公議政体

西郷たちによる主戦派のクーデターは成功したが、足並みは早くも乱れはじめていた。慶喜は暴発を避けるために、軍勢を大阪に入ってしまった。土佐藩は西郷の強引な手法には批判的で、朝廷から伏見の巡邏の命を下されたが、土佐藩広島藩は出兵を拒否した。さらに薩摩藩の主戦派主導による政変については、諸藩の間では批判がたいへん強かった。こうした批判を無視できなくなった。主戦派の岩倉も腰砕けになり、慶喜の新政府入りを容認するに至り、24日には慶喜の上洛が認められ、28日には慶喜の上洛後の議定就任が内定してした。三条も慶喜にたいして妥協的であった。このような状態の中で、薩摩藩の内部でも強行路線をひた走ってきた西郷らの主戦派への反発もあり、薩摩藩の体勢も公議政体論に傾いている。長州藩の木戸も「御国(長州藩)の弊は尾大の形」だから挙兵倒幕には慎重な態度をとるべきだと述べている。主戦派の西郷らは、倒幕の密勅を作り、薩摩の藩論を倒幕に傾け、さらにクーデターも起こして新政府をつくったが、大政奉還派や革命内部からも倒幕反対の慎重派によって後退させられた。この手詰まりから武力討幕派を救ったのは西郷の謀略であった。西郷は、かねてから江戸で戦争挑発の策動をはじめていた。西郷は益満休之助と伊牟田尚平のふたりを江戸に送りこんだでいた。慶応3年12月23日、その伊牟田尚平が江戸城に放火した。この徳川家の江戸城に放火して炎上させる破壊工作と市中取締に対して薩摩浪士たちの攻撃により、薩摩屋敷で戦いが起こった。西郷から急使が来て、その時の模様を、谷は次のように記している。西郷は京都でこの知らせを聞いたとき土佐の谷干城に、「これで開戦の口実ができもうした。急ぎ貴藩の乾〔板垣退助〕さんに知らせて下さらんか」と谷は「隈山詒謀録」に回想している。これにより薩摩藩の藩論も慎重論から倒幕に一気にまとまったのである。倒幕に反対していた薩摩藩士たちも、以後沈黙せざるを得なかった。西郷はこれを追い風に、鳥羽伏見の戦いに臨む。つまり、西郷はたんなる宮廷クーデターにとどまらず、倒幕戦争、すなわち内乱にまで突入させたのである。つまり西郷の謀略がなければ、旧幕府派との戦争は回避され、江戸侵攻も行われず、江戸の住民の50万人が逃げ出す混乱もなかった。近代化された海軍も温存されて、列強国がつけいる隙はなくなり、イギリス指導の薩長とちがい、広く列強との対等な国として運営ができた。諸藩が競った近代化政策より、日本中大いに近代化が進み、アメリカの資本より鉄道ができれば、思想的にも近代国の思想を吸収する場が自然に多くなり、維新政府が推進した臣民思想政策よりも近代化が進む。政体については、大政奉還と公議政体樹立を決意した慶喜は、顧問の西周憲法草案をつくらせています。その憲法草案は、慶喜の独裁を狙っておらず、アメリカ合衆国の連邦制のような三権分立と幅広い地方自治をうたっており、その将来には、各地方の国柄を活かした豊かな近代国家の姿も垣間見ることができる。
このとき、公議政体が樹立されていれば、天皇親政は行われず、象徴的な天皇の伝統は継承され、維新政府のように天皇の御名を利用して巧妙に政治責任を回避し、国民の権利を制限した上で近代化を強力に推し進めたようなこともなかった。つまり近代化に伴う自由民権の運動が大衆の政治的意識の革新をうながし始め民主的な自覚が芽生えると薩長政財閥を強化するために、国内的には人権尊重のごときは悪害と見て、警察力で弾圧した。だから、その国内的矛盾を常に国外に国民を向けさせねばならなかった。薩長政府の領土膨張政策はこのような要因があったからからだ。すでに近代化の芽は幕末から生じていたから、公議政体下でも緩急の差はあれ、近代化は進んだのである。

大政奉還と一体になる徳川の政権構想についての考察。
大政奉還  慶応3年10月14日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜天皇(朝廷)に政権返上をねがいでて、翌日天皇の許しをえた。江戸時代を通じて将軍は国の統治権をもち独裁的に政治をうごかしてきたが、討幕運動が進展するなかで幕府は政治の大権を朝廷にかえすことで討幕運動の出鼻をくじこうとした。大政とは国の政治をさす。
この年7月赤松小三郎の意見書で、公武合体論に立ち、内閣制・二院制というべきものを主張した。天子のもとに国政全般を統括する行政府の長置き、財政・軍事・外交・刑法・租税のそれぞれを司る宰相とする天朝のもとでの内閣制である。議政局は上下二局に分け、上局は諸侯・旗本から、下局は各藩から門閥貴賎にかかわらず人材を選挙で公平に選ぶ。議政局は立法に任にあたり、国事のすべては上下二局で決議した上で天朝へ建白し、その許可のもとで国中に命じるというものである。
9月には洋学者津田真道の「日本国総制度」の構想が幕府に提出された。津田案は、徳川氏に全国を管轄する総統府の長として軍事権をも把握させ、立法府は総政府と法制上下両院が分掌し、この両院を置くという徳川慶喜を中心とする全国政権構想であった。
また、松平乗謨が10月18日に提出した意見書で、その大要はつぎの通りである。
1. 全国および州郡に上下の議事院をつくる。全国の上院は、諸大名から10名入選し、下院の30名は、大小名より無差別に選ぶ。州郡の上院(10名9は大小名より出し、下院(30名)は藩士をふくめ広く人選する。人選は選挙による。
2. 国政はすべて上下院の議を経る。その決定事項には「主上」も異論をはさみえない。
3. 全国守護の兵を置く。そのため新しく海陸を設け、各地の要所に配置する。全国守護兵としての海陸軍仕官は、大小名・藩士から広く人選し、強勇で志ある者を選び、費用は諸大名・諸寺院の高三分の二をの納入させ、さらに商税等をふくめ広く一般から取り立てる。
上記の案は、朝廷と中央政府との関係があきらかでないが、要は各藩の私権を中央政府に納めて、軍事力もそこに集中し、国政はすべて議事院という議会の議を経て行う、というものである。
大政奉還の前日、つまり、10月13日、洋学者西周は、二条城に召し出され、慶喜に国家三権の分立やイギリスの議院の制度などを西に問い、西はそれらのあらましを述べた。そして、それを手記して翌日慶喜に提出した。
西の立案した構想は、「大君」制で、大君に慶喜がなり、大阪を拠点として、議会制の形をとりながら政治の実権は大君の慶喜に集中する。軍事的には当面は各藩がそれぞれもっているが、将来はすべて大君が把握する。一方、京都の天皇は政治にまったく無権利の状態におかれる。政治的にも経済的にも十分配慮されたものであった。