西郷隆盛の蓑田伝兵衛宛書簡

西郷隆盛の蓑田伝兵衛宛書簡です(慶応4年1月1日条)。

『江戸におひて諸方え浪士相起、動亂に及候趣に被相聞候間、必、諸方え義擧いたし候事かと被相察申候。京師におひても相響候趣と被相聞爰許にて壮士の者暴發不致様御達御座候得共、いまだ譯も不相分、何れを可正筋も無之、其内決て暴動は不致段御届申出置候儀に御座候。全體九日以来の處、大に舊幕の輩惡居候儀に御座候えば、早く江戸の浪士を倒し候策かと被相察候儀に御座候。百五十人計罷居候て決て暴擧いたす賦とは不相見得、京師の暴動に依り、如何様共可致との様子にて、乙名敷罷在候趣は近頃迄相聞得居候處、右等の恐有之、先をいたし候ものか、殘念千萬の次第に御座候。何分、細事不相分候付、委敷相分候はば又々可申上候』(『大西郷全集』『西郷南洲書簡集』)


「西郷書簡の特異性」
 平成15年9月24日に発行された『敬天愛人誌第21号』<(財)西郷南洲顕彰会発行>の中に、芳即正先生が「薩長同盟 〜久光と西郷」という文章をお書きになられています。
 芳先生は薩摩藩近代史研究の大家であられ、たくさんの幕末関係の著作をお書きになられている非常に著名な研究者ですので、一度はその著作をお読みになられた方も多いのではないでしょうか。
 芳先生は、この『敬天愛人誌』の「薩長同盟 〜久光と西郷」という文章の中で、西郷隆盛島津久光の関係を中心にして、薩長同盟の性格をお書きになられていますが、この文章中に、西郷隆盛、ひいては幕末の薩摩藩史を理解する上で、とても重要なポイントが書かれています。
 それは西郷隆盛の書簡(手紙)を読む上での留意点と言いますか、私なりの言葉で表現するならば「西郷書簡の特異性」という点です。
 西郷書簡の特異性というテーマについては、私が最も尊敬する歴史作家・海音寺潮五郎氏も、その著作の中で何度も書かれていることですが、西郷隆盛の書簡を読む上で、ある一つの重要な留意事項があるということです。それは、西郷隆盛大久保利通小松帯刀桂久武といった薩摩藩重役に宛てた書簡の多くは、一種の公文書的な意味合いを持つものが多いということです。特に、元治元(1864)年3月19日、遠島の罪を許されて沖永良部島から京都に呼び戻され、久光から「軍賦役兼諸藩応接掛」に任命されて以後の西郷隆盛の書簡は、その意味を十分に踏まえて読む必要があると思います。

 ここでまずは、芳先生の文章を抜粋する前に、海音寺潮五郎氏の文章を抜粋することにします。
 海音寺氏は、その著書『西郷隆盛』の中で次のように書かれています。


「とりわけ、両人の互いの書簡は准公文書のようなもので、ほとんど必ず久光の目に触れるのであるから、西郷もそのつもりで書いたはずである。だから、我々研究者としても、その目で読む必要がある。文字そのままに読んでは、西郷の真意に違うはずである」
海音寺潮五郎著『西郷隆盛』第六巻より抜粋)


 海音寺氏が書かれている「両人」とは、西郷と大久保のことを指しています。
 海音寺氏が書かれているように、当時の西郷が大久保ら薩摩藩重役に宛てた書簡類の多くは、その多くが一種の公文書として、薩摩藩重役そして藩主・忠義やその実父久光にまで回覧されて読まれていました。
 幕末当時は、当然テレビはおろか、新聞などもありませんし、情報が即座に全国規模に発信される時代ではありません。そのため、情報を得るためには、人の口づてに伝わってくる口伝を収集するか、書簡など人の手によって書かれたものを読んで知るか、これら選択肢の二つに一つしか無かったのです。そのため、西郷や大久保などが政治の中心舞台であった京都から国許の薩摩に送ってくる書簡は、とても重要な情報源であったため、それらは藩の上層部まで回覧されて読まれていました。
 一度は疑問に思われた方がおられるかもしれませんが、ある個人宛の書簡類が、なぜか現在では元藩主の書庫の中に現存していたり、書簡とはまったく関係のない、他の人物がそれを持っていたりするのは、こういった形で書簡が回覧されて回し読みされていたことを意味するものでもあるのです。

 元治元(1864)年3月、沖永良部島から帰ってきたばかりの西郷隆盛を理解するためには、当時の島津久光との関係を正確に理解しておかなければなりません。この両者の関係をなおざりにしていれば、西郷隆盛という人物の正確な評価は付けられないものであると私は感じています。
 西郷という人物は、久光から断罪されて遠島処分にまでされました。その遠島の内容も非常に過酷なもので、まさに「死ねよ」と言わんばかりの処遇を西郷は久光から受けました。
 非常に有名なものですが、ここに久光がどれほど西郷を憎んでいたのかを物語る史料を紹介したいと思います。それは、文久2(1862)年5月、久光が国許にいた家老の喜入摂津に宛てた書簡の一部分です。ここには、西郷の遠島処分について、次のように書かれています。


「一、大島一條大心配イタシ候於其地色々異説生候由定而心配之儀ト致遠察實ニ逆心之者ニテ死罪申付度程之事候得共一等死ヲ減シ一生不返之流罪ニ決シ申候尤當人口気讒口候哉ニ申候由彌以不届至極之事ニ候」
(日本史籍協会編『島津久光公実紀』第一巻より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「一、大島(西郷の変名)の一件のことについては非常に心配している。薩摩においては色々と異説(西郷を助けようとする動き)が生じていると聞いているので余計に心配している。大島は実に逆心の者であって、本来ならば死罪を申し付けるほどの者であるのだが、この度は死一等を減じて、一生返らざる流罪を申し付けることに決定した。にもかかわらず、当人は讒言によって罪に落とされたと申している由、いよいよもって誠に不届者である」


 これを読めば、久光の西郷に対する怒りがよく分かるのではないかと思います。
 こんな風に久光の怒りと恨みが非常に大きかったため、結局、西郷は、

「着島の上は囲いに召しこめ、昼夜あけざるよう、番人両名をつけおくべきこと。護送の際は必ず入牢のこと」

 という厳しい処分を受け、沖永良部島に遠島されたのです。
 このように西郷を憎みきっていた久光でしたから、元治元(1864)年3月、遠島処分を赦免され、着京した当時の西郷の立場は非常に微妙なものでした。
 全薩摩藩士の輿望により、赦免された西郷ではありましたが、まだ久光は西郷に対し、疑いの念を持ち続けていました。これは先程紹介した久光の怒りを考えれば無理からぬことであったと言えましょう。
 西郷自身もそんな久光の疑念を常に念頭に置きながら、そして久光に気を使いながら、元治元(1864)年3月以降は行動せざるを得なくなった現状を知る必要性があります。
 西郷隆盛と言うと、どうしても「明治維新の主役」として、派手に薩摩藩を切り回して活躍したかのような印象を持たれている方も多いとは思いますが、実際彼の政治活動に関して言えば、「何をするにおいても、久光の強い監視の元で」という大きな制約が付きまとっていました。西郷自身はその点を常に念頭に置いて、そして十分に久光に気を使いながら行動しなければならなかった苦労があったことを、この際に是非知って頂けたらと思っています。

 さて、ここで前述した西郷の書簡が久光など藩上層部に閲覧されていたことを窺える傍証を紹介しましょう。
 冒頭紹介した芳先生の「薩長同盟 〜久光と西郷」には、次のように書かれています。抜粋すると、以下の通りです。


「いずれにしても西郷が久光と離れて京阪地方にいる時は、必ずその経過・近況を鹿児島に報告する。その際の書状のあて先は大久保が主で、後には側役の蓑田伝兵衛・家老桂久武などにあてられている。そしてその時の書状には必ず「御両殿様益機嫌能く御座遊ばされ、恐悦の御議と存じ奉り候」とある。(中略)この句のある書状はその内容を久光らに報告される事を前提としていたと言える。そういう意味で一種の公文である」
(『敬天愛人誌第21号』所収、芳即正「薩長同盟 〜久光と西郷」より抜粋)


 つまり、西郷が書いた書簡の最初の部分に、

「両殿様(久光と忠義)におかれましては、益々ご機嫌うるわしゅう遊ばされ、恐悦至極に存じ奉ります」

 といった文言のある書簡は、全て久光の閲覧を前提にして書かれたものであるということです。
 芳先生の調べによりますと、こういった書簡は、元治元年14通、慶応元年5通、同二年7通、同三年5通あるということです。
 西郷が出した全ての書簡が現在残っているわけではないので、こういった書簡は他にももっとたくさんあったはずですから、久光が見た西郷の書簡は、これ以上に多かったと言えるのではないでしょうか。
 また、これは私自身の推測以外の何物でもありませんが、もしかすると久光は、西郷が送る書簡のほとんどを検閲するように命じていたかもしれません。つまり、久光としては、西郷が何を考え、そしてどう行動しようとしているのか、自分の意向を把握しているだろうか、もう暴走しないだろうか、といった心配や不安を常に持ち、西郷の行動や言動をチェックしようとしていたことも想像出来なくはありません。

 西郷の書いた書簡を熟読していると、久光の意向を非常に気遣う文言が多く出てくることに気付きます。また、西郷が書簡に書いた内容とは、実際は違う行動を取っていることも少なからずあります。
 これはどういったことを意味しているのでしょうか?
 私が推測するに、西郷は国許に送る手紙に関しては、久光の意向に従った型通りのことを書くことを前提に書簡を書いており、実はその本心が書簡に書かれていることとは違うことが多くあったということを暗に物語っているのではないかと思うのです。
 これは、西郷隆盛という人物を研究する上で、非常に重要なポイントになると思います。

 これまで書いてきた通り、元治元(1864)年以後の西郷隆盛の書簡を読むためには、このような留意点があり、そして大きな特異性があると言えましょう。
 そしてまた、西郷隆盛が手紙を書く上で、こういった手法をとっていたことが、西郷自身を理解する上で非常に重要になってくることを知って頂ければと思っています。