薩、長、土、芸四藩の観兵式

土佐藩兵を率いてこの観兵式に臨んだ谷干城の日記風の回想録から、当日の模様を見てみよう。

「二十七日に至り日御門〔建春門〕前に於て、薩、長、土、芸四藩の観兵式の天覧あり。流石に薩は、服装帽も皆一様にて英式に依り、大太鼓、小太鼓、笛等の楽隊を先頭に立て、正々堂々御前を運動せる、実に勇壮活潑、佐幕者をして胆を寒からしむ。薩に次ぐは長、長に次ぐは芸、而て我は唯二小隊のみ。服装亦一定せず兵式は旧来の蘭式なり。我輩軍事に関する者、遺憾に堪えざるなり。(中略)各藩歩兵のみなりしが、薩はー隊の砲兵最後を行軍せり。肥の如き盛大の観兵式は、余未だ曾て見ざる処なり。」(島内登志衛編「谷干城遺稿』上巻、五九頁。靖献社)

この観兵式の翌日、西郷から急使が来て、谷は西郷の下に駆けつけた。その時の模様を、谷は次のように記している。

「二十八日に至り西郷より急使来る。余直に行く。西郷莞爾として日く、はじまりました、至急乾 〔板垣退助〕君に御通じなされよ。」(同前書同卷、同頁)

谷は次のように続けている。

「去二十五日、庄内、上の山の兵、三田の〔薩摩〕藩邸を砲撃し、邸は已に灰燼と成り、兵端已に彼れより開く。寸時も猶予すべからず、と。」(同前書同卷、同頁)
谷に、西郷は、「此度は中々二十日や三十日にて始末の附く事にあらず、一刻も早く〔土佐へ〕行かるべし」、と答えている。この時点で西郷は、鳥羽•伏見の一戦だけではなく、本格的な戊辰戦争を想定していたのである。