小松帯刀

小松帯刀は、大政奉還の考えが将軍徳川慶喜によって表明されるとただちに賛同し、その早急な朝廷への奏聞を求めた。

小松帯刀は慶応3年10月16日、西觶、大久保らと帰国する前日の15日、薩摩藩と縁家関係にあった近衛家当主の忠房を訪問し、

「差寄暴発之手談を失ひ候姿二相成、西郷大久保ハ勿論、邸内之抑揚甚困窮之勢ニ成」ったことを受けて、次のように語ったという。

此節大樹公政権を朝廷ニ被帰候儀は非常之御英断ニ而、実ニ皇国挽回之機会ニ候へハ、聊も御手障二相成候様の義有之候而ハ決而不相成、然処西郷吉之助大久保市蔵は兼々暴激之議論主張いたし候者共ニ付、京師江残置候而ハ如何之所業仕候哉も難計、甚懸念仕候付、此節帯刀一同帰国申付候、(下略)「改正肥後藩国事史料巻七 570~571頁」

「差寄暴発之手談を失ひ候姿二相成」とは、大久保、西觶らの大政奉還によって、慶喜に将軍職の辞任を求め、それが実行されないのを見届けて挙兵する武力倒幕派の計画は失敗したことをいう。つまり、西觶らは、「暴発之手談」を探していたということです。ところが、大政奉還を受けて、小松は後藤象二郎らと今後の新体制つくりにむけて協力を約束します。この時点で小松と西觶、大久保らは、その方向性を異にして、小松は、穏やかな形での新国家の樹立を強く望み、慶喜からの周旋工作を頼まれると後藤とともに積極的に行動する。つまり「西郷吉之助大久保市蔵は兼々暴激之議論主張いたし候者」と、穏やかな形での新国家の樹立を望むものらと、在京薩摩藩首脳の間では、大政奉還の評価に大いなる齟齬が生まれたのである。