江戸薩摩屋敷焼失事件の真相

(落合直亮氏の口述)
「一体此間突然思起しましたが、右鹿児島邸に集りましたの は其際に及んで出来たので御坐りますが、其集りました同志の申合せは一朝一夕の事では無くして、年来相往来し、相計って居りましたところの結果が、右の一挙に及びましたのでござりまして、其重もなる同志者は権田直助、小島四郎と申しましたもので、小島は後に相楽総蔵と変名しまして、下の諫訪で落命しました、是は少し長くなります から別に御話申しませう、此小島四郎は文久年間より度々上京しまして堂上方の諸家に往来して、始終謀る所がありました趣で御坐りました、其中にも高野山に事を起して人を集められました鷲尾卿には余程御懇命を受けましたものと見へて、袴杯を拝領したことがあったさうです(中略)さて小島四郎は京都に於て西郷氏に度々逢ひ事を謀りましてーー既に此間も申しました益満休之助、伊牟田尚平との二人が参りまして人を集めし前よりして、此江戸に人を集めます事を計画して居りましたのは此小島四郎の一人で御座りまして、是は予て承知して居た様子でございました。」

(市来四郎)
「先日も御話申しましたが討幕の詔を丁卯十月十三日京都に 於て密奉して居ります、其時は毛利家と一緒でありますが、毛利家は 何日と云ふことを知りませぬが、島津家の方へは十月十三日であったさうです、それは今に保存してあります、さういふことまで運んで居 りますけれども幕府を討つと云ふ名義がないから西郷大久保等は名義の出るのに苦しんださうです(中略)夫れから討幕の名義が出来なければいけないと云ふことになって十一月の半ばころであったと云ふことで、日は能く分りませぬが一日、西郷が木屋に益满を呼んでお前江戸に行って呉れ、予てお前は同志の仲間も広いから、江戸に出て浪士等と雑せ返して来い、さうすれば必ず兵を向けるであらう、其時は出たり、隠れたりして充分に雑せ返して呉れ、其揚句には抵抗して来いと云ふことを申し聞かせたさうです、そこで益满は得意の事であるから喜んで受合ひ、伊牟田等を連れて江戸に出、浪士を集むることになりました、長州よりも二三人来られたと云ふことである、其名は分りませぬ、其時西郷が云ふには長州の人 は気が利いて居るから斯ふ云ふ事には先に手を出さぬ、お前一手に任すから——伊牟田を連れて行けと申したそうです、さう仕やうと云って、今日、直ぐ立てと金などはちやんとそこで渡す様にしてあって、そこで其の日の晚方立ちませうと云って(中略)
其晚に三条の或る旅店で別杯が始まりました、そこで西郷、大久保と別杯した様子で、其の時益满の友達の平野と申す者は其前にこちらに一所に居た者でござ ります、私が育てたものにござります、それも別杯に行ったさうです、是非連れて行けと迫ったさうですけれども、今度はさうは行かぬ、兎角始まるであろうと云って連れて行かなかったさうです」

幕府軍の挑発に成功した将満は同志とともに薩摩藩邸を脱出し、薩摩藩軍艦で京都への道をたどります。京都薩摩邸において西郷と面会した時

(落合直亮氏の口述)
「其夜はそこ(東山紙園町の揚屋)で夜を明かしました、翌朝に なると賊軍より仏蘭西軍隊を雇ひ、官軍大いに敗走したと云ふ聞えが あると承り、こは死ぬべき時と決心して三人打揃ひ宿を出で、五条橋を過て竹田街道に向って行きますと伊牟田氏の知己なる同藩士の来るのに出逢ひ、戦争の模様を聞きますとの事で、其時西郷氏の話されますには、今日の伏見の戦争はまだ二三ヶ月向である積りであったけれども、全く君等が江戸に於ての尽力に依って、昨年の十二月二十五日の事に及で、今日の戦 争が起った訳で、始めて我輩の愉快な時を得た、是よりしては我輩が 引受けて君等には御苦労をかけぬから、此末の成行はどうなるものか見物されて欲い、ゆっくり話を為たいけれども人数を繰出したり、弟が怪我をして来たり、彼是其手当をもせねばならず、寸暇を得ぬから、此よりゆっくり休まる様にと云ふ事でござりました、併し計画は予てあられたと見えますけれども二十日《二十五日の間違い》江戸邸の焼擊の為に此の伏見の戦端はひらけましたのでありますと云はれて、大層喜ばれてござりましたが、此の二十五日の事は予て配って置いた探索方の手元より 二十八日に通知がありました、三十日には江戸の閣老より大阪の将軍家に出した届書の写が手に入って、是は事に成るわいと思って心構へして居ると昨日より今日の事になったのであると云はれました事でありました。(史談会速記録)

(権田直助翁 神崎四郎著昭和12年6月)
王政復古大号令の下った夜、宮中小御所に於て、王政復古に伴う将来の政治方針が討議せられた。その折も薩摩藩の主戦派はあくまで自己の主張を進言したのである。
殊に西郷隆盛の如きは、この当時江戸に於て関東の浮浪人を公然と募集していた程であった。これは関東を擾乱して内顧するところあらしめ、有事の日には関西軍と東西呼応して兵を挙げんとする準備であった。
従った者は薩摩留守居役篠崎彦五郎、益満休之丞及び伊牟田尚平等であった。(中略)この薩摩屋敷の頭取(浪人隊の責任者)は相良総三(小島将満)、副将格、水原一郎(落合直亮)、大監察、刈田積穂(権田直助)が居られ、浪人の牛耳を執った。(中略)この糾合方を組織した主なる人は小鳥、 落合、権田、小川(節斉)伊牟田、益満の六人である。
翁がこの糾合方の大任を委任された経緯は外でもない。関東の地理、人情に精通した上に手腕の点から言っても申分なく、又志士の間に徳望者として認められていた翁のことであるから、この大任を達て委託されて活動を開始したのであった。
たのも蓋し当然のことであった。続己亥叢説に戴する井上�權囫翁の談に よると、権田先生を薩摩の屋敷に引込んだり、何かしたのは落合がやったことだと述べて居られるが、事実、落合氏が翁の許に来て、国家の為にこの浪士相手の運動につき十分尽力さるるよう願ったのであった。
翁はかつて京都に滞在せらるる時も、決して破壊運動には加っていないばかりか、この方面への運動は避けて主として精神方面の運動に日を送られたものであった。(中略)
此のよう事を関東に起そうとする計画に就き翁がこれを委託されるに 就いては、その初め西郷、岩下等の薩藩の人々と謀議したとき、西郷隆盛は多数の兵員を派遣するから十分各所に活動せられたいとのことであったから、翁も落合も小鳥もそのつもりで計画を立て、四方に兵を出して活動を開始したのであった。
併し形勢は切迫し、僅かの兵数では到底目星しい活動は出来ないばかりか、時によっては撃滅される恐れがある。

翁は約束した兵を送らぬ為め、詮方なく密かに薩邸を脱して慶応三年 十二月二十日、宮西諸助を従者として路を木曽街道に取り、中津川にて 宮西を返し、単身京都に上り、岩下方平と兵員派遣について種々の打合 をなし周旋せられたのである。(中略)
ところが翁の奔走中、即ち同月二十二日江戸城西丸に火災があった。これも浪人の所為であると言われ、二十四日芝赤羽の庄内藩巡邏所の屯所に発砲したものがある。此のニ件は特に幕兵を刺戟し、庄内藩家老、 松平権十�欖は閣老水野和泉守から内諾を得、二十五日の天明を期して銃隊百五十人、新徴組三百人を以て薩邸を包囲した。(中略)
当時、薩摩藩の人々は京都に上り、江戸には篠崎彦次郎以下五十数名 であったと言ゎれ、糾合方の人々も、関東各地に分散して藩邸に残る者 は極めて少ない。依って死力を尽して戦ったが攻勢に出ることは出来なかった。
伊牟田尚平、小島将满、落合直亮の志士、並に浪士六十余名は脱出す ることに決し、邸外に突出して包囲の一角を崩し、品川に走り、碇泊中 の薩藩船翔鳳丸に投じて西走し、蒋艦は之を砲擊したけれども及ばず、遂に海上遙かに落ち延びたのである。(中略)
ところで翁はこの騒動がかくも早く起ろうとは知らず、十二月二十八 日岩下方平氏を訪れたところ、岩下氏は翁に向って十二月二十二日の払暁に幕兵が江戸の薩邸を砲擊した、これで、いよいよ戦争の運びに立ち至ったのである。これは全く貴君の御尽力に因ることであるとわれた。これを聞いた翁は驚き、それは一体何方から聞かれたかと尋ねるや、岩下氏はそれは我が藩より予ねて入れ膜いた問諜よりの密報であると言われ、そこで翁も手をうって、その画策が適中したのを悦ばれた。又西郷隆盛に而会された時にも、西郷は懇ろに翁を労って、貴君の御 尽力によって事の成就は近き中にあろう、と言われたと云うことである。(史談会速記録)

上記は史談会の応答を速記した記録で、明治25年9月9日の第一輯から昭和13年4月15日の第41輯に至るまで、幕末の動乱の体験者たちの貴重な談話が載せられている。聞き取り調査を実施した史談会は、幕末・維新の歴史資料を収集することを目的とした団体で、宮内省に事務所を置いた団体です。

一月四日、江戸から半死半生で戻った伊牟田尚平らが京都二本松の薩邸に西�歐を訪ねた時は、「今日の伏見の戦争はまだ二、三ヶ月向であるつもりであったけれども、全く君らが江戸においての尽力によって昨年の十二月二十五日の事に及んで、今日の戦争が起こったわけで、始めて我輩の愉快な時を得た」(落合直亮談『史談会速記禄』第十二輯)と大喜びで感謝している。薩邸焼打ちは予想以上の効果を挙げ、鳥羽伏見の一戦を誘爆したのである