農民の生活

明治四年十月のお触れで、つぎのようにいましめている。

「百姓どもおおぜい子どもこれあり使えば、出生の子を生所にてただちに殺し候国がらもこれある段相聞え、不仁のいたりに候。以来右体の儀これなきよう、村役人はもちろん百姓どもたがいに心をつけ申すべく侯。常陸、下総あたりにては別して右のとりざたこれある由、もし外より相あらわるるにおいては曲事となすものなり。右のとおり相触れるべく候」

 しかし、この問題はそらぞらしい禁令を出せば、それで解決できるようなことがらではなかった。

 いっぽうに子だくさんの貧農がおり、いっぽうには働き手のほしい漁家や大百姓や商売人や企業家があるとすれば、そこに自然に子どもの売り買いがなりたつ。

明治になると、地租改正によっても農民の生活は江戸時代とほとんどおなじであったが、人口が増える。それは農民の子供らの労働力の需要が増したからである。

明治の中ごろまで、福島県平付近の村々へは、山形県の最上地方から、人買い婆さんが毎年やってきた。世間ではこれを「最上の鬼婆」とよんでいる。土地を手はなすことは、百姓にとって死を意味する。そこで娘が一家のギセイとなって売られていった。その潮どきを見はからって、待っていましたとばかりに人買い婆さんがやってくるのだった。
 男の子でも女の子でも、十二、三歳になった子どもは買っていった。女の子のほうが値段がよくて、そのころ十二歳の女児が五円、六円で売買されていた。はじめのころは、目鼻だちのととのった娘っ子をもつ母親は、人買い婆さんの目をおそれて子どもを押入れのなかにかくしたりしたものだ(脇とよ『砂金掘り物語』より)

 このようにして、ちょうど馬喰が馬をひいてくるように、八、九歳から、十二、一二歳くらいまでの売られた少年少女を連れまわし、買い手をもとめて歩いた。ときにはにげられぬように、麻縄で子どもたちを数珠つなぎにして、ひっぱってもきた。売り値は七、八円から十四、五円どまり、徴兵検査まで働かせるという約束で、その仕度金を給金前借の形ではらわせるのであるが、それは子どもの手に渡るわけではない。もちろん、いちおう徴兵検査ころまでと年季をかぎり、その後は解放されるわけであるが、そこには給金と名のつくはどのものはなく、おとなになってからの労働の報酬はすべて幼少時の養育と見合う形でさし引きされる。
農民はどんなに安い賃金でもがまんして娘をはたらきにださねばならなかった。紡績女工の歌に「うちが貧乏のそのために、幼いそのときに、株式会社へ身を売ちれ」というが、彼女たちは身を買うものが現われたからである。田舎のくらしが畳みさえもない住居だから、寄宿舎に畳があるだけでも、なにか上いくらしであるように、人買いはたくみにさそいかける。こうして彼女たちは安い賃金をもらって、それを親もとへ送る。それで親は地主への借金をはらい、ひどい小作生活もなんとかしのぐ。また農村では地主が土地をあつめるから、働らく農民の何割かが失業の状態になり、それが都会へでて、安い賃金でがまんしないわけにいかね。だから、当時の薩長政府は、日本の軍事化のための産業工業化にはその安い労働力が必要だったから、農民の暮らしに余裕を与える政策は行わなかった。

彼らは農民をひとつの人的資源といて利用するために一向に農民の貧窮を省みることはなかった。農民の暮らしがたたなければ、農民はそれだけ地主のもとでがまんするし、その子供らは彼らの人的資源として利用できるからだ。もし農民や労働者に言論結社の自由があったりすれば、賃金をあげ上を要求する闘争が自由に行われ、少しは農民の民の苦しみを訴えることができたことだろうと思う。しかし政府はあくまでそれをみとめず、つねに労働者や農民の運動を迫害した。こうして全人口の九〇%以上の働らく人々が、極端に貧乏で物を買えないから工業化した製品を国内で売ることができず、日本資本主義はやっと機械を使って大量生産をはじめと、もう恐慌におちいったのである。恐慌はこの後もたびたびおこる。そして薩長企業は、国内ではさばけぬ品を外国の市場が必要になる海外進出の動機が生まれてくる。この国家企業(薩長企業)と地主の要求が、軍人や役人の要求と一致することになる。そこで薩長政府やその企業はますます軍国主義になった。それがまた財閥を肥らせた。地主は政治上にも経済上にも絶大のカをもち、また地主と薩長企業家の利害も根本では一致し、日本では資本主義の発達とならんで封建的な農業があいかわらず重要であったのです。

明治になって、百姓は女の子を間引きするかわりに、それを娘にそだてて売ることになった。日本の近代はこの人身売買を公然のものにしたのである。近代の企業は維新政府と一体化して、商品の過剰生産の悩みを最大の矛盾として内部に包みながら、一方農村の過剰人口の矛盾を餌食にして奴隷労働に吸収しながら肥大していった。子間引き、捨て子の風習と製糸女工、女中、酌婦、売春婦への身売りの実態とは根本において同じ条件でつながっている。それは近代の農民支配の原理がいぜんとして前近代の農民支配と同質につづいていることをも意味しているといえよう。


資料

明治六年に地租改正があり、いままで物納だった税が金納になった。税を金で納めることは、日ごろ金をつかうことのない農村ではじつに大きい負担であったので、村では百姓がばかくさいといって土地を捨てる者が多かった。兄弟が田んぼをゆずりあい角力をとって負けた方が田んぼをとることにしたという角力取田や、酒一升つけて引きとってもらうという樽田が続出するほど、離農があいついだ。このような状態が明治十七、八年ごろまでつづくのである。そのころ、いままで通用していた太政官札が、日本銀行券にきりかえられ、それがまざまな末端の貨幣流通をはげみ、さまざまの迷惑を庶民にあたえた。
 このような現象はほとんど全国的であったといっていい。おなじころの丹波山中の話であるが、税金が納められなくて郡役所から村々へ督促がきた。百姓たちはみんなでそれをことわりにいくことにしたが、羽織を着ていくと、「その羽織を売って税金をおさめよ」といわれるかも知れないとて、みな蓑笠をつけて出かけていった。
「税金をおさめない者は国賊であるぞ、どんなに無理算段をしても納めよ」といいうておったから、村の商人から高利の金を借りて田畑を取られた者は少なくなかった。 そうなるとみな働く意欲はなくなって、どこでもばくちが流行した。。ばくちにまけた者で首をくくったという。
「この村で生きていけるのは、九〇戸までばい。少し増えたと思えば、村を出て行くもん」
親父のいう九〇戸は、百姓で暮らしていける、村の人口の上限やったっじゃな。百姓だけなら、親父の生まれた西郷戦争のときから明治末までの間に、村はもう伸びきってしまったっじゃな。明治末は九一戸で、すでに定数を二戸オーバーしてるもんな。昭和のはじめ、村の農業戸数は八七戸だったから、九〇戸から逆に三戸減少している。しかし、地主の長野さんの田園が二町歩だから、四戸ぶん寄せていると考えれば、やはり九〇戸。いろいろ変化はあっても、九〇戸は守られているもんな。
 明治時代、分家できなかった百姓の次、三男は、どうしたのか。これだけは、調べてみても分からんかった。他村に出た形跡も、あまりないもんなぁ。子供のとき間引いたのか、子供が分家する年頃に当たらなかったのか一生家を持てずに、下男などして終えたのか。・・・(西川登)