がはじまり、日本が大戦への一途をたどったもとは、それは軍部上層部が青年将校の「建て前論」を「常識論」で抑えることをやめ、全軍、神がかった「建て前論」の信奉者となったからである。