薩摩藩邸を急襲

朝廷がわでは十二月十二日、西郷・大久保も参与として正式に政府の指導的地位につき、議定の公卿や大名、ことに岩倉及び上佐、越前、宇和島侯らにより、ついに 二十八日、辞官は「前内大臣」と称すること,納地は, 「政務的用途之儀は天下の公論を以御確定可被遊」として、当初の辞官納地の命令が徳川氏の土地人民の領有・支配を奪わんとしたのとは本質にことなる、たんなる辞官と宮廷経費の一部を分担する,しかもその分担の額や方法は事実上の大名会議(天下公論)で決定することとして、朝暮間の妥協が成立した。慶喜は朝廷の負担は全国の割高を以てせねば部下は納得しないと上申した。
大久保の下で薩州藩士寺島陶蔵(宗則)とイギリス公使館のサトウおよび薩摩にやとわれていたフランス人(公使館とは全く無関係)のモンブランが、協議してつくった天皇政権の成立と政府の対外基本方針とを列国に告げる書の案文では,許可し、列藩会議を起し、汝(外国灸使)に告ること
左の如し 一、朕国政を委任せる将軍職を廃するなり、一、大日本の総政治は、内外の諸事共に皆同盟列藩の会議を経て後,有司の奏する所を以て朕之を決す可し」とあった。長州藩の地位を恢復して満足感におそわれていた木戸孝允なども、この線でやって行けたら行きたいとするもののようで.諸隊らの強く武力討伐を要求するのをおさえていた。
しかるにそのころ江戸では,薩摩藩邸を根拠とする同芯士や浪士らの江戸及び周辺の治安攪乱,幕府への挑発いよいよはげしく,たまりかねた勘定奉行小栗上野らは,陸海軍士官と協識し、十二月二十五日,薩摩藩邸を急襲藩士益満休之助を捕獲し,藩邸を焼きはらった。この報は辞官納地の妥協成立と同じ二十八日に大阪に伝わった。つまり、新しい日本が始まろうとしたのに、西鄕が壊した張本人かも知れん。