吉井書簡

大政奉還後に「干戈を動かすに名なし。」よって隆盛、及び岩下方平は合い計り、 「江戸に於て、彼れが施政を妨げて,其の怒を買ひ、事を激せしめ、兵端を開かしむる若かず」と同藩士の「益滿休之助、伊牟田尚平等をして 東下せしめ、以て.事を謀る。」とある。

参考
慶応三年十月十四日、討幕の密勅は薩長芸の三藩に下れり。この日、たまたま、征夷大将軍徳川慶喜は、大政奉還の奏請を爲し、翌十五日、其の勅允を得たり。爱におい て、大事は、諸藩會同の公論を以て決し、日常の小事は議奏体奏兩役に於て取扱ふこととなり、また、倒幕の必耍を認めざるに至れり。況や、慶喜は、其の将軍職をも舉げて辞すたるをや。名義正しく順序合法にして、毫も非難すぺき点あるを見ず。然れども、徳川氏は猶其の大封を有し、兵衆を擁し、隱然として、天下の重きをなしたれば、公家には徳川氏と協議して、政務を處理し、大事は天下の公儀に従って処理せむとする党派あり。諸藩にも、亦.有力なる佐幕党多かり。岩倉具視、及び西鄉隆盛等おもへらく王政復古の實を舉げむには、必す、徳川氏を、其の根底より轉覆せざるぺからすと。乃ち、壓迫.また壓迫以て、徳川氏を激せり。當時、土佐藩が、目して、陰険なる政策となし、廟議に於て、大に公憤を発したしは事実なり。然れども,かかるさいには 、權變を耍とすることあり、正議公論のみを以て、事を處すぺきにあらざるを、如何にせむ。

徳川氏は、よく忍ぺり。遂に干戈を動かすに名なし。隆盛、及び岩下方平相議て、 舉ろ,江戸に於て、彼れが施政を妨げて,其の怒を買ひ、事を激せしめ、兵端を開かしむる若かず。且関東擾乱して、內顧するところあらしめ、有事の日には、關西軍 と、東西相呼應して、兵を舉げひと。乃ち、同藩の士益滿休之助、伊牟田尙平等をして 東下せしめ、以て.事を謀る。

薩摩の西郷隆盛大久保利通は、土佐藩大政奉還建白書提出運動と並行して慶応三年九月に「薩長芸出兵同盟」を締結し、京・大坂で兵を挙げると同時に江戸薩邸の浪士をもって関東を擾乱に陥れ、戦力を分断し幕軍の上洛を阻止したうえで御所を制圧する計画を立てています。西郷らは、徳川慶喜が言論だけで大政奉還の建白書を受理するはずがないと信じて疑わず、勅命をもって諸侯を軍事的に動員できる権限を持つ将軍職を慶喜から剥奪するつもりだった。

ちなみに坂本龍馬は、この薩長芸の挙兵に土佐藩をも呼応させようと奔走。

それはさておき、西郷らが薩邸浪士の取りまとめ役として、十月三日に伊牟田尚平、益満休之助を江戸へ下らせたことが、『桐野利秋中村半次郎)日記』に

・・・益満休之助外に弓田正平、今日より江戸へ差し立てられ候事、尤(もっと)も彼(か)の表において義挙賦(つも)りである。

と、あります。したがって、江戸の薩邸浪士らに対する西郷らの「関東を擾乱に陥れろ」という密命はあった。

ところが、慶応三年十月十四日に慶喜大政奉還を上表し、翌十五日に聴許されたものの、朝廷は返上された政権を運営すつことができず、諸侯の上洛をまってその合議によって今後の対応を決めたいという方針を示す。しかし、そうなっては再び慶喜に主導権を握られる恐れがあり、何事にも単独で決断できない朝廷の改革と慶喜の徹底排除のため、出兵計画を一挙に新政府を樹立するための政変のそれへと変更し、薩摩藩在京指導部の西郷・大久保・小松帯刀の三人が十七日に藩主の率兵上京を促すために国許へ帰り、後を託された吉井耕輔が二十五日付で江戸の伊牟田と益満に対し、

・・・ 在京鹿児島藩士吉井友實書ヲ在江戸藩士益満休之丞伊牟田尚平ニ贈リ大政奉還トナリ藩主島津忠義上京ノ朝命アリ小松清廉西郷隆永大久保利通等帰藩藩主島津忠義ヲ奉シテ更ニ出京スルニ決定セルヲ以テ江戸藩邸ノ諸士ヲシテ鎮静ヲ守ラシメ再命アル迄決擧スヘカラサル旨ヲ勧告ス・・・(『大日本維新史料稿本』)

と、擾乱計画をひとまず見合わせ鎮静しているように通達する手紙を送っている。大政奉還により情勢が変わり上方での挙兵が延期になっているのに、関東で浪士が騒動を起こしても意味がないと吉井らは武力倒幕に対して懐疑的になり、慎重論に変わる。

こののち、吉井は十一月十九日と王政復古政変後の十二月十日にも、江戸の伊牟田らに対し、鎮静しているよう書簡を認めています。

つまり、江戸薩邸浪士の騒動は、吉井からの「鎮静にしていよ」という通達を無視した暴発だったのであり、これを裏付けるのが、西郷が慶応四年一月一日付けで国許の蓑田伝兵衛に宛てた書簡にある

・・・江戸におひて諸方え浪士相起、動亂に及候趣に被相聞候間、必、諸方え義擧いたし候事かと被相察申候。京師におひても相響候趣と被相聞爰許にて壮士の者暴發不致様御達御座候得共、いまだ譯も不相分、何れを可正筋も無之、其内決て暴動は不致段御届申出置候儀に御座候。全體九日以来の處、大に舊幕の輩惡居候儀に御座候えば、早く江戸の浪士を倒し候策かと被相察候儀に御座候。百五十人計罷居候て決て暴擧いたす賦とは不相見得、京師の暴動に依り、如何様共可致との様子にて、乙名敷罷在候趣は近頃迄相聞得居候處、右等の恐有之、先をいたし候ものか、殘念千萬の次第に御座候。何分、細事不相分候付、委敷相分候はば又々可申上候・・・(『大西郷全集』)

西郷らが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画は薩摩の体制派により頓挫された。この事態に立ちいった西郷らが打った手は倒幕の密勅の発給だが、慶喜大政奉還によって、不発に終わる。少数派の西郷らが次に打って出たのが、天皇の外祖父中山忠能を動かした勅命による12月9日の王政復古のクーデターある。しかし、慶喜の反撃により、新政府の方針を後退させ、大政奉還派の勝利でおわる。革命内部からも慎重派によって討伐派の西觶らは窮地に陥る。西郷と大久保は、岩倉に「戦いをいどみ、死中に活をうけるのが、いま、もっともだいじなことである」と述べている。大久利通も「このままでは、すべてのことがくずれ、大変革もことごとく水の泡となってしまう」と、西郷は戦争を待望していた。薩摩藩の国元でも、在京薩摩藩でも武力討伐派は少なかった。それは、江戸の送った騒乱中止の書簡でもそれを示している。つまり、西郷にとっては、国元にとぼけた報告書を書くのは西郷の立場から見れば、あたりまえのことです。

吉井らの薩摩幹部と西郷らの武力倒幕派との違いがこの吉井書簡に表れている。

解説

西郷たちによる主戦派のクーデターは成功したが、足並みは早くも乱れはじめていたのである。慶喜は暴発を避けるために、軍勢を大阪に入ってしまった。土佐藩は西郷の強引な手法には批判的で、朝廷から伏見の巡邏の命を下されたが、土佐藩広島藩は出兵を拒否した。さらに薩摩藩の主戦派主導による政変については、諸藩の間では批判がたいへん強かった。こうした批判を無視できなくなった。主戦派の岩倉も腰砕けになり、慶喜の新政府入りを容認するに至り、24日には慶喜の上洛が認められ、28日には慶喜の上洛後の議定就任が内定してした。三条も慶喜にたいして妥協的であった。このような状態の中で、薩摩藩の内部でも強行路線をひた走ってきた西郷らの主戦派への反発もあり、薩摩藩の体勢も公議政体論に傾いている。それが吉井書簡に現れている。長州藩の木戸も「御国(長州藩)の弊は尾大の形」だから挙兵倒幕には慎重な態度をとるべきだと述べている。もともと少数派であった主戦派の西郷らは、倒幕の密勅を作り、薩摩の藩論を倒幕に傾け、さらにクーデターも起こして新政府を作った。しかし、最初の方針も岩倉の腰砕けより、大政奉還派や革命内部からも倒幕反対の慎重派によって後退させられた。西郷と大久保は、岩倉に「戦いをいどみ、死中に活をうけるのが、いま、もっともだいじなことである」と述べている。大久利通も「このままでは、すべてのことがくずれ、大変革もことごとく水の泡となってしまう」となげいる。このまま進むと、天下の広義によって、倒幕推進派の西郷と大久保らは新政府から排除される窮地に陥ることになる。つまり、下級武士層にとっては、武力倒幕なしには、つまるところ体制派によって政権を維持されるだけであって、いつまでたっても下級武士のままである。だから、下級武士層にとっては、なにがなんでも倒幕派の軍と旧幕府の軍の勝敗に帰するところに、自分達の活を見出すのである。下級武士層は失うものは命だけです。

この手詰まりから武力討幕派を救ったのは西郷の謀略であった。西郷は、かねてから大政奉還で開戦の口実を失うと、江戸で戦争挑発の策動をはじめていた。西郷は益満休之助と伊牟田尚平のふたりを江戸に送りこんだ。西郷が「伊牟田を連れて行け」と特別な支持があった。慶応3年12月23日、その伊牟田尚平が江戸城に放火した。この徳川家の江戸城に放火して炎上させる破壊工作と市中取締に対して薩摩浪士たちの攻撃により、薩摩屋敷で戦いが起こった。西郷から急使が来て、その時の模様を、谷は次のように記している。西觶は京都でこの知らせを聞いたとき土佐の谷干城に、「これで開戦の口実ができもうした。急ぎ貴藩の乾〔板垣退助〕さんに知らせて下さらんか」と谷は「隈山詒謀録」に回想している。これにより薩摩藩の藩論も慎重論から倒幕に一気にまとまったのである。倒幕に反対していた薩摩藩士たちも、以後沈黙せざるを得なかった。西郷はこれを追い風に、鳥羽伏見の戦いに臨む。つまり、西郷はたんなる宮廷クーデターにとどまらず、倒幕戦争、すなわち内乱にまで突入させたのである。

「一体此間突然思起しましたが、右鹿児島邸に集りましたの は其際に及んで出来たので御坐りますが、其集りました同志の申合せは一朝一夕の事では無くして、年来相往来し、相計って居りましたところの結果が、右の一挙に及びましたのでござりまして、其重もなる同志者は権田直助、小島四郎と申しましたもので、小島は後に相楽総蔵と変名しまして、下の諫訪で落命しました、是は少し長くなります から別に御話申しませう、此小島四郎は文久年間より屢々上京しまして堂上方の諸家に往来して、始終謀る所がありました趣で御坐りました、其中にも高野山に事を起して人を集められました鷲尾卿には余程御懇命を受けましたものと見へて、袴杯を拝領したことがあったさうです(中略)さて小島四郎は京都に於て西郷氏に屢々逢ひ事を謀りまして——既に此間も申しました益满休之助、伊牟田尚平との二人が参りまして人を集めし前よりして、此江戸に人を集めます事を計画して居りましたのは此小島四郎の一人で御座りまして、是は予て承知して居た様子でございました。」(「史談会速記録」15)

 また落合の手記によれば、浪士集団の総監が相楽、副総監が落合だった。立てた策についても、落合は次のように述べている(「薩邸事件略記」)。

「一隊を甲州に、一隊を野州(下野(しもつけ)国)に、一隊を相州(相模国)に派遣し、四辺を擾乱(じょうらん)せしむとす、もし幕府歩兵を派遣するに及ばば、その虚に乗じ江城(江戸城)を屠(ほうむ)らむとの略なり」

 実際に、伊牟田らは甲斐国甲府城乗っ取りや下野国の出流山(いづるさん)(現・栃木県栃木市)での挙兵、相模国愛甲郡(現・神奈川県厚木市)の荻野山中陣屋の襲撃などを次々と実行に移したが、いずれも失敗した。だが放火による江戸城破壊は成功した。これらの事件は11月下旬から12月中旬にかけて実行されている。市来四郎によれば三田屋敷の留守居役、添役、監察など責任者は俗吏の者を除いて有志の者を嵌め込んでおり、浪士隊が充分活動できるようできるだけ力を尽くしたと述べている。