大久保と西郷の意見書

憤怒の書状   越えて十八日、内府は大阪から、時事について左の書状〔注一〕を上がった。

慶喜、不肖の身をもって、従来無渝の寵恩を蒙り奉り、恐感悚戴の至りに堪え奉らず。及ばずながら夙夜寝食を安んぜず、苦心焦慮、宇内の形勢を熟察仕り、政権一途に出で万国と並立し、護国威相立ち候よう、広く天下の公議をつくし、不朽の御基本を相立てんとの微衷より、祖宗継承の政権を奉還し、同心協力、政律相立てたく、あまねく列藩の見込み相尋ねべき趣建言仕り、なお将軍職御辞退も申し上げ候ところ、お召しの諸侯上京し衆議相決し候まで、これまでの通り心得べき旨御沙汰につき、右参着の上、同心協力、天下の公議、与論を採り、大公至平の御規則相立てたく存じ奉り候外他念これなく、鄙衷空しからずと感戴仕り、日夕、企望罷りあり候ところ、あにはからんや、この度、慶喜へ顛末の御沙汰もなきのみならず、詰合(つめあ)いの列藩だにも御沙汰これなく、俄に一両藩、戎装(じゅうそう)をもって宮闕へ立ち入り、未曽有の大御変革を仰せ出だされ候由にて、先帝より御遺託あらせられ候摂政殿下を放廃し、旧眷の堂上方を故なく擯斥せられ、にわかに先帝が譴責の公卿数名を抜擢し、陪臣の輩みだりに帝坐近く徘徊し、数千年来の朝典を汚し、その余の御旨意柄かねがね仰せ出だされ候御沙汰の趣とは、ことごとく雲壌相反し、じつもって驚愕の至りに存じ奉り候。
たとえ聖断より出でさせられ候とも、忠諫し奉るべきはず、いわんや、当今幼冲の君にもあらせられ候折から、右ようの次第に立ち至り候ては、天下の乱階、万民の塗炭、眼前に迫り、かねがね建言仕り候素願も相立たず、金甌無欠(きんおうむけつ)の皇統もいかがあらせられ候やと恐痛し奉り、臣慶喜、自今の深憂、このことに御座候。
鄙言の趣、御聞受なしくだされ、かねて申し上げ候通り、公明正大、速やかに天下列藩の衆議をつくさせられ、正を挙げ、奸を退け、万世不朽の御規則相立て、上は宸襟を安んじ奉り、下は万民を安んじ候よう仕りたく、臣慶喜、千万懇願の至りに存じ奉り候。この段、謹んで奏聞仕り候。





 西郷らの建言     これよりさき、中山忠能正親町三条実愛の両卿は、朝議がなお徳川氏に依る形跡のあるのを不満として、大いに異議を唱えた。その時、岩倉具視朝臣はこのことを聞き、ひそかに薩摩藩西郷隆盛大久保利通、岩下万平等にその意見を問うた。
よって、三人は左の書を呈した。

今般、御英断をもって王政復古の御基礎を立てさせられたく御発令については、必らず一混乱を生じ候やも計りがたく存じ奉り候えども、二百余念太平の旧習に汚染仕り候人心に御座候えば、一度干戈を動かし候方が、かえって天下の耳目を一新し、中原を定められ候御盛挙と相成るべく候えば、戦を決し候て、死中に活を得候の御着眼、もっとも急務と存じ奉り候。
しかしながら、戦は好んでなすべからざることは、大条理に於て動かすべからざるものに御座あるべく候。しかるに、無事にして朝廷、上の御威力を貫徹し、太政官代三職【注二】の公論をもって太政を議せられ候日に至り候ては、戦よりもなお難しとすべし。古より創業、守成の難易、論定しがたく、俊傑の士においても、後世識者の評を免かれ申さず候。いわんや、衰頽の今日に於てをや。詳考、深慮、御発令の一令を御誤り相成らず候儀、第一の事に存ぜられ候。
ついては、徳川家御処置振りの一重事、大略の御内定を伺い奉り候ところ、尾、越をして直ちに反正、謝罪の道を立てさせ候よう御諭しをもって、周旋命ぜられ候儀、更に至当、寛大の御趣意と感服奉り候。
全体、皇国、今日の危に至り候こと、大罪は、幕に帰するは論をまたずして明らかなる次第にて、すでに先に、十三日云々御確断の秘物【注三】の御一条まで及ばせらるべく候御事に御座候。この末の論相起り候とも、諸侯に列し、官一等を降し【注四】、領地を返上し、闕下に罪を謝し奉り候場合に至らず候わでは、公論に相背き、天下の人心もとより承伏仕るべき道理御座なく候間、右の御内議は、断乎として寸分も御動揺あらせられず、尾、越の周旋、もし行なわれず候節は、朝廷寛大の御趣意を奉ぜず、公論に反し、真の反正たらざるもの顕然に候えば、早々朝命、断然右の通り御沙汰相成るべき儀と存じ奉り候。
右御議定より下りての御処置振りは、公論、条理の上に於て、さらに御座あるまじく、もし寛大の名をつけさせられ、御処置その当を失われ候えば、御初政に条理公論を破り相成り候筋にて、朝権相振るわざるは論ずるまでもこれなく、必らず昔日の大患を生じ候儀相違御座なく候。
もし御趣意通り、真の反正をもって御実行挙り、謝罪の道相立ち候上は、御顧慮なく御採用相成るべきはもちろんに御座候。前条御尋問に預り、当〔島津〕修理大夫の趣意を奉じ、評議の形行申し上げ奉り候。一点の私心をもって大事を論ずべからざるは、兼ねて現上し奉り候通りに候間、よろしく御熟考云々。





 慶勝、慶永の忠告     はたして二十六日(十二月)、徳川慶勝、慶永両卿が勅を奉じて大阪城に来り、内府に勅旨を伝えて上京を促し、また両卿の私言として、この際、第一に官位を鷁退(げきたい)し、領邑を削減して供御(くご)にたてまつることを奏請すべきを勧めた。
 内府は「官位鷁退のことは予も前からそのつもりであって、異存はないが、領邑の問題は、累代世臣を扶持している関係上、未だしばらくこれを削減するわけにはゆかない。その事情を、予みずから入朝して親しく申し上げよう」と言われたので、両卿はこれを諾し、さらに「公の入京の際には、なるべく儀従(ともまわり)の人数を省略し、少人数、軽装でゆかれるのが得策で、万一、警戒の必要があれば、尾張、越前の兵で防備しよう」と言った。  内府がそれを応諾したので、両卿は京師に引き返した。





 薩藩邸を攻撃     これよりさき、江戸市街と常、総、野の諸州に盗賊が横行【注五】し、民家を劫掠することが連夜絶えないので、民心は恟恟として、ほとんど安堵の心地なく、夜になると闃(げき)として道ゆく人が絶えるに至った。
 幕府は庄内藩主(酒井左衛門尉忠厚朝臣)に命じて、江戸市中の警邏に当らせ、きびしく盗賊を逮捕させた。
 この月二十二日、江戸本城の後閣〔二の丸〕から火が出て、ことごとく焼け落ちた。人心はますます驚動【注六】した。
 翌二十三日夜、賊徒の一隊が庄内藩の兵営を襲って、発砲した。庄内藩はこれに応戦し、互いに死傷者を出したが、賊は遂に敗れ奔って、芝三田の薩摩藩邸と佐土原藩邸に逃げ込んだ。庄内藩は、すぐさまこのことを老中に報じ、指揮を仰いだ。
 翌日、老中、旗下の歩兵隊と前橋、松山、鯖江、上山等の諸藩に命じて、庄内藩とともに、薩摩、佐土原の二邸を撃たせた。それぞれ斬獲したが、余賊は上山藩の隊を衝き、品川から舟で西方へ逃れた。
この戦役で、わが藩の三田藩邸と、薩摩屋敷とが隣接しているので、わが公の用人小森久太郎が兵を督して備え、薩摩藩留守居下役、益満休之助を捕え、諸藩が捕えた二十余人とともに江戸町奉行に連行した。





 慶喜公怒り上京を決意     越えて三十日(十二月)、この報が大阪に達した。内府はこれを聞いて、忿怒に堪えず、「薩摩藩がひそかに兇徒を使嗾し、関東をかき乱し、東西相応じて事を挙げようとしたに違いない。乱逆を企てるの罪は許すことができない」と、即夜、老中およびわが藩、桑名藩重臣と会見し、その罪状を具申し、典刑を正したい旨を奏請することに決議を定め、入京の部署を定めた。
 慶応四年戊辰正月朔日、徳川内府は、召勅に応じて上京することとなった。
 まず、わが藩と桑名藩に歩兵隊をつけて、前駆(さきがけ)とし、先発させ、高松、姫路、小浜、鳥羽などの諸藩の兵が これにつづき、翌二日に順次、鳥羽伏見に向った。さきに、尾張、越前の両侯から、少人数軽装で入京せられたいとの忠告があったが、その後、江戸において薩摩藩士の兇暴を耳にして、これを弾劾し、事と次第によっては決行も辞さないとの勢いで、衆を尽して、その途に就いたのであった。





 【注】

【一 左の書】 この上奏文は、大目付戸川安愛(伊豆守)が、若年寄戸田忠至(大和守)を経て、総裁熾仁親王に提出しようとしてたが、忠至は上奏文の文意が激しいのに驚き、ひそかに岩倉に示して指揮を求めた。岩倉は、もしこれが提出されれば、慶喜問罪の師が発せられるだろうとのべ、これを抑留したので、戸川はそのまま持ち帰り、実際には上奏されなかった。

【二 三職】 総裁・議定・参与をさす。

【三 十三日云々御確断の秘物】 十三日、岩倉は大久保をまねいて、二策を示し、諮問した。その一は、薩長の兵をもって天皇を擁護し、勅命を奉ぜぬものを討伐し、その成敗は天に任せること、その二は、しばらく尾州、越前二藩の周旋に任せ、慶喜がもし反正の実を示し辞官納地を奏請するなら、寛大の処置をもって議定職に補するというのであった。大久保・岩下・西郷の意見は、しばらくは第二の方策で進むというにあった。

【四 官一等を降ろし…】 慶応三年十二月九日、王政復古の令を出した朝議は、慶喜をして官位一等を下り、所領中二百万石を新政府費用として差し出すことを命ずるに決した。十二月十日、議定徳川慶勝尾州)と同松平慶永(越前)とは、二条城でこの朝旨を伝えたが、慶喜旧幕兵の動揺を恐れて、明答の猶予を願った。当時徳川氏にたいする同情は、土州藩をはじめ諸藩の間に強かった。そこで尾・越・十三藩は、慶喜より辞官納地を申請する代りに、議定職に補するという案をもって周旋した。この案は、注三に見るように、岩倉の提示する第二案で、西郷・大久保らも支持したものであった。その後も、旧幕側に反対論が強いため容易に成功しなかったが、十二月二十八日慶喜の請書をえることができた。しかしすでに二十五日には、江戸で幕府側は薩州藩邸を焼打ちするという事件がおこり、それは鳥羽伏見の戦へと波及するに至った。

【五 盗賊が横行】 横行した盗賊の中に、薩州藩討幕派が 計画した関東擾乱計画による者があった。西郷は武力行使の名目を作ることに腐心した。彼の命をうけた益満休之助・伊牟田尚平は江戸に下って、浪士を徴募した。この薩州藩邸屯集の五百人の浪士は、治安をみだす目的で、徒党を組んで乱暴をはたらいた。一部の者は、下野国流山で兵を募り、また他の一部は、相模国萩野山中藩の陣営を襲うなど、関東各地で蜂起、放火、略奪が相次いだ。

【六 人心はますます驚動】 江戸城二の丸焼失については、薩州藩士天璋院を奪おうとして放火したとか、大奥の女中が薩州藩士に通じて放火したとかの噂が流れた。旧幕府内では、勘定奉行小栗忠順(上野介)ら強硬派は、薩州藩邸を攻撃して、策動の根源を絶つべきだと主張した。