京都薩摩邸において西郷と面会

市来の言によれば三田屋敷の留守居役、添役、監察など貴任者 は俗吏の者を除けて有志の者(尊王討幕の賛成者か)を嵌め込んであり、浪士隊が充分活動できるよぅできるだけ力を尽したとのべている。京都薩摩邸において西郷と面会した様子である。

落合君 其夜はそこ(東山祇園町揚屋)で夜を明かしました、翌朝になると賊軍より仏蘭西軍隊を雇ひ、官軍大いに敗走したと云ふ聞えがあると承り、こは死ぬべき時と決心して三人打揃ひ宿を出で、五条橋 を過て竹田街道に向って行きますと伊牟田氏の知己なる同藩士の来るのに出逢ひ、戦争の模様を聞きますと、官軍は益々大勝利なりとの事なり、爰に於て|釔心し、夫より引かへして鹿児島の大閣屋敷に参って、其時始めて西郷氏に逢ひましたのでござりますが、先ず此時は慶応四年正月四日の事で、其時西郷氏の話されますには、今日の伏見の 戰争はまだ二三ヶ月向である積りであったけれども、全く君等が江戸に於ての尽力に依って、昨年の十二月二十五日の事に及で、今日の戦争が起った訳で、始めて我輩の愉快な時を得た、是よりしては我辈が引受けて君等には御苦労をかけぬから、此末の成行はどうなるものか、見物されて欲い、ゆっくり話を為たいけれども人数を繰出したり、弟が怪我をして来たり、彼是其手当をもせねばならず、寸暇を得ぬから、此よりゆっくり休まる、様にと云ふ事でござりました、併し計画は予てあられたと見えますけれども二十日(25日)江戸邸の焼撃の為に此の伏見の戦端はひらけましたのでありますと云はれて、大層喜ばれてござりましたが、此の二十五日の事は予て配って置いた探索方の手元より 二十八日に通知がありました、三十日には江戸の閣老より大阪の将軍 家に出した届書の写が手に入って、是は亊に成るわいと思って心構へ して居ると昨日より今日の事になったのであると云はれました亊でありました、(明治26年3月23日 吉川竹次郎速記)