日本の非望

(2008/11/01 01:35 共同通信


 防衛省田母神俊雄航空幕僚長(60)が、過去の中国侵略や朝鮮半島の植民地支配を正当化して「わが国が侵略国家だったなどというのはまさにぬれぎぬ」と主張し、政府の憲法解釈で禁止されている集団的自衛権行使や「攻撃的兵器」の保有解禁も事実上要求する論文を31日、発表した。
 浜田靖一防衛相は同日夜、防衛省で記者団に「政府見解と違うことは極めて明白。空幕長としてふさわしくない。要職を解く」と更迭を表明、田母神氏を更迭した。

 同氏は同日深夜の持ち回り閣議航空幕僚監部付に異動。防衛省設置法により岩崎茂航空幕僚副長が当面代理を務める

 麻生太郎首相も同日夜、論文について「適切でない」と述べた。
中韓両国などが反発し、シビリアンコントロール文民統制)の観点から議論を呼ぶのは必至で、麻生内閣政権運営にも影響が出そうだ。

 論文は「日本は侵略国家であったのか」と題し、19世紀後半以降の日本の朝鮮半島や中国への軍事的行動について「相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない」と主張。
同時に「わが国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」「条約に基づいたもの」などとして重ねて正当化している。

 1941年の太平洋戦争開戦に関しては「日本はルーズベルト米大統領)の仕掛けたわなにはまり真珠湾攻撃を決行することになる」として、やむを得ない戦争突入だったと強調した。

 田母神氏は今年4月、航空自衛隊イラク空輸活動を違憲とした名古屋高裁判決について「そんなの関係ねえ」と発言し、批判を浴びた。

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寺内正毅は1910年の日韓併合の後、1916年まで朝鮮総督を務めた方で、下記のように「領土を侵略することはやすいが人の心を奪うことはできない」とポロポロ涙をこぼして訴えられています。当時の朝鮮総督でさえ日本が領土を侵略していたという意識がありあり込められた涙であろうと思う。

参考

日本の非望

支那圧迫 寺内伯の憂慮

「対支二十一ヵ条の条約が締結された時わたしはまだ朝鮮にいた。ついに侵略の牙をむいた日本に対する支那人の憤激、日本人に対する憎悪、それによってまき起こった排日・排日貨の旋風は、京城あたりでも感知された。寺内総督はわたしに朝鮮に手近い地方の実状を見て来てくれとのことなので、わたしは支那へ潜行した。長春奉天で、日本製の帽子を地に投げつけたり踏みにじったりして、排日救国を怒号している、支那人の眼は、日本人に対する憎恵に燃えていた。帰って寺内さんに報告すると寺内さんは、
 「困ったことだ。とり返しのつかんことをやってしまった。この調子で進んだら、日本と支那はヨーロッパにおけるドイツとフランス以上の、永遠の敵となってしまう」
といってひどく心配された。何とかしなくてはならんと話し合って見てもどうするわけにも行かぬ。そうこうしているうちに、支那に対する問題は袁世凱帝制の場面に転回した。日本が帝制延期の勧告をしたのが大正四年十月二十八日で、この頃わたしは朝鮮引揚を決心、内々帰国の準備にとりかかっていた。
そしてわたしがいよいよ朝鮮を引揚げる翌五竺月までの間に、この間題は大体次のような経過をたどる。

大正四年 十月二十八日帝制延期勧告
大正四年十一月  一日勧告拒絶
大正四年十一月  五日帝制延期再度勧告
大正四年十二月  五日陳其英軍上海機器局占領
大正四年十二月 十二日衷世凱皇帝即位承認
大正四年十二月 十五日日本最後的勧告を発す

この間にわたしたちは、日本が支那に対して何かしら大変なことをたくらんでいるな、ということを感知した。ある日青森連隊長をしていた土井市之進という陸軍大佐が、朝鮮を通り抜けて支那へ行った。土井大佐は寺内さんとは親戚の仲である。それが京城を通りながら、寺内さんに挨拶もせずに行ってしまった。坂西大佐からこのことを聞いた寺内さんは、
「あいつら何かたいへんなことをやりおる」
といわれた。

日本が袁世凱の帝制を阻止した口実は国内に動乱が起こるということにあった。支那は動乱は起こらぬといった。事実支那側のいう通り何事もなかった。支那人は共和政治を好まぬ。ことに官吏・上層階級は帝制に深いあこがれを持っていた。袁の声望も盛んなもので、当然反対である南方革命派も手の出しようがなかった。起こらないのが当然なのである。それでは筋書通りに運ばない。そこで日本から行って騒動を起こさせたのである。いや、むしろ日本自身が起こしたという方が当たっているであろう。

土井大佐などはこの火付役の発頭人で、馬賊の大将パプチャブを引張り出しに行ったのである。朝鮮からはまさに対岸の火災で、この大火付の有様が手に取るごとく分かるのである。最初に起こった暴動は陳其芙軍の上海機器局占領である。これにはこういういきさつがあったのだ。
 日本は支那攪乱の手始めに、この陳其美に、上海にいる支那の軍艦を革命派の手に買いとらせるという約束で、たしか三百万円の金を陳其美に渡した。その軍艦は呉淞で受取るという約束になっていた。そこで海軍の予備軍人を大勢駆り集めて舞鶴から船を出した。その船が呉樅に行って見ると問題の軍艦が港から出て来た。こちらへ来るのかと思うと、さっさと針路を東北に転じて逃げてしまった。受取りに行った連中は納まらず、その腹癒せに呉淞に残っていた駆逐艦を分捕ろうとして襲撃したが失敗し、全部捕虜になってしまった。軍艦買収に失敗した陳は、兵を起こして機器局占領をやったりしたが、まもなく日本人の手で殺された。これはわたしが見たわけでもなく、調べたわけでもないからくわしいことは知らないけれど、あったことなのだ。

ある時寺内さんはポロポロ涙をこぼして、

 「大隈内閣のやることは一々東洋永遠の平和の打ちこわしだ。東洋平和を御軫念あらせられた先帝に対し、まことに申しわけがない。領土を侵略することはやすいが人の心を奪うことはできない」
といって嘆かれた。

このただならぬ風雲をよそにして、わたしは大正五年一月十六日、朝鮮を去り、内地へ引きあげて故山に帰臥し、二月には前記の銀行つぶしで上京し、それを果たしてふたたび郷里に帰った。よそ目にはいかにも閑日月を楽しんでいるように見えたであろうが、わたしの心は常に大陸の空に馳せて、事態の推移をじっと見守っていた。(西原亀三自伝からP70〜73)