日本大悲劇の種蒔き

 明治三十三年、当時の清国に義和団の暴動が起こった。日本およびイギリス・フランス等の列国は連合軍を組織してこれを鎮定した。この時、列国の中には支那分割を画策する有力な一派があった。日本ではこれに対抗して支那の領土保全・主権尊重を主張する近衛篤麿公を盟主とし、神鞭知常・陸羯南両先生を両翼とする国民同盟会が組織されて盛んに活動した。翌三十四年九月、日本・イギリス等十一カ国と靖国との間に義和団事件講和議定書の調印を終わり、清国は分割されず、領土は保全されて国民同盟会の主張は貫徹した。ところが日露戦争前後にかけてロシアの満州侵入となり、東亜保全のためには一戦をも辞せず、これを排除せねばならぬとし、国民同盟会は対露主戦論を主唱して国論を導いたのである。

 この頃、伊藤公を主とする元老仲間には、鴨緑江沿岸に緩衝地帯を設けようという非戦論があって、この条件がロシアへ交渉されていた。するとロシアから北緯三十七度線中心に緩衝地帯を設けるということなら考えて見ても好いという回答があった。本野駐露公使から日本がこれを承知するということなら、解決の見込みは十分あるが、どうしようか、と外務省へ入電があった。それが日本では朝議いよいよ開戦に決し、仁川碇泊の露艦を襲撃する千代田艦などが出て行ったばかりのところだ。この電報受け取った外務省の某高官は、これを握りつぶしにしてしまった。それはともかく、北緯三十七度線中心ということは、この時からロシアの腹にあったことだということが、太平洋戦争が終わった時、北緯三十八度線以北をソ連の占領地としたということでおのずから分かるのである。

日露戦争中、日本は朝鮮処分に画策した。それは一に王道主義に則り、朝鮮扶掖という旗じるしの下に進められたのであるが、朝鮮における一進会、日本における黒竜会などの活動による過激・強硬手段により、一路合弁へ突進し、強引にこれを実現したのである。東亜の禍根はこの覇道主義の小成功に根ざした。鴨緑江の向うで、日本の朝鮮処分に眼を見張っていた支那四億の民は横を向いてしまた。

 「お次はこっちの番だ」と、日本を前門の虎とし恐れ疑ったことはいうまでもない。
支那に対しては、義和団事件の時から日本は支那の領土保全・主権尊重を原則とし、日露争後のポーツマス条約でも、従来ロシアが占有していた権力を、日本が引き継ぐ以外は支那から求めず、日露たがいに侵さないことを約したのであって、領土保全・主導尊重の原則に変わりはなかったのであるが、その実日本人は満州は日本の領有に帰したもののように考えていろいろの要求を支那に持ちかけたのである。そこで支那関係はもつれにもつれ、ふたたび戦争が起こりはしないかというところまで行っていた。
そのうえロシアは東清鉄道を持っている関係から北満に蟠踞し、絶えず日本のやり口を注視していた。これが大正3年欧州大戦までの東亜の情勢である。

日本は朝鮮の寺内総督の命を受けてロシアとの貿易再開を計画した。これは日露戦争後国交いまだ回復せず、満州を挟んでにらみ合っているような、両国の仲をやわらげて、修交和親しようという誠意に外ならなかったのである。貿易再開は双方のきわめてなごやかな交渉により、話がとりきめられ実行に入ったのであるが、大正三年八月一日、露独開戦のため中止となり、間もなく八月二十三日には、日本もドイツに宣戦を布告して青島を攻撃し、十一月十四日これを陥落させた。

 時の大隈内閣はこの戦勝の成果を確保するとともに、欧州諸国が戦いに狂弄して東亜を顧みる隙のないのに乗じて、日支間の諸懸案を一挙に解決しようとし、袁世凱政府に、翌四年一月十八日対文二十一ヵ条の要求をつきつけた。その要求は、日本としては歴史的大陸進出の実績による権益を確保するため当然の措置とされ、これによって大陸雄飛の基礎を固め、国防の安全を期する、多大の利益を収むるものとされたのであるが、その内容は第一に旅順・大連の租借期限を、ともに九十九年に延長すること、第二に満州における農工商業経営のため、必要なる土地の商租、第三に満州諸鉱山の採掘権、第四に東部内蒙古において日支合弁による農工業経営権、第五に東満州及び東部内蒙古における鉄道借款及び顧問・教員傭優先権、第六漢冶萍公司の参与権、第七山東省内不割譲、及び福建省に於ける外国海軍根拠地不許可等を要求したものであって、支那としては日本の支那に対する領土的野心の露骨な発露、主権侵犯の意図から出た勝手極まる要求として、上下の憤激を買い、各種の手段をつくしてこれを拒否する態度に出で、ひたすら交渉の遷延に努めた。そこでわが国は五月七日に強硬な最後通牒を出し、五月九日無理往生にこの条約を締結させた。支那人は五月九日を国耻記念日として排日・愛国の煽動・宣伝をやったもので、ここにおいて支那に対する領土保全も、主権尊重も全く空題目となり、日支間には越え切れぬ深い溝ができてしまったのである。欧米諸国に対しても、日本は欧州動乱の隙に乗じて、火事場泥棒式侵略を逞しゅうするものだという悪印象を与え、とくに米国は日本の侵略主義を憎み、その後日本に対し、掣肘牽制の態度を露骨に表わすようになった。その後日支関係は事ごとに激化し、悪化に悪化を重ねて支那事変となり、ついに太平洋戦争に導いたもので、日本大悲劇の種蒔きは、この時から始まったのである。