西郷内閣の功績

西郷内閣の功績(明治4年〜6年)

西郷を首班とする留守内閣は、現在文明の基礎を成す諸施策を、次々と精力的に実行し、かつ外交面でも日清修好条約を成立させるなど、相当な成果を上げている。

この時代、多くの幕臣が起用され、政府の高官に付いた。勝海舟(海軍大輔)大久保一翁東京府知事山岡鉄舟(宮内侍従)大鳥圭介(大蔵小丞)等である。戊辰戦争の恭順はであった勝・大久保・山岡はともかく、最後まで抵抗して箱館戦争の責任者の榎本武揚などは、長州派は殺してしまえとの号令であったが、西郷の一諾で死刑を免れた。なお長州派の猛烈な反対を排して、西郷は恩讐を超えて榎本らに活躍の場を与えた。

この時代、旧幕臣も初めて自由にものが言えるようになり、うっせきした空気も次第にほぐれ、自由、改進の風潮が社会の傾向として、人々に浸透していたという。(福澤諭吉・時事大勢論)新聞・雑誌も相次いで創刊された。明治4年から5年にかけて創刊された新聞には、「日新真事誌」「新聞雑誌」「東京日日新聞」「郵便報知新聞」などがあり、地方では「大阪新聞」「京都新聞」「山梨日日新聞」「茨城新聞」「信飛新聞」「開花新聞」などがあった。
以上のように、西郷を首班とする留守内閣は、明らかに民主的・進歩的であった。その根底には国家社会は道義・仁愛をもって成立すべしとする西郷の理念があった。

西郷が一切の発想者出ないとしても、実に、維新政府の基礎的眼目たる諸制度と、新政策のため、大いなる推進の主役であったことは否めない。

廃藩置県
7月14日
廃藩置県は700年来の武家封建を一兵も動かさず一滴の血も流さずに、一朝に一掃されました。





宮中の改革

西郷は理想とする天皇が、如何にあるべきかを考えていた。それは天皇を雲の上に祭り上げてはいけない。君民の間にわだかまりがあってはいけない、まず天皇のお側に優秀な人材をつけなければいけない。
そこで、門地・門閥に問われず、むしろ草莽の中から、人間的に魅力に富んだ清廉で剛直の士を選んで、これを侍従に推薦することにした。かくて、米田虎雄(肥後出身。長岡監物の長男)島義勇備前)高島鞆之助(薩摩)山岡鉄舟幕臣)また、宮内少輔には吉井友実(薩摩)宮内大丞には村田新八(薩摩)が選任された。また、この機会に大奥の改革にも手をかけ、明治4年8月1日をもって、従来の女官を全て免職し、改めて品性や心の優しい人を専任した。
宮内少輔には吉井友実は、この改革を喜んで、その日記に「数百年来の女権、ただ一日に打ち消し、愉快かぎりなし。いよいよ皇運隆興の時節到来かと、秘かに恐悦に堪へざるなり」と記している。

学校制度の確立
廃藩のために従来の藩校は財政面からも維持できなくなった。そこで、これに代わるものが必要になって、新時代に必要な教育内容を盛り込むことになった。旧幕府時代は藩校もあれば私塾もあれば寺小屋もあった。しかしその規模は大小さまざま、学校に相当するものが様々あった。しかし、内容はまちまちで、レベルも違っていた。これを統一して不変的に誰でも教育を施すことが、学校制度の目的であった。その頃の国民の識字率は、男子は40パーセント、女子は10パーセント世界的に見ても教育の面から見ると後進国ではなかった。しかし新しい教育制度は、この高い教育土台を基礎にして、機会均等の理想に向かって義務教育を充実し徹底することを重点とした。
明治5年6月24日、太政官は文部省に対して、学生手順を示した。その中で「必ず村に不学の家無く、家に不学の人無からしめんことを期す」と言っている。
つまり、男女の区別なく、国民全てに義務教育を施す。子女を小学校に就学させるのは、父兄の義務であるとした。この指示に基づいて、8月2日、学制が公布された。全国を八大学区、各大学を三十二中学校区


警察制度

明治5年2月18日、西郷が東京府大惨事、黒田清綱に与えた書簡の中に「ポリス」「ポリス制度」という文字が出てくる。欧米のポリス制度を言語に用いてこの制度が創設された。帝都の治安が目的である。
最初ポリス3,000人のうち、2,000人を鹿児島に募り、1,000人を他の各府県位に募った。鹿児島の2,000人は鹿児島の事情で郷士から募った。城下士は軍隊に採用して、郷士をポリスに採用しバランスを考えたのが西郷であった。尚、昔から鹿児島では「オイ、オイ、コラ、コラ」は親しい者の間で呼び合う言葉である。同年、司法省警保寮が創設されると、警察権は同省に一括され、東京府邏卒も同省へ移管された。
薩摩藩出身の川路利良は新時代にふさわしい警察制度研究のため渡欧し、フランスの警察に倣った制度改革を建議した。司法省警保寮は内務省に移され、1874年に首都警察としての東京警視庁が設立された。

銀行制度創設
明治5年正月元旦、西郷から黒田清綱に会えた手紙に「バンク」すなわち銀行を設立するために、斡旋尽力してやった書簡があった。大久保や岩倉一行が外遊中に西郷は参議で同時に大蔵省ご用係として、大蔵省の事務監督をしていた。この時、東京府知事由利公正から上申書が出たが、東京府下に銀行を設立することを反対したのは大蔵省当局であった。つまり知事が心配しているようだから、うまくいったということをそっと耳打ちしておいてくれというのである。明治5年11月15日に国立銀行条例が公布された。西郷が主となり、熱心に設立許可を唱えて、日本最初の銀行が誕生したのである。

マリア・ルーズ号事件

1872年(明治5)7月のペルー船、マリア・ルーズ号による清(しん)の苦力(クーリー)売買に端を発した日本とペルーの紛争事件。同船は231名の苦力を輸送中、6月4日に修理のため横浜に入港。その際監禁されていた苦力が逃亡しイギリス軍艦に救助を求めた。イギリス公使からの通報に際し、司法卿(きょう)江藤新平、神奈川県令陸奥宗光は条約未締約国などの理由で外交問題化に反対した。
しかし外務卿副島種臣大臣三条実美に諮り、これを奴隷売買事件として外務省管下の裁判とすることを決定、大江卓(たく)を神奈川県令(のち権令)に任じ、特命裁判長とした。

ドイツなどの領事から、条約未締約国との交渉は領事団との商議事項であるとする抗議があったが、審理は未締約国裁判として各国領事立会いのもとに進められ、大江は船長ヘレイラを裁判所に召喚し、人身売買の疑いがあるとして苦力全員の釈放・本国送還を命令、船長は上海へ逃亡した。裁判の過程で日本の芸娼妓(げいしょうぎ)約定が奴隷契約であると批判されたために、政府は急遽(きゅうきょ)、「娼妓解放令」を布告した。その後、ペルー政府がこの判決を不服としたため、1875年、アメリカ公使デ・ロングの勧告で、もっとも両国に利害関係が薄いと考えられたロシア政府に仲裁裁判を依頼することとなったが、結局、日本の主張が認められた。 [滝澤民夫]『伊藤秀吉著『日本廃娼運動史』


地租改正
明治6年7月に地租改正を布告した。

陸軍創設

大政奉還のもと新政府は天皇親政の目指して権力の基盤たる兵権の掌握を図った。しかし、統一された軍備を整えるには資金や人材そして時間が足りなかった。そのため当初は長州藩薩摩藩などの諸藩の兵で間に合わせるしかなかった。

鳥羽・伏見の戦いに端を発する戊辰戦争は急速に拡大し新政府は直属の軍隊の編成を急ぎ、1868年(慶応4年1月17日)に軍務を担当する機関として海陸軍科を新設した。その後軍防事務局(慶応4年2月3日)、軍務官(慶応4年閏4月21日)、兵部省明治2年7月8日)と、次々に改称・編組が行なわれた。兵部卿小松宮彰仁親王が、兵部大輔に大村益次郎が任ぜられた。大村の在任期間は1年半と短かったが兵権確立について
海・陸軍省を建設すること
海・陸兵学寮を建築すること
陸軍屯所(兵営)を建築すること
銃砲火薬製造所を作ること
軍医病院を設立すること
以上5点を基本目標にし、非能率な官僚組織と野武士そのままであった藩兵を再編成することとなった。明治3年8月に欧米の軍事視察を終えた山県有朋西郷従道らが帰国し兵部省入りした後の同年10月に各藩ごとばらばらであった兵式をフランス陸軍式に統一し、改革を推し進めた。明治2年6月17日(新暦1869年7月25日)に版籍奉還されたが依然として各藩の勢力は侮りがたく、新政府はこれらに対抗し統制するために天皇直隷の軍隊を持つことを必要としていた。

明治3年2月、各藩の常備定員が定められ11月13日(新暦1871年1月3日)には徴兵規則が制定された。12月には常備兵編制法が設けられ各藩の兵制規格の統一を図った。明治4年2月13日に薩摩藩長州藩土佐藩の献兵約6,000名からなる御親兵が組織され、4月には東北地方に東山道鎮台(本営石巻)、九州に西海道鎮台(本営小倉)の2箇所に鎮台を置く事となった。

この御親兵と鎮台の常備兵力を背景に新政府は明治4年7月14日(新暦1871年8月29日)廃藩置県を断行し8月には懸案であった各藩の士族兵を解散させ、そのうちの志願者から(これを壮兵という)東京・大阪・鎮西・東北の4か所に新設される鎮台の員数に割り当てた。その後に兵部省内に陸軍部と海軍部が設けられ、兵制が大きく変化し新体制が整えられた明治4年が近代日本陸軍の始まりである。

明治5年11月に徴兵令が施行し兵役区分が明文化され、明治6年1月に発布し歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵ごとに常備軍部隊に編入され各鎮台に入営した。同じく1月には軍制改正がなされ、6個鎮台・6個軍管にし逐次定員を充足した。1872年(明治5年)2月に兵部省陸軍省海軍省に分離して新設され陸海軍中央機関が分立した。この時点を持って公用語呼称として海陸軍から陸海軍に改められ御親兵は近衛兵に改称し近衛局をおき、近衛都督は天皇直隷となった。