アーネスト・サトウ著 坂田精一訳 「一外交官の見た明治維新」 

将軍政治の没落 大政奉還から王政復古クーデター
1867年11月16日(慶応3年10月14日)将軍慶喜大政奉還をしたと外国奉行石川河内守がパークスに告げた。すでに老中小笠原から今後政治は合議制になり天皇の裁可を受けることになると言われていた。勝海舟が内乱を心配していた通り、大阪には薩摩兵5000人と長州兵が駐屯しており、幕府軍と一触即発の状態で京都での動乱は不可避の情勢にあった。いよいよ古い制度が終末を迎えたという感じであった。慶喜は列藩会議を招集し自分が盟主になることを企んでいたが、すでに薩摩、土佐、宇和島、芸州には連合が成立し薩摩と土佐兵5000人と長州兵1500人が、京都の幕軍1万人と対峙していた。坂本竜馬中岡慎太郎が革命を前に京都見回り組によって暗殺されたのもこの時であった。翌1968年1月4日条約国の各公使が日本の政治情勢分析のために意見を交換した。ところが各国の公使は意外と日本国内事情に精通していなかった。すでに京都を掌握しているのは会津ではなく、薩摩、芸州、土佐兵が御所を守護している状況であった。1月3日(慶応3年12月9日)薩摩は将軍職の廃止、新政府の総裁、議定、参与の3職を提案した(王政復古)。薩摩と将軍の間を斡旋しているのは土佐藩であった。新政府の人事が発表された。総裁:有栖川宮、議定:山階宮、正親町(三条)、岩倉具視尾張侯、越前侯、芸州侯、薩摩侯、土佐侯、参与:大原重徳、大久保、西郷などの人物であった。そして将軍慶喜については滅亡の運命が用意されていたのである。慶喜処分の内容が勝海舟の最大の懸案事項で、恭順の妥協の規範をなしたことは、江藤淳著 「海舟余波」にも詳しく記されている。この中で江戸に騒乱が発生した。1月17日慶応3年(慶応3年12月23日)夜将軍家定の夫人となっていた薩摩出身の天璋院の奪回を狙って薩摩人が江戸城二の丸に放火した。そこで幕府は三田の薩摩邸を焼き払う騒動が勃発した。この状況で外国公使らは天皇政府証人問題を議論したが、公使側から動けない、まだ天皇から何の通知も受け取っていないのである。もし京都政府が国政の指揮を取るなら、引継ぎを幕府に通告して各国公使を京都に招集しなければならない。という静観論である。