戊午の密勅

先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細間部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而勅答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤勅答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右様之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國内之治亂如何ト更ニ深被悩叡慮候。何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之様ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家慎中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同様御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪状ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被悩宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候様被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、内憂有之候而者、殊更深被悩宸襟候。彼是國家之大事ニ候間、大老閣老其他三家三卿家門列藩外様譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之様、�噐川御家ヲ扶助有之内ヲ整、外夷之侮ヲ不受様ニト被思召候。早々可致商議勅諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣、鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言


先般墨夷との假条約は、余儀なき次第にて、神奈川に於て調印し使節へ渡され候儀、猶又委細は間部下総守が上京に及ばれ言上の趣に候えども、先達て勅答に諸大名と衆議を聞かされたく仰せ出で候所、詮議も之無く、誠に以て皇國重大の儀を調印の後に言上とは大樹公(幕府・将軍)が叡慮のお伺いの趣意も相立たず、尤も勅答の次第に相背き軽率のお取計いは大樹公賢明の所、有志の心得如何と御不審に思召され候。右のような次第にて、蠻夷狄の者、暫くさし置いて今国内の治乱は如何と更に深く叡慮(天皇)を悩まし候。何卒公武の実情を尽くされ、御合体を永久安全の様にと偏に思召され候。三家或は大老が上京を仰せ出され候所、水戸尾張両家は慎んでこの趣を聞き及び、且つ又其の餘宗室(将軍家)の向きにも同様の御沙汰の由も聞かれたく候。右の者は何等の罪状に候や、計り難く候えども、将軍を補佐の面々は、今こそ外夷はこれからの入港も容易ならぬ時節で既に人心の帰向にも相拘るべく、傍ら宸襟を悩ませ候。かねて三家以下諸大名の衆議を尽くされたく仰せ出され候所、全く永世の安全は公武御合体にて、叡慮を安んじられ候よう思召され候儀、外慮の計の儀にもこれ無く、内憂これ有り候ては、殊更深く宸襟(天史の心)を悩ませ候。かれこれ国家の大事候あいだ、大老や閣老其の他、三家三卿と家門や列藩の外様と譜代ともども、一同群議の評定これ有べく誠忠の心を持って、篤と政道を正して、国内平和をいよいよ長く続かせて徳川家を援けるよう整えて外夷の侮りを受けぬよう思召られ候。早々と商議致すべく、この勅諚を下す。
安政五戊午年八月八日
近衛左大臣 鷹司右大臣 一條内大臣 三條前内大臣 二條大納言

1858年(安政5年)8月8日。孝明天皇(28歳)より、水戸藩に勅諚が下されるという前代未聞の事件が起こった。幕府を介せず、直接水戸藩に勅諚が下されるというのは、きわめて異例の事態であった。
勅諚は水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門にもたらされ、すぐに江戸藩邸にもたらされた。幕府に伝達されたのは2日後である。その内容は、日米修好通商条約締結に対する批判と、水戸家、尾張家に対する処罰への批判、そして、国をあげて攘夷を行うように要請したものであった。
この政治的勅諚は「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれ、大老となった井伊直弼(44歳)はじめ、幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったと言われている。

勅諚の背景
元々、孝明天皇は外国人の入国を病的なほどに嫌い、そういう意味では徹底した攘夷家であった。日米修好通商条約締結を知ると、激怒すると同時に譲位したいと嘆いていたという。その天皇を動かしたのは、薩摩藩西郷隆盛(32歳)や水戸藩志士、攘夷派公卿などであった。彼らは、井伊直弼の免職、徳川斉昭(59歳)の処分解除、攘夷決行を呼びかけるように工作を行ったのである。
<参考>
・日本全史(講談社
・幕末維新 新選組と新生日本の礎となった時代を読む(世界文化社

将軍後継問題に勝利した南紀派の大老井伊直弼によって、政敵一橋派の弾圧(安政の大獄)が始まった。京都にいた西郷は、安政5年11月、近衛忠煕の依頼で勤王僧月照を連れて帰国した。しかし、幕府との関係悪化を恐れる藩庁は月照の保護を拒絶し、失望した西郷は月照と鹿児島湾に身投げをした。西郷は一命を取りとめたが、藩では西郷を死亡したと届け、奄美大島に潜ませた。