慶応三年後半の政局

大久保らが鹿児島に帰り、密勅を提示したことにより、藩主茂久は藩兵を率いて、十一月十三日鹿児島を出港し、三田尻を経由して二十日には大坂に着いた。また、長州は折から、長州処分伝達のため家老が上坂せよ、との幕命があったことに名をかりで、毛利内匠が千名以上の兵力とともに三田尻を出港、十一月二十九日には摂津打出浜(兵庫県西宮市)に上陸することになる。
この間に京都では、十月十四日、将軍慶喜が土佐の建白を受け入れ、政権奉還の上表を朝廷に提出、翌十五日朝廷は、これを聴許し、諸侯への命令等は、今後朝廷の議奏武家伝奏が取り扱うと声明した。こうした幕府側の動きは、薩長にとっても予想外に違いなかったが、現実の政治的効果としては相反する長州と薩摩二つの側面を持った。一つには、政権奉還という事態により、幕府の諸侯統率権が制度上あいまいになったことである。このことはおのずから、諸侯がどのような行動を取ろうと、幕府の意向に制約される必要がなくなった、という意味を持った。これは、薩長など反幕府側にとって有利な側面であろう。しかし、それは逆の面から言えば、幕府に対して武力を行使する名分が不鮮明になった、ということでもある。薩長側、が武力を用いても実現しようとしているのは、外見上の制度変更ではなく、徳川将軍家が実態として持つ政治的力量を、大幅に削減しようということだ。それが「王政復古」と連動する限り、朝廷内部と連携を保った慎重な政治工作が、さらに必要となったのである。この経緯を示すのが、次の十一月二十七日付、山口の藩政府首脳にあて、京都から品川が発した書簡である。品川は、島津茂久が率兵上京の途中、三田尻に寄った際、薩摩船に便乗して京都に一戻っていた。
【史料叩】十一月二十七日付、木戸・広沢・御堀あて品川弥二郎書簡(『年度別』幻) 尚々本文之処、臨眠法論替り候と申訳ケハ毛頭無之、唯々朝廷之処、先之手都合通り奪玉等之事、出来ぬ
五併教大学総合研究所紀要第五号
故、致し方無之、此策ニ相成申候、公卿之条理ヲ申サルルニハ、イカナル愈そ致し方無之卜申候寸格呈上仕候、寒冷之節、先以御壮健御尽力可被為遊ト奉敬賀候、担ハ私共過ル二十三日執レモ無異入京、相国寺中へ潜居仕候問、乍障御放念可被下候、担当地之形勢、年後相替リ儀モ無之候得共、朝廷之処、火急一二発ト申訳ニ参ラス、大(久保)氏其外色々尽力ナレトモ明晩頃一発ニハ兎角参ラス、其訳ケハ将軍大政ヲ朝廷へ帰シ候ニ付イテハ一ト通リ条理ヲ立、其上聞サル時ハ、コノ前ノ秘書通リトノ御事ノヨシ、就テハ先不日惣参内、(定政官ヲ立、即日将軍ヲ諸侯ノ列ニ下シ、会桑ヲ奪職、帰国ヲ命シ、我藩ノ兵ヲ入ルル等ノ勅ヲ下シ、其他云々ノ事件ヲ運ヒ候トノ事也、実ニ戦期ヲ失シ、彼ヨリ暴撃-一逢候モ難計、懸念此事奉存候、来月五日マテノ処ハ先西ノ宮へ滞陣致シクレ候トノ事一一テ黒嘉(黒田嘉右衛門清綱)今晩ヨリ下坂仕候、幕親藩モ議論紛々之処、過日尾老侯上京ニテ辞職伏罪之処一一決シ居候得共、会・紀・大垣辺ノ処、中々折合不申ヨシ、歩兵ハ悉クゴ配駅ヨリ江戸へ引取候ヨシ、慶喜ノ直書ヲ持、梅沢孫太郎参リ候ヨシ、蒸気船ヨリ参リ候歩兵ハ四大隊入京ト申事、外一一格別兵ヲ増シ候様ニハ相見エ不申候、世間書付類ハ作間(新四郎)・光永(神太郎)ノ両士御持五四帰リニ付、御覧可被下候、幾回ニモ時機ヲ失ヒ候事、実ニ遺憾-一堪へ不申候得共、今更致シ方無之、唯々彼ヨリ先ヲツケラレヌ様一一ト、夫ノミ煩念仕候、朝廷ノ御手都合、巨細申上度候得トモ何分差急ギ且極密ノ 事ノミ多ク御座候問、書加へ不申候、配一本医骨・石川清之助ノ両人、過ル十ポ)日ノ夜、河原町邸前ノ下宿ニオイテ、壬生浪士ヨリ暴殺セラレ、実-一相惜事ニ御座候、乍併コレニテ士人一シホ奮発致シ候ヨシ、伊藤甲子太郎其外四人モ過日壬生浪総督近藤勇ノ手ヨリ横殺セラレ申候、伊藤ハ是マデ色々疑惑モ致シ居候得トモ、此度ノ挙ニテ見レハ、弥議論正シキ事ト被察候、余ハ両士ヨリ御聞取可被下候、其内時候御愛護、為御国家奉祈上度候、頓首
霜月二十七日暮     橋八拝 
木 戸様
広 沢様
御堀様
差急キ、イツモ乱事、御叱リ無之様、伏シテ奉願上候、不屈不撰之二字、幾回ニモ奉祈願上候
以上は、品川書簡の全文だが、例によって文脈を補足しつっ、あらためて要点を追って行こう。
①最大のポイントは、言うまでもなく次の箇所である。朝廷之処、火急一二発ト申訳一一参ラス、大(久保)氏其外色々尽力ナレトモ明晩頃一発ニハ兎角参ラス、其訳ケハ将
軍、大政ヲ朝廷へ帰シ候ニ付イテハ一ト通リ条理ヲ立、其上聞サル時ハ、コノ前ノ秘書通リトノ御事ノヨシ、就テハ先不 日惣参内、対政官ヲ立、即日将軍ヲ諸侯ノ列ニ下シ、会桑ヲ奪職、帰国ヲ命シ、我藩ノ兵ヲ入ルル等ノ勅ヲ下シ、其他云
々ノ事件ヲ運ヒ候トノ事也」ここに見えるように、現実の十二月九日政変の計画は、この日に最終的に具体化したものである。大政奉還は、薩長側の挙兵手順を狂わせるものであり、そのために、「火急-二発ト申訳ニ参一フス(中略)一ト通リ条理ヲ立」てる段取りが必要になったのだ。現実の経過に照らして考えるなら、その段取りは、小御所会議で、慶喜に辞官・納地を命じようとしたことだろう。そのうえで、慶喜がそれに応じないとき、「コノ前ノ秘書通リ」、すなわち十月十四日慶喜討伐の密勅に沿って、武力挙兵が実行に移されるのである。 ②そうとらえた場合、重要なのは、「先不日惣参内、{持政官ヲ立、即日将軍ヲ諸侯ノ列ニ下」すなど、政変の際に行われた具体的措置は、必ずしもそれ以前からの予定ではなかったこと長州と薩摩だ。それは、いま見たように、大政奉還後の状況変化に応じて、この時点で最終的に具体化されたものである。(ママ薗カ) そのことは、官頭の尚々書きで品川が、「本文之処、藩之論替り候と申訳ケハ毛頭無之、唯々朝廷之処、先之手都合通り奪玉等之事、出来ぬ故、致し方無之、此策-一相成申候」と念を押していることから確認できよう。ひるがえって考えれば、それ以前の挙兵計画は、かなり強引かつ単純な「奪玉」を、とりあえずの目的としていた可能性が強いように思う。ともあれ、現実の歴史過程において実行されたのは、この十一月二十七日決定の計画だったのである。(長州と薩摩 慶応三年後半の政局「青山忠正」)