対米開戦前の高松宮

[昭和天皇独白録]に於ける対米開戦前の高松宮

・近衛の辞職と東条の組閣(昭和16年)
 十月の初伏見宮が来られて意見を述べられた。即近衛、及川、永野、豊田〔貞次郎・外相〕、杉山、東条の六人を並べて戦争可否論をさせ、若し和戦両論が半々であつたならば、戦争論に決定してくれとの事であった。私は之には大蔵大臣〔小倉正恒〕を参加せしむべきだと云つて不賛成を表明した、高松宮も砲術学校に居た為、若い者にたき付けられ戦争論者の一人であつた。近衛、及川、豊田の三人は平和論、東条、杉山、永野の三人は戦争論、皇族その他にも戦争論多く、平和論は少くて苦しかつた。
 東久邇宮、梨本宮、賀陽宮は平和論だった、表面には出さなかつた
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・開戦の決定(昭和16年)
 内閣の意見は既に開戦と決したが、尚一層慎重を期する要があるから、木戸と相談して、閣僚と重臣との懇談会を開かうと思ひ、木戸をして東条に話させた処、東条は承知しない、それで方式を替へて、私が閣僚と重臣とを食事に招くことにして、その食事の前後に懇談の機会を作つてやり、又一方私はこの機会を利用して重臣各自の意見を聴く事にして十一月二十九日に彼らを招いた。
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 翌(11月)三十日、高松宮が昨日の様子をききに来た、そして「今この機会を失すると、戦争は到底抑へ切れぬ、十二月一日から海軍は戦闘展開をするが、已にさうなつたら抑へる事は出来ない」との意見を述べた。戦争の見透に付ても話し合つたが、宮の言葉に依ると、統帥部の予想は五分五分の無勝負か、うまく行つても、六分四分で辛うじて勝てるといふ所ださうである。私は敗けはせぬかと思ふと述べた。宮は、それなら今止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条は辞職し、大きな「クーデタ」が起る、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかつた。
 十二月一日に、閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した。
その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた。
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 大正天皇貞明皇后の皇子は昭和天皇(1901年生まれ)、秩父宮(1902年生まれ)、高松宮(1905年生まれ)、三笠宮(1915年生まれ)。

 「昭和天皇独白録」で昭和天皇英米との戦争を避けたかったと主張、高松宮に関しては「高松宮も砲術学校に居た為、若い者にたき付けられ戦争論者の一人であつた。」

 しかし、1941年11月30日の時点では昭和天皇の「私は敗けはせぬかと思ふ」に対して高松宮は「それなら今止めてはどうか」と述べている。

 高松宮の発言は昭和天皇が対米開戦を止める事が可能が前提、昭和天皇も同様の感覚を持っていたのだろう。

 対米戦に於いて南方からの物資補給を安定化させるなど主たる戦いを行なうのは海軍、ドイツの海軍力を当てにしていなかったと思うが、米国を包み込むエリアに関して制海権・制空権を持つ事が可能とは思っていなかっただろう、また陸軍もワシントンを占領できるとは思っていなかっただろう。

 欧州での戦いが続く間に軍事力で勢力圏拡大を行い、ドイツが欧州で勝利した戦後の講和会議で大東亜共栄圏を可能ならしめる、欧米の混乱に乗じて第一次世界大戦以上の権益を欧米に認めさせたかったのドイツ頼みが本音と推測。

 「詔書煥発要望の拒否及伊勢神宮親拝」の<注>によると
 1942年12月12日に行なわれた伊勢神宮親拝での戦勝祈願について新聞は「征戦下において・・・戦勝を御祈願あらせ給うた御事は、神宮御鎮座以来未だ嘗つて史上にその御前例なく・・・」。

 しかし、東條内閣の末期・小磯内閣・鈴木内閣に於いて各総理からの国民を鼓舞激励する詔書を出して頂きたいの要望を昭和天皇は断わった事が記されている。
 「戦時中、国民を鼓舞激励する詔書を出して頂きたいと、東条・小磯・鈴木の各総理から要望があった。が、出すとなると、戦争を謳歌し侵略に賛成する言葉しか使へない、そうなると皇室の伝統に反する事になるから断り続けた」(以上『昭和天皇独白録』)

 枢軸側が敗色になると敗戦対策が始まる、大東亜戦争に於いて「侵略」の部分が存在するの認識を示している。
2.26事件では昭和天皇は決起将校(反乱将校)の鎮圧に積極的だった。

 2.26事件は1936年(盧溝橋事件は翌年)に行われた陸軍皇道派によるテロで皇道派への政権移行には失敗した、しかし天皇の信頼する人達が殺害され帝都の一部は反乱軍に占拠された。

 陸軍は反乱軍鎮圧に積極的ではなく、逆に反乱軍を認めるような行動をする、天皇が鎮圧を主張してもなかなか進まず、4日目に収束した。

 昭和天皇は日米開戦の決断に於いて「クーデター」の発生を恐れていた。

 終戦時の首相を決める際、重臣会議に於いて鈴木貫太郎(海軍大将、2.26事件では左脚付根・左胸・左頭部に被弾し生死も危うかった)を推薦する事が決定しそうになると東條英機は「国内が戦場とならんとする現在、陸軍がそっぽを向く虞れあり、陸軍がそっぽを向けば内閣は崩壊すべし」と脅かし、2.26事件の際に首相だった岡田啓介(海軍大将)が「大命を拝したる者に対し、そっぽを向くとは何事か、国土防衛は誰の責任か、陸海軍にあらずや」と諭す。

 天皇や政府要人が陸軍の武力を恐怖し陸軍主導の下に日中・日米戦争に突入したの一面が存在する。