明治維新

西觶らが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画は頓挫した。薩摩藩内では、出兵反対の建白書が数多く提出されていた。国元の藩士は出兵反対で、西郷を支持する藩士は少なかった。では、薩摩藩の京都代表とも言うべき西郷が京都詰の藩士の間で支持されていたかというと、そうではなかつた。同じく猛反発を買っていたのである。京都詰藩士の意見も挙兵派と反対派に分かれており、反対派は西郷が挙兵するなら討ち果たす勢いであつた。上方への出兵は薩摩藩を滅亡に追い込むものとして、国元でも西郷刺殺を唱える藩士がいた。西郷は藩内から命を狙われるほどの苦しい立場に追い込まれていたのである。この事態に立ちいたった西郷らが打った手は倒幕の密勅の発給だ。十月八日、西郷や大久保たちの連名で武力倒幕を正当化するための宣旨の発給を、明治天皇の外祖父である前大納言の中山忠能議奏の正親町三條実に要請した。武カをもつて慶喜を討ち、慶喜に一味する京都守護職松平容保京都所司代松平定敬を打ち払うようにという趣旨の天皇の命令が薩摩•長州藩に下るよう求めたのである。西郷としては、この密勅により藩内の出兵反対論を抑え込み、茂久の率兵上京を実現しようと目論んだ。それほど西郷たちが追い込まれていたということでもある。十四日には、薩摩.長州藩主宛てに倒幕の密勅が下る。慶喜の討伐を両藩主に命じる内容となっていたが、容保定敬の討伐を命じた沙汰書も、中山たちの名前で同時に発給された。西郷たちが広島藩の軍艦に乗船して鹿児島に向かったのは、十九日のことである。倒幕の天皇を利用した密勅を携えて鹿児島に戻り、茂久の率兵上京で藩論をまとめる目算だった。ところが、西郷が鹿児島に戻る前に、武力をもつてでも打倒を目指した幕府は消滅していた。慶応三年十月十四日、慶喜が大政を奉還してしまつたのである。倒幕の名義が無くなってしまった西觶らは、またしても天皇を利用したクーデターを行い、強引に新政府を作った。

徳川氏は馬上にて天下を取ったのであるから、馬上にこれを復してこそ初めて数百年来の覇業を成すことが出来たのである。西觶らは、日本人の尊皇の心を利用して徳川を倒して天下を握った。だから、日本国内では、内乱が10年間も続くのであった。以後国内の矛盾をそらすために海外派兵をしながら、国を纏めて行くのである。無用な戦争を行いながら、明治・大正・昭和の敗戦まで続くのである。なかには、海外派兵を自衛の戦争であるといい議論もありますが、維新政府が出来てから、外国から武力攻撃を受けての地上戦は一度もありません。さらに明治以来どころか、日本は大昔元寇以後、外国から武力攻撃や侵略をうけたことはないのです。