一月一日付簑田あて西郷書簡について

江戸藩邸焼き討ちの件は、「昨夜、出羽秋田藩、高瀬権平、楠英三郎と申者、御留守居役方付役、遠武吉二方に申し出候は、両人之者共外に五人…田町御屋敷に潜匿いたし居り候處」(一月一日付簑田あて西郷書簡)という連中が、事件後脱走してもたらした情報だ。

慶応3年12月28日、西郷から急使が来て、谷干城は西郷の下に駆けつけた。その時の模様を、谷は次のように記している。

「二十八日に至り西郷より急使来る。余直ちに行く。西郷莞爾として曰く、はじまりました、至急、乾君に御通じなされよ。」(谷干城遺稿59頁)

さらに次のように続けている。
「去二十五日、庄内、上の山の兵、三田の薩邸を砲撃して邸は已に灰燼と成り、兵端己に彼れより開く。寸時も猶予すベからず、と。」(同書、同頁)

西郷は、「此度は中々二十日や三十日にて始末の附く事あらず、ー刻も早く行かるべし」と答えている。

この時点で西觶は、鳥羽伏見の一戦だけでなく、本格的な戊辰戦争を想定していたのである。

「乾君」とは板垣退助で、「早く行かるべし」とは「土佐へ早く行かるべし」である。

江戸藩邸焼き討ちの件は12月28日の時点で西觶は知っていた。よって「昨夜」「事件後脱走してもたらした情報だ」というのは、西郷のおとぼけだよ!
つまり、一月一日付簑田あて西郷書簡は、西郷のおとぼけのうえに書かれている。