山内容堂の「幼沖の天子」発言

山内容堂の「幼沖の天子」発言、実は後世の偽造
京都大学助教授の高橋秀直氏は著書『幕末維新の政治と天皇』にて、同時代の史料『丁卯日記』『大久保利通日記』『嵯峨実愛手記』など全てに 岩倉具視の叱責の部分だけが記載がないこと、およびその後も会議において 山内容堂の発言力が何ら抑制されてはいないなど不審な点に着目し、 明治天皇やその取り巻きの者の権威を高めるための、後世の文飾である 可能性が高いとしている。この部分には多数の学者が賛同している。
(但し、他の箇所の議論などでは意見が分かれている部分も有り)
佐々木克氏が「容堂の個人的不名誉だから記さなかっただけ」と反駁しているが それならば山内容堂の問題発言が一次史料に残されている自体が不自然。 そもそも山内容堂が、「幼沖の天子」と発言したあと、素直に謝罪して 会議が岩倉のペースで進む自体が都合が良すぎる話であり、 岩倉具視は博打打ちに間貸しして違法な博打で儲けたり、 京都で略奪・暴行・陵辱など幕府の撹乱工作を主導したり 「倒幕の密勅」「錦の御旗」を偽造したりしている点からも 岩倉具視が着想して偽造したなら自然である。
しかも↓に記すが、会議の談話ではなく、いかにも後世の創作のような 美辞麗句がきっちりと並んでいることにも不信感を覚える。 それにこの時、岩倉が弱冠15歳の明治天皇を 「不世出の英主」だとしたのも意味不明。 やはり同時代の資料に記載がないというのが一番の真証ではないだろうか。 それに出典の「岩倉公実記」の作者は岩倉具視の手下で有名なあの城多董である。
同前「岩倉前中将叱して曰く「御前会議なり、宜しく謹粛なるべし、
聖上は不世出の英主にましまし、今日の挙悉く宸断に出づ、
幼沖の天子を擁し奉りてなどとは何等の妄言ぞ」と。容堂恐悚し、
遽に容を改めて失言の罪を御前に謝し奉る。」