西郷 蓑田伝兵衛への書慶応三年十二月十一日

【蓑田伝兵衛への書】
慶応三年十二月十一日

 尚々会桑引払い候へば、忽(たちまち)鎮火の模様に御座候。両日中には帰国の説御座候得共、いまだ慥成義(たしかなるぎ)相分からず御座候。

去る八日、容堂侯御出京相成候故、御発表の義も九日に相変わり候処、長防御所置の義相発し、八日朝議相始まり九日卯の国(午前6時)には退朝之無く候故、御施行相調わず候処、一時の勢いにては瓦解の模様に御座候処、五ツ(午前8時)時分より二条殿下御帰殿相成り候に付、夫より追々御引き取り御座候故、速やかに人数繰込み、御所相固め、尾、越、芸侯には八日より御参内中にて、早、尾州勢には晩七ッ(ここは暁七ツ時分とありたき所 御前4時)時分より繰出し候時機にて御座候処、早刻限を失し、其の上一同参内中に候故、物議相起こり候由にて、又々敗れそうな勢いも相見え候えども、是以て格別の事には至らず、大幸此の事に御座候。

其節、彼より早く固付られ候へば致方なき処にて、危うき場合に御座候へども、守返(もりかえ)し好機会と相成り、俄かに薩兵を以て固め候処、些(すこし)も動かれず、会津桑名の兵も一時は業転の様子、前以ては会、桑より暴発致すとの説喧敷(かしまし)き事にて御座候へども、其の時に臨み候処、案外気おくれ致し、早々人数を引きまとめ、二条城に両藩とも引きこみ候事に御座候。

長兵も西之宮迄出懸け居り候処、八日夕景、官位復され、入洛御免、五卿方も同様の趣に仰せ出でられ候に付、西宮を発し、九日には粟生光明寺に陣取りいたし罷(まか)り在り候処、早々入京仰せ出でられ、九門警衛の命も下り、十日版より十一日に掛け六百人ばかりは入込み相成り候次第に御座候。

其の外勤王の兵追々出来、勢い盛大に罷成り申し候。

只今は会桑の両藩限りにて、外は傍観の姿に御座候。今日迄は違変の義御座無く候へども、いまだ全鎮定の訳にも到らぬ時期に御座候。

尾、越の両藩至極の周旋に御座候故、多くは静まりそうな模様に御座候。幕府の処も大樹は反正と申す事、然り乍(ながら)、下の者沸騰にて、鎮定六ケ敷く(むつかしく)申し立てられ候へども、是以て虚実は慥(たしかむる)に相分からず候。

朝廷においても三職を廃され、又太政官代の三職を設けられ候て、別紙の通り仰せ出でられ候儀に御座候。例の通り堂上の恐怖には込入(こまりい)り申し候。

両三日には形勢相定まり申すべく候に付、直様平運丸出帆の賦に御座候へども、其の内町便差し立てられ候故、大略申上げ越候。恐々謹言。

     十二月十一日夜認  西 郷 吉 之 助  

   蓑 田 伝 兵 衛 様


此書は王政復古の大号令煥発以来、十一日に至るまでの形勢を鹿児島に報知したるものである。

前にも述べし如く、蓑田は御側役にて久光に近侍せし故、久光へ言上すすべ蓑田に宛て報知せしたり。此前後蓑田宛の書翰多くは然りとす。

 隆盛は彼の未曾有の大改革、新旧日本の移りかわった経過を如何に報じているか。先ず土佐老侯容堂の出京が八日になりしため、大号令御発表は九日に変更されたので、八日朝廷に於ては、二條摂政の召集されし宮家堂上、及び諸侯を合せた会議が始まり、九日の午前六時まで徹宵会議があり退朝なかりし故、予め大改革の発令を九日午前六時と定めおかれしに、其の事調(ととの)わず、一時は瓦解かと気遣いしに、午前八時より二條摂政退朝あり、それより、他の堂上も追々引取られし故、速やかに薩兵を出して宮門を固めさせた。

尾、越、芸三侯には八日より参内、右の朝議に列せられていたが、其の日宮門警衛の命を受けていた尾州兵が時刻を誤り午前四時より繰出して会議中の摂政以下の人々を驚かしたが、格別の事なくすんだのは大幸であった。

若(もし)其の節幕府側より、早く宮門を固めつけられたならば危いところであった。此の事で一時は危ぶんだが、形勢を盛りかえして、薩兵を以て固めつけしにちっとも動揺せず、会津、桑名の兵も一時は仰天の様子であった。といい、それより会、桑二藩兵の二條城に入りし事、長兵の入京、直ちに宮門警衛の任につきしことを叙している。

 此に「十日晩より十一日にかけ六百人許りは入込相成」 
とあるは長兵の入京が九日のは先鋒で、十日、十一日と段々に到着したものと見るべきである。

次に此度の挙に反対し、薩長以下王政復古派に敵対するものは会、桑両藩のみで、外は傍観の姿とある。それも尾、越必死の尽力で鎮静に至るかも知れぬ。幕府でも将軍慶喜は反正の様子なれども、旗下沸騰鎮定六ケ敷いようであるとある。

次に朝廷新政府の職員等別紙の通り仰せ出されたとある。別紙は今日では能く分からぬが、恐らく当日発布になった諸達しであろう。