西郷の幕末の立場

>>西觶らは、日本人の尊皇の心を利用して徳川を倒して天下を握った。だから、日本国内では、内乱が10年間も続くのであった。以後国内の矛盾をそらすために海外派兵をしながら、国を纏めて行くのである。無用な戦争を行いながら、明治・大正・昭和の敗戦まで続くのである。

> いかにも、粗雑な思いつきだね。w

幕府の外交は、現実的で、合理的でもあった。国際的環境と日本経済の成熟がベースになり、斬新的な幕府外交によって、日本社会に開国が定着したのであった。一方維新政府の外交論は、「皇統綿々」「万世一系」の非合理な神国思想と大国主義であり、「黒土」(焼け野原)となることも辞さないとう冒険的であった。実際彼らの権威だけでは、国をまとめることができなかったので、対外戦争を繰り返すことになる。それに国際社会の荒波に乗り出したからには避けることのできない暴風に見舞われ、危機に臨むごとに、近代精神に逆行して、最後には天皇を神様に祭りあげてしまいます。人権尊重のごときを「止むをえざる害悪」としかみない警察政治を頼りにする政治は日本の敗戦まで続いた。

>まず「西郷のおとぼけ」なんて、全く理由がみあたらない。

西觶らが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画は薩摩の体制派により頓挫された。この事態に立ちいった西郷らが打った手は倒幕の密勅の発給だが、慶喜大政奉還によって、不発に終わる。少数派の西觶らが次に打って出たのが、天皇の外祖父中山忠能を動かした勅命による12月9日の王政復古のクーデターある。しかし、慶喜の反撃により、新政府の方針を後退させ、大政奉還派の勝利でおわる。革命内部からも慎重派によって討伐派の西觶らは窮地に陥る。西觶と大久保は、岩倉に「戦いをいどみ、死中に活をうけるのが、いま、もっともだいじなことである」と述べている。大久利通も「このままでは、すべてのことがくずれ、大変革もことごとく水の泡となってしまう」と、西郷は戦争を待望していた。薩摩藩の国元でも、在京薩摩藩でも武力討伐派は少なかった。それは、江戸の送った騒乱中止の書簡でもそれを示している。つまり、西郷にとっては、国元にとぼけた報告書を書くのは西郷の立場から見れば、あたりまえのことです。
武力討伐派西郷らの手詰まりを救ったのが、西觶が江戸に送りこんでいた益満休之助と伊牟田尚平のふたりによる江戸城破壊工作です。