明治維新 幕末推移

西觶らが密かに進めていた薩長芸三藩の挙兵計画は薩摩の体制派により頓挫された。この事態に立ちいたった西郷らが打った手は倒幕の密勅の発給だが、慶喜大政奉還によって、不発に終わる。少数派の西觶らが次に打って出たのが、天皇の外祖父中山忠能を動かした勅命による12月9日の王政復古のクーデターある。クーデターが成功するためには、「玉」を手に入れることが必要であった。しかし、慶喜の反撃により、新政府の方針を後退させ、大政奉還派の勝利でおわる。大政奉還派や革命内部からも倒幕反対の慎重派によって討幕派の西觶らは窮地に陥る。やがて、天下の公儀によって、「前大臣」の慶喜が、日本の政治を主導することになる。西觶と大久保は、岩倉に「戦いをいどみ、死中に活をうけるのが、いま、もっともだいじなことである」と述べている。大久利通も「このままでは、すべてのことがくずれ、大変革もことごとく水の泡となってしまう」と、このまま進むと、天下の広義によって、倒幕推進派の西觶と大久保らは新政府から排除される窮地に陥ることになる。
それを救ったのが、西觶が11月半ば頃に江戸に送りこんでいた益満休之助と伊牟田尚平のふたりによる江戸城破壊工作です。事実、これらの事件は11月下旬から12月中旬にかけて実行されている。市来四郎によれば三田屋敷の留守居役、添役、監察など責任者は俗吏の者を除いて有志の者を嵌め込んでであり、浪士隊が充分活動できるようできるだけ力を尽くしたと述べている。1月4日直亮等、西郷吉之助に面し、関東の顛末を報告する。西郷氏は喜んでいわく、「予、12月30日に江戸藩邸の事件を聞き、予は昨3日の戦争は、いつか起こるかと推考していたが、この如く速やになるとは思っていなかった。然るにこの戦争を早め、徳川氏滅亡の端を開いたのは、実に貴兄等の力なり感謝に堪えず」と言った。

徳川氏は馬上にて天下を取ったのであるから、馬上にこれを復してこそ初めて数百年来の覇業を成すことが出来たのである。西觶らは、日本人の尊皇の心を利用して徳川を倒して天下を握った。だから、日本国内では、内乱が10年間も続くのであった。以後国内の矛盾をそらすために海外派兵をしながら、国を纏めて行くのである。無用な戦争を行いながら、明治・大正・昭和の敗戦まで続くのである。