倒幕の密勅

この年十月四日、徳川慶喜大政奉還を決し、会津藩松平容保その英断を称揚して率先賛意を表し、十二日老中、大目付、目付を召して、このことを諮問す。大多数はこれに賛成せるも豊前、播磨、丹後は不満を表し、薩長藩士等の反乱を警告せりと聞く。

十四日奉還を上奏、十五日慶喜ならびに藩主容保召されて祖宗以来の労苦を慰労せられ、方今宇内の形勢を考察し、建白の趣旨を容れるも、爾後天下とともに同心尽力し、皇国を維持して宸襟を安んじ奉るべしとの詔勅を賜わりたり。しかるにいかなることぞ、その前日の十四日、ひそかに朝臣岩倉具視、薩州の士西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)等の謀議による慶喜公殺害、会津討伐の密勅と錦旗が薩長両藩にくだされ、その日付は十三日となりおれり。後世この詔勅と 錦旗の真偽のこと問題となりたるも、余はもちろんその真相を知らず。(柴五郎の遺書)

討幕の密勅にかかわる一連の行為、作成と交付と受諾の一連の行為は、共同謀議である。密勅が偽勅であれば、これの作成は犯罪である。これにかかわった者は、いわば共同正犯である。密勅の作成にともなって犯罪が生じた。犯罪が生じていることは、密勅にかかわった者の暗黙の了解である。密勅の作成という犯罪と、作成にまつわる秘密を共有することによって、うちにつよい凝集力をもつ集団が成立した。

作成にあたっては、中山忠能,正親町三条実愛,中御門経之そして岩倉具視が関与した。密勅の降下については、全くの秘密のなかで行われた。密勅降下に関わったのは、正親町三条実愛は後の明治24年岡谷繁実による維新当時の事績質問に答えて、薩長討幕派の4廷臣しか知らず、他の何人に対しても知らされていなかったと述べている。
討幕密勅の降下に力をつくしたのは大久保、西觶といった主として薩摩藩武力倒幕派であり、とくに大久保の力によるところが大きい。すなわち討幕派の廷臣中山忠能,正親町三条実愛,中御門経之らを岩倉具視を通じて動かすことによって種々のの画策を行った。

この請書に署名した者は、小松帯刀,西郷隆盛,大久保利通そして広沢真臣,福田,平品川弥ニ郎の六名である。

密勅の宛名は、薩摩藩島津久光,忠義の父子および長 州藩主毛利敬親,定広の父子である。その誰もが、共犯の意識から逃れることはできない。

密勅にかかわった廷臣も、この事実から逃れることはできない。武力討幕の戦略にしたがって、宮中政変の工作に参加せざるをえない。

密勅作成にかかわって生まれた集団は、きたるべき王政復古と武力討幕を推進する中核である。そのまた中心に、岩倉具視そして西郷隆盛,大久保利通がいた。討幕の密勅は、これによって誕生した集団のなかでの、岩倉、西郷、大久保の指導力を保証する文書でもあった。だが、一方では、慶喜を主体とする政権が生まれれば、この詔勅の真偽のことが問題となり、いずれは、この密勅作成にかかわって生まれた集団は排除される運命になる。この犯罪集団は、なにがなんでも討幕によって、慶喜を排除せねばならんかった。

参考

討幕の密勅 は、中山忠能,正親町三条実愛,中御門経之の三名が、 天皇の意向を うけたという形式になっている。王政復古が過去の事件となって、これによって生まれた国家 が強力な骨格をもちつつあった明治二十四年のこと、正親町三条実愛は質問に答え、中山 が名ばかりの参加であること、くわえて、密勅が秘密の裡に作成されたとを、次のように証言している。

問   討幕の勅書を薩長二藩に賜わりしは、如何なる次第に候や。

答   余と中御門との取計なり。

問   中山公の御名もあり、是は如何なる次第に候や。

答   中山故 一位は名ばかりの加名なり。 岩倉 が骨折なり。

問   右は二条摂政、または親王方にも御協議 ありしこと にや。

答   右は二条 にも親王方にも、少しも洩さず。極内のことにて、自分等三人と岩倉より 外、知るものなし。