出流山尊皇義軍

>(「出流山尊皇義軍」栗原彦三郎著)

P72〜73(「出流山尊皇義軍」栗原彦三郎著)
次に注意すべき人は権田直助である。・・・慶長三年西觶隆盛と謀って江戶薩藩邸に入って関東擾乱の計に参加し、又上洛して岩倉具視の內意を受け、名を刈田積穂と変え王復古のために盡すところあつた人である。

P81
武蔵国多摩郡の人、落合直亮が後年史談会この義軍の策源地であった、江戶薩摩邸の会合から出流山や相州の義舉に就いて自ら見開したことを述べた際「西觶(隆盛)氏の目的は廃物利用で、廃物人を集めて幕府の治安に妨番を與へて、唯戦端を開くべき用に立てるのみの目的のやうでありました。然し集まった者は皆ー廉の御用に立つ精神の者で、末々につまらぬ者もありしたでせう云々」と語っているのにも知られる通り立派な人物が多くを占めてゐたのである。
P84〜85
第五章出流山義擧の經過 (一)發端
慶応三年十月薩摩藩士益満休之助は同藩士伊牟田尙平を伴って江戶に下り、三田薩摩邸に本陣を置いて関東所在の浪人志士を糾合し、関東を擾乱せしめ、幕兵が兵を向けた場合には出來得る限り抵抗してこれを牽制することを企画したのであったが、此れは常時倒幕派の領袖であった西觶吉之助の指令に基くものと云は れている。此れ等の亊情は後年板垣退助伯のした談話によって明かである。