薩邸事件略記 落合直亮の手記

薩邸事件略記

小島滿將、落合直亮、權田直助等ハ同主義ノ爲メニ無二ノ親友ナリ、常ニ往來シテ朝家ノ衰頽ヲ歎キ、幕府ノ専横、外夷ノ跋扈ヲ怒リ如何ニシテカ王政ニ復シ皇威ヲ海外ニ輝カサシメムト日夜苦慮スト雖モ微力宿意ヲ達スル期トテハナカリケリ。
慶応三年八月薩土ノ諸氏續々と京都ニ馳登リ國事ニ盡力スト聞テ將滿直チニ上京シ錦小路其他公卿及薩土二藩ニ往來シ西郷吉之助ト結ビ遂ニ江戸薩邸ヲ以テ浪士ノ屯集所トスルニ至レリ。
此周旋ハ薩士伊牟田尚平、益滿休之助預テ力アリ。
西郷氏ノ此擧アリシハ一ハ幕府ノ施政ヲ妨害シテ其怒ヲ買ヒ以テ兵ヲ擧ケシメ、一ハ關東ヲ擾亂シ幕府ヲシテ内顧スル所有ラシムルニアリ幕府輕卒ニ西郷氏ノ策ニ陷リシハ時ナルカナ。
滿將ノ意見ハ固ヨリ尊王攘夷ニアリト雖モ幕府外夷ト通シ正義有志ノ徒ヲ芟ルニ汲々タル今日ニ於テハ先ツ幕府ヲ倒スニ非レハ攘夷ノ功ヲ奏スル能ハザレハ身幕臣ニ在リテ幕府ノ恩義淺カラザルモ區々タル小節ニ拘ハリ大義ヲ忘ルヽニ忍ビズコヽエ議論ノ尊王討幕ト變シタルモ勢已ムヲ得ザルニ出タルナリ。
同年十月上旬將滿京都ヨリ下向ス直亮直助等ト謀ル所アリテ、諸有志ノ徒ヲ引卒シテ江戸芝三田薩邸ニ屯集シ糺合方(學校ノ名)ヲ以テ本營ニ充ツ其主領左ノ如シ
 總監  小島四郎將滿  變名 相樂總三
  副總監 落合源一郎直亮 仝 水原二郎
  大監察 權田直助    仝 苅田積(穂)ナリ
  同   齋藤養齋    仝 科野東一郎
 總人員凡五百人出入不定
コノ時薩ノ本藩ハ大概歸國又ハ上京シテ止マルモノハ僅カニ留守居添役關太郎外二三十人ニ過ギズ貴重ナル財貨ハ悉ク輸シ去リ僅カニ數千金ト木石其他雑貨ノ運搬ニ不便ナルモノヲ殘シ置浪士ノ軍資ニ充テツ
十二月廿六日江城本丸消失ス是レ浪士ノ畧ニ出ツトナシテ上下恐怖ス。
十二月一隊ヲ甲州ニ、一隊ヲ野州ニ派遣シ四邊ヲ擾亂セムトス若シ幕府歩兵ヲ派遣スルニ及バヽ其虚ニ乗シ江城ヲ屠ラムトノ畧ナリ、野州行竹内啓ヲ隊長トシ、西山謙之助ヲ使番トシ奥田元等數人之レニ隨從シ岩船山ニ大擧セムトス、西山謙之助一僕ヲ從ヘ栃木陣屋ニ派シ軍資ヲ催促シ五百金ヲ得テ途ニ出ツ渦巻川ノ閭門ニ至ルニ及テ八州取締澁谷和四郎、木村喜藏等農兵ヲ指揮シ謙之助ヲ擁撃シ從僕ヲ殺ス、謙之助農兵ト戰ヒ數人ヲ傷殺スト雖モ遂ニ胸部ヲ砲撃セラレテ斃ル實ニ十二月十一日ナリ竹内啓、中田驛ニ追捕セラレテ松戸驛ニ刎首セラル、奥田元還リ報テ曰ク、此行大敗數十ノ浪士全キ者ナシ是我輩ノ失策、諸君ニ對スルノ面ナシ我唯此事ヲ報センガ爲メ生還セルノミ、今用ナシ割腹セムト直亮曰ク勝敗ハ兵家ノ常ナリ何ゾ耻ツルニ足ラム况ヤ事未ダ定マラズ一死國ニ報ユルノ時甚ダ多キニ於テヲヤト遂ニ止ム(後十二月廿五日戦死ス)將滿怒ツテ曰ク、奸賊ノ小吏王師ニ抗スル此ノ如キ

乎直チニ鏖シニスベシト峯尾小一郎等ヲシテ澁谷和四郎他數家ニ亂入セシム殺傷用捨ナシ。甲州行上田修理ヲ以テ隊長トシテ數人出発ス八王子驛ニ於テ幕府ノ間牒、原惣十郎(會藩ナリシト云)駒野木驛ノ農兵頭鈴木金平等ノ爲メニ富田彌十郎、山田謙助等妓樓千代住ニ謀殺セラル、上田新七郎、加藤隼人等遁レ歸ル(此一行ハ甲州黒駒村藭主武藤々太ノ誘引ニヨリシナリ)。相州行坂田三四郎ヲ隊長トシ結城四郎、岩屋鬼三郎等數人之レニ從フ十二月十六日大久保佐渡守ノ山中陣營ヲ攻撃シ強藥軍資ヲ奪掠ス、此夜下平井村久保田惣右エ門ニ泊ス、歸途八王子ヲ經テ布田驛ニ至リ長山眞一郎一歩後レタリ八王子千人隊和田光之亟ノ爲ニ追捕セラル(後大和田河原ニ刎首セラル)。十七日浪士全隊内藤新宿ニ泊シ払暁薩邸ニ入ル。
或日將滿直亮等浪士二十名許ヲ率テ柳橋ニ遊ブ妓ヲ聘シテ杯ヲ傾ク酒酣ニシテ傍若無人起テ劍舞スルモノアリ妓驚キ遁走シ又酒ヲ行ル者ナシ蹶然船ヲ命ジ行々水鳥ヲ砲撃ス、發砲ハ市中ノ禁制ナルヲ以テ町同心共皆驚キテ馳集ルト雖モ恐レテ近カス遙ニ尾シテ邸外ニ至ル。
或夜浪士數名ヲ派シテ幕府ノ用途方播磨屋新右エ門ヲ襲ハシム此時數名ノ浪士金吹町ニ至リ前後ノ町木戸ヲ閉ジ(此頃町毎ニ門柵アリ町木戸ト云)先ヅ其唐物店ニ進入シ六連短銃數十個ヲ奪ヒ播磨屋ニ突入ス、一家恐怖シ爲ス所ヲ知ラズ茲ニ番頭ヲ呼テ曰ク、汝等常ニ幕府アルヲ知ツテ勤王ノ何モノタルヲ知ラズ其罪淺カラズ汝等前非ヲ悔ヒナハ勤王ノ陣營ニ軍資ヲ献スベシト番頭三拜九拜シテ承諾ス時ニ二童子アリ穴藏ニ案内シテ金一萬餘兩ヲ授

浪士凡ソ内規アリ一ニ幕府ヲ佐クル者二ニ浪士を妨害スル者三ニ唐物商法スル者ハ勤王攘夷ノ讐敵ト認メ誅戮ヲ加フベキ者トス、播磨屋ノ件ノ如キハ其一ナリ、唯私欲ヲ以テ人民ノ財貨ヲ強奪スルヲ許サズ。
市中浪士横行及強盗多キヲ以テ幕府酒井左衞門尉ニ命シテ市中警衞セシム之ヲ町廻ト云フ、途中浪士ニ出會争鬪頻リナリ。
此頃市中強盗多ク名ヲ薩ノ浪士ニ借ル浪士モ亦烏合ノ輩ニシテ無頼ノ徒モ鮮シトセス其中ニ内藤縫之助ナル者内規ヲ破リ強盗ノ擧動アリ之レヲ邸中ニ斬テ其懲誡トス。
 幕府用途足ラザルヲ以テ麾下ノ家祿半高ヲ借リ上ケトセルヲ以テ麾下ノ次三男等必死困窮シ強盗ヲナス者鮮カラズ皆名ヲ薩浪士ニ借ルト云フ。
十二月廿三日夜浪士、町廻左エ門尉ノ屯所ニ發砲シテ護兵ト戰ヒ之レヲ傷ク。
廿五日払暁酒井左エ門尉諸藩士ニ指揮シテ薩邸ヲ圍ム關太郎之ニ應接ス午前巳時本藩報シテ云フ應接破談ニ及ビタレバ浪士ノ面々勝手ニ進退スベシト、忽チ砲聲四面ニ響ク、浪士隊暫時應砲スト雖モ衆寡敵セザルヲ以テ退去ノ策ヲ定ム、本藩ノ醫師鄢田某股ニ傷キ倒ル直亮ノ裾ヲ扣ヘテ曰ク速ニ首ヲ刎ネヨ、ト乞フテ動カズ、松田正雄ヲ呼テ之ヲ斬ラシム首飛フ殆六尺衆見テ之レヲ奇トス、道ヲ隣邸阿波藩ニ借リテ三田ニ出ズ、關太郎應接中敵手ニ死ス出期ヲ失ヒ縛ニ就キシ者伊東武彦等僅ニ數名ノミ。
 幕兵臼砲ヲ以テ南北ヨリ發砲シ硝煙天ヲ覆ヒ咫尺ヲ辧ゼズ浪士既ニ品川ニアリ幕兵未ダ邸内ニ入ラズ砲止テ之レヲ見レバ敵ナシ殺傷セルモノハ我兵ナリ皆愕然就中惜ムベキハ名儒
金子興三郎ナリ(出羽上山藩儒)隣邸ノ屋上ニ在テ幕兵ヲ指揮シ流丸ニ斃ルト云フ。浪士會テ隅櫓ヲ以テ彈藥藏蓄所トス幕兵之ヲ知ラズ漫リニ發砲ス彈藥之ガ爲メニ破裂ス其聲天地ニ響ク以テ地雷火ナリトシテ恐怖スト云フ。
力士陣幕久五郎ノ傳ニ云、慶應三年丁卯十二月十四日(廿五日ノ誤)ノ夜幕府十七侯ニ命シテ江戸芝及高輪ノ薩邸ヲ襲ヒ進テ其拂暁ニ至リ之ヲ放火セリ茲ニ於テ久五郎意ヘラク此大事件ヲ京都ニ報ゼバ朝議ノ参考トモナリ且自己ノ素志ヲ貫徹スル端緒トモナリナムト乃チ親友東海道川崎ノ名主添田七郎右エ門(後藭奈川縣收税長添田知道氏ナリ)ニ報道書ノ編輯ヲ請ヒシニ氏ハ幕府を憚リ一時之ヲ拒シモ久五郎ノ忠信義勇ノ情ニ感シ速ニ筆ヲ執リ書成ルヲ以テ久五郎ハ直チニ京都在勤薩藩士興倉直右エ門(後大藏書記官興倉守人氏ナリ)ニ報シ翌正月二日同氏ハ此報告書ヲ朝議ニ奉リシニ同日夕刻伏見御出陣ニ相成果シテ其功ヲ奉シタリ云々。
浪士全隊品川驛ニ至ル驛頭ヲ放火シ追跡ヲ防ク浪士中、品川ノ者アリ曰ク此ハ我家ナリ放火スル勿レト曰ク今日家アルモ何カセムト先ツ其家ヲ火ニス衆手ヲ拍テ笑フ。
將滿直亮等妓樓ニ入ル樓中人ナシ唯酒肴ノ累々タルヲ見ル曰ク天吾等ヲ慰メムトスル者ノ如シト衆喜テ數杯ヲ傾ク此時幸ニ薩ノ鳳翔丸碇泊セリ。
 鳳翔丸ハ本藩ノ殘士引揚ノ爲ニ來レル也廿日ニ出帆スベキナリシガ都合アリテ廿八日出帆ト延期シテ不慮ニ浪士ノ所用トナレリ。
端船數艘ヲ出シテ本船ニ投ズ此時砲臺碇泊ノ開陽丸(幕府ノ軍艦)鄢烟ヲ上クル見ル驚キテ本船ヲ發ス後出ノ一艘ハ本船
ニ達スル能ハズ還テ羽根田ニ着ス。
 此徒岩波、御篶、岩谷鬼三郎等數十人道ヲ相州大山ニ取リ、御殿場ニ出テ散亂ス、戸宮十郎、農兵ノ爲ニ砲撃セラレテ死ス、原三郎、小川香魚、松田正雄、立川衡平等本國川越ニ還リ領主ノ爲ニ追撃セラレ或ハ割腹シ或ハ斬首セラル。
翔丸ハ小軍艦ニシテ開陽ハ幕府最大軍艦也強弱比スベクモ非ズ觀音崎ニ至ルニ及テ開陽ハ我ヲ越エテハヤク艫頭ニアリ、逆ニ我ヲ砲撃ス我之レニ應ゼス貫射セラルヽコト二十餘發帆柱折レ機械損シ浸水甚シ今ヤ進退窮マレリ徒ラニ魚腹ニ葬ラレムヨリハ寧ロ開陽ニ乗移リ討死スルニシカズト徐々ト進行シ稍近クニ及ビ十分ノ度ヲ量リ發砲スル三回皆的中ス、伊牟田尚平舷ヲ叩テ躍踊ス開揚周章逃ゲ去ル。
 此時開揚ノ軍師ハ榎本釜二郎ナリシ、砲丸皆機關ニ的中セルヲ以テ引還セルナリト云フ。薩ノ軍師ハ伊牟田尚平ニシテ其運動悉ク同氏ノ指揮ニ出ツ。
船中砲丸ノ爲ニ宮林龜藏兩足ヲ失テ死ス此夜下田港ニ泊シ損所ヲ修繕ス、翌廿六日發船遠州灘ニカヽル鄢雲天ニ漲リ暴風浪ヲ揚ゲ危險甚シ、サナキダニ破船自由ナラサルニ此難ニ逢ヒ怱チ東南ニ吹流サレ八丈島鄢瀬川ノ近傍ニ漂フコト二晝夜、陸戰ニ有リテハ一夫百夫ニ當ラムト誇リシテ今ハ唯存亡ヲ天ニ任セテ云甲斐モナク皆船底ニ打倒レテ起ツ者ナキニ至ル。
此時開揚再ビ追跡スト雖モ其所在ヲ探求セズシテ還ルト云フ。
廿七日本船紀州尾鷲組九木浦ニ着ス、村民注連引き餅搗キ正月ヲ迎フ老若集テ云フ。此頃江戸ニ浪人騒動アリ、アナ恐ロシキ事共ナリ云々。ト誰カ此等ノ人物皆皆浪人ナリト知ラムト衆笑フ、落合直亮、伊牟田尚平、坂田三四郎ノ三名此所ヨ
リ陸路ヲ伊勢、大和ニ取リ晝夜兼行シテ上京ス。
慶應四年正月三日山城長池驛ニ着ス、此時既ニ伏見ノ戰争起ラムトス通行甚ダ苦ム道ヲ宇治ニ取リ稲荷山ヲ越エテ京ニ入ル。
四日直亮等、西郷吉之助ニ面シ關東ノ顛末ヲ演ス氏喜デ曰ク、予去月三十日二江戸薩邸ノ事件ヲ聞ケリ予ハ昨三日ノ戰争ハ遂ニハ起ルベシトハ推考セシカドモ此ノ如ク速カナラムトハ思ハザリキ然ルニ此戰争ヲ早メ徳川氏滅亡ノ端ヲ開キタルハ實ニ貴兄等ノ力ナリ感謝ニ堪ヘズト。
此時本船ハ藭戸ニ着セリト雖モ會藩ノ爲ニ擁撃セラレテ上陸スル能ハズト聞テ西郷ニ應援ヲ乞フ、兵寡シトテ應セズ。將滿等長藝二藩ノ應援ヲ得テ上陸スルヲ得タリ。
五日將滿上京ス、是ヨリ先キ去十二月中權田直助ハ江戸薩邸ヲ脱シ門人宮西諸助ヲ從ヘテ上京シ五條家ニ寄ル共ニ萬死ヲ免レテ彌々王政復古ノ時ニ逢ヘルヲ賀ス。
 薩邸事件ト同時ニ原田七郎同志ヲ募リ兵ヲ豊後ニ擧ケ日田陣屋ヲ屠ラムトシテ失敗シ七郎縛ニ就キ大阪ニ護送セラル船中幕吏七郎ヲ汽鑵ノ傍ニ繋キ焼キ殺スト云フ。七郎ハ小倉藩士原田重枝(本居門人かへしの風ノ作者)ノ弟ナリ長ク關東ニアリ直亮等ノ同志ナリ。

〜以下『薩邸事件畧記』抜粋略版〜

 小島将満(こじままさみつ)、落合直亮(おちあいなおあき)、権田直助(ごんだなおすけ)等は、同主義のために無二の親友なり。常に往来して朝家のすいたいを嘆き、幕府の専横、外夷のばっこを怒り、いかにして王政に復し、皇威を海外に輝かそうと、日夜苦慮するといえども、微力宿意をたっする機会がない。

 

 慶応3年8月薩土(薩摩藩土佐藩)の諸士、続々京都に馳せのぼり、国事に尽力すると聞いて、小島将満ただちに上京し、錦小路その他の公卿および薩土2藩に往来し、西郷吉之助(西郷隆盛)と結び、ついに江戸薩摩藩邸をもって、浪士の屯集所とすることになった。

 この周旋は薩摩藩士、伊牟田尚平、益満休之助の斡旋による。

 西郷氏のこの挙については、第一は幕府の施政を妨害してその怒りを買い、もって兵を挙げさせること。第一は関東を擾乱し、幕府をして内顧するところである。幕府軽率に西郷氏の策におちいりしは時なるかな。

 

 同年10月上旬、小島将満は京都より江戸に下向する。直亮、直助等と謀る所ありて、諸有志のやからをいんそつして、江戸芝三田の薩摩藩邸に屯集し、糾合方をもって本営にあて、その主領次の如し


 

総 監 小島四郎将満 (変名 相良総三)

副総監 落合源一郎直亮(変名 水原二郎)

大監察 権田直助   (変名 苅田積)

大監察 斎藤養斎   (変名 科野東一郎)

 総人数おおよそ500人出入り不定

 この時薩摩藩は、たいがい鹿児島に帰国、または上京して留まる者はわずかに留守居添役の関太郎ほか20〜30人にすぎず。貴重なる財貨はことごとく移し去り、わずかに数千金と、木石その他雑貨の運搬に不便なるものを残し、それを浪士の軍費にあてた。

 

−−浪士の関東周辺の撹乱作戦−−

 12月1日、浪士隊を甲斐国山梨県)に、1隊を下野国(栃木県)に、1隊を相模国(神奈川県)に派遣し、四辺を擾乱することにした。もし幕府歩兵を派遣するに及べばその虚に乗じて江戸城を葬らんとの計略なり。

 下野行きは竹内啓を隊長とし、西山謙之助を使番とし、奥田元等数人これに随従し、岩船山に大挙する。西山謙之助1僕を従えて栃木陣屋に派し、軍資をさいそくし、500金を得て帰る。そして渦巻川の閭門に至るに及びて八州取締渋谷和四郎、木村喜蔵等が、農兵を指揮して、謙之助を擁撃し従僕も殺した。謙之助は農兵と戦い数人を殺傷したが、ついに胸部を砲撃されて倒れる。実に12月11日なり。竹内啓、中田宿(茨城県古河市)に追捕せられて松戸宿(千葉県)に刎首せらる。

 

 甲府行きは上田修理をもって隊長として、数人出発する。八王子宿において幕府の間諜の原惣十郎と、駒野木駅(東京都八王子市)の農兵頭鈴木金平等のために、富田弥十郎、山田謙助等が妓楼千代佳にて謀殺された。上田新七郎、加藤隼人等は逃れて帰る。

 

 相模行きは坂田三四郎を隊長とし、結城四郎、岩谷鬼三郎等数人これに従う。12月16日大久保佐渡守の山中陣屋(荻野山中藩、厚木市)を攻撃し、弾薬軍資を奪掠する。この夜、下平井村久保田惣右衛門宅に宿泊し、帰途八王子を経て布田宿(東京都調布市)に至り、長山眞一郎が1歩遅れて八王子千人隊の和田光之極のために追捕せらる。17日浪士隊内藤新宿に泊して、暁に薩摩藩邸に入る。

 

−−江戸市中で大騒ぎする−−

 ある日、将満、直亮等浪士20名を率いて柳橋に遊ぶ、妓を招いて杯を傾く。酒酣にして傍若無人となり、剣の舞いをする者があり、妓は驚いて遁逃した。また、酒を飲む者が、船を命じて行々の水鳥を砲撃する。発砲は市中の禁制なるをもって、町同心共皆驚きて馳せ集まるといえども、恐れて近づかず遙かに尾して邸外に至る。

 

−−幕府御用達商人を襲う−−

 或る夜浪士数名を派して幕府の用途方の播磨屋新右衛門を襲う。この時数名の浪士が金吹町に至り、前後の町木戸を閉じて、まずその唐物店に侵入し、6連短銃を数十個奪い、播磨屋に突入した。

 一家恐怖して為す所を知らず、ここに番頭を呼びていわく、汝等常に幕府あるを知って、勤王の何ものたるを知らず、その罪は浅くなく、汝等前非を悔うならば勤王の陣営に軍資を献ずることと、番頭3拝9拝して承諾す。時に2童子あり穴蔵に案内して金1万余両を授く。

 

−−発砲と薩摩藩邸焼失−−

 12月23日夜浪士、町廻(江戸警備)の左衛門尉(奥羽国庄内藩)の屯所に発砲して、護兵と戦って、これを傷つける。

 25日朝、酒井左衛門尉諸藩士に指揮して薩摩藩邸を囲む。関太郎これに応接する。午前已時薩摩藩士が報して云う「応接破談におよびたれば、浪士の面々は、勝手に進退すべし」と、すなわち砲声4面に響く。

 浪士隊ざんじ応砲するといえども、衆寡敵せざるをもって、退去の策を定む。本藩の医師黒田某が、股に傷つき倒れ、直亮の裾を掴んでいわく、「速やかに首を刎ねよ」と、乞いて動かず、松田正雄を呼んでこれを斬る。首飛ぶ殆6尺衆これを見て奇とする。

 道を隣邸の阿波藩に借りて三田に出る。関太郎応接中に敵手に死す。機会を失って捕縛された者は、伊東武彦等わずかに数名のみ。

 

−−薩摩藩邸を脱出−−

 脱出した浪士全隊は、品川宿に至る。宿頭を放火し、追跡を防ぐ浪士中に品川の者がおり、「我が家なり放火するなかれ」と言う。他の者が「今日家があるも何かの縁」と、まずその家を火にする。衆手を拍て笑う。

 品川に碇泊中の薩摩船の鳳翔丸に乗り込むために、端船を数隻を出して鳳翔丸に乗船した。この時、品川砲台碇泊の開陽丸が黒煙を上げるのを見て驚き、鳳翔丸を発した。後出の端船1隻は、鳳翔丸に乗船するのをあきらめて還り、羽田に着す。

 鳳翔丸は小軍艦にして、開陽丸は幕府最大軍艦なり。強弱比較するまでもない。観音崎三浦半島の先端)に至るにおよびて、開陽は我を追い越して、はやく船首に回り、鳳翔丸を砲撃した。我これに応ぜす貫射されること20余発、帆柱折れ、機械損し、浸水はなはだし。今や進退窮まり、いたずらに魚腹に葬られるよりはむしろ開陽丸に乗り移り、討ち死にするしかないと、除々に進行して、やや近くにおよび、十分の度を量り、発砲する3回皆開陽丸に的中した。伊牟田尚平舷を叩きて躍躍する。開陽丸は周章逃げ去る。

 

−−京都へ−−

 鳳翔丸は下田で補修し、遠州灘で暴雨に巻き込まれて流され、29日紀州尾鷲に着く。落合直亮、伊牟田尚平、坂田三四郎の3名が、ここから陸路を伊勢、大和に向かい、昼夜を兼行して上京した。

 慶応4年1月3日山城長池宿に着く。この時すでに伏見の戦争が起こり、通行甚だ苦しく、道を宇治に取り、稲荷山を越えて京に入った。

 4日直亮等、西郷吉之助に面し、関東の顛末を報告する。西郷氏は喜んでいわく、「予、12月30日に江戸藩邸の事件を聞き、予は昨3日の戦争は、いつか起こるかと推考していたが、この如く速やになるとは思っていなかった。然るにこの戦争を早め、徳川氏滅亡の端を開いたのは、実に貴兄等の力なり感謝に堪えず」と言った。

 落合等を降ろした後に、海路大坂湾を目指した鳳翔丸は神戸に着き、5日小島将満がようやく上京した。