薩摩藩焼き討ち事件について

>12月23日の薩摩藩焼き討ち事件について、その報告を受けた西郷が国許に送った報告には「いまだ譯も不相分、何れを可正筋も無之、其内決て暴動は不致段御届申出置候儀に御座候。全體九日以来の處、大に舊幕の輩惡居候儀に御座候えば、早く江戸の浪士を倒し候策かと被相察候儀に御座候。
 百五十人計罷居候て決て暴擧いたす賦とは不相見得、京師の暴動に依り、如何様共可致との様子にて、乙名敷罷在候趣は近頃迄相聞得居候處、右等の恐有之、先をいたし候ものか、殘念千萬の次第に御座候。」と驚きと困惑の文章が書かれている。
>上記の通り、在京の薩摩藩首脳は江戸に向けて活動停止を再三指示している。にもかかわらず、旧幕府が薩摩藩邸焼き討ちという事態が発生したんだから、「いまだ譯も不相分、何れを可正筋も無之、其内決て暴動は不致段御届申出置候儀に御座候」というのが西郷の正直な感想だ。


慶応3年12月28日、西郷から急使が来て、谷干城は西郷の下に駆けつけた。その時の模様を、谷は次のように記している。

「二十八日に至り西郷より急使来る。余直ちに行く。西觶莞爾として曰く、はじまりました、至急、乾君に御通じなされよ。」(谷干城遺稿59頁)
さらに次のように続けている。
「去二十五日、庄内、上の山の兵、三田の薩邸を砲撃して邸は已に灰燼と成り、兵端己に彼れより開く。寸時も猶予すベからず、と。」(同書、同頁)
西觶は、「此度は中々二十日や三十日にて始末の附く事あらず、ー刻も早く行かるべし」と答えている。
この時点で西郷は、鳥羽伏見の一戦だけでなく、本格的な戊辰戦争を想定していたのである。

「乾君」とは板垣退助で、「早く行かるべし」とは「土佐へ早く行かるべし」である。

慶応四年(一八六八)の正月元日、「(江戸の浪士は)百五十人ばかりまかり居り候て決して暴挙いたすつもりとは相見えず」(一月一日付蓑田伝兵衛宛書簡)と半信半疑ようにのんびりしたことをいっている。数日後に鳥羽伏 見の戦いが始まる形勢になって、西郷はやっと自分の策謀の大成功が呑み込めたような論がネット上見られるが、この時点では西觶は密使により江戸の状況を把握しており、鳥羽伏見の一戦だけでなく、本格的な戊辰戦争を想定していたのである。歴史上これほどうまくいった後方作戦は珍しい。1月4日、江戸から半死半生で戻った伊牟田尚平らが京都ニ本松の薩邸に西郷を訪ねた時は、「今日の伏見の戦争はまだニ、三ヶ月向であるつもりであったけれども、全く君らが江戸においての尽力によって昨年の十二月二十五日の事に及んで、今日の戦争が起こったわけで、始めて我輩の愉快な時を得た」(落合直亮談「史談会速記禄」)と大喜びで感謝している。西觶の江戸の攪乱は予想以上の効果を挙げ、鳥羽伏見の一戦を誘爆したのである。


>西郷の武力倒幕方針に、薩摩藩が諸手を挙げて賛意を示したわけではなかった。むしろ、その逆である。特に国元では、上方 における西郷の言動を非常に危険視した。

その頃の薩摩藩内の動向について、藩士の市来四郎が次のような貴重な証言を残している。市来は有能な藩士で明治に入って島津家の修史事業に携わった人物でもある。

当時藩庁に於ては、島津図書君国老上席にありて、桂右衛門と事を取れり伊地知壮之丞・奈良原幸五郎の一輩、西郷・大久保等と緩急の議を異にし、過激事を破り、累を島津家に及さんことを慮り、君に説き、西郷・大久保等の所為を不策として暗に謀る旨あり、これに左袒するもの川上助八郎・高橋五六・三島弥平衛の諸氏なりと伝う、桂独り西郷一輩の為に、百方これを防遏せり、(市来四郎君自叙伝)

国元では久光の次男島津図書と西郷の良き理解者である桂だけが西郷を支持していた。

大政奉還の決断に対して、倒幕の密勅を携えて西郷や大久保とともに国元に戻った小松帯刀土佐藩士の後藤象ニ郎に宛てた書状にも、以下の記述がある。

先月二十六日帰国、則修理大夫様・大隅守様へこの節の形行詳細申し上げ候ところ、御案外 の事にて、別て御大悦に御座候、実に天下挽回の時節に立ち至り、大隅守様には病中にて、修理大夫様直様御上京の御決着に相成り、明十三日御揚帆の御賦に御座候」(玉里島津家史料)

小松が茂久(修理大夫)と久光(大隅守)に大政奉還について説明したところ、想像もしていなかったことと非常に喜んだという。ただ、久光は病中にあったため、今回は藩主茂久自身が上京の途に就くことになった。このように、薩摩藩でさえ好意的に受けとられていたわけであるから、他藩に至ってはなおさらである。