武力討幕派

西郷隆盛大久保利通、そして木戸孝允広沢真臣、および岩倉具視、これらの人々は武力討幕の推進者であったわけだから、武力討幕派と呼ぶ。武力討幕論そのものは、尊王攘夷運動の激昂のなかに、真木保臣平野国臣吉村寅太郎や、そのような志士の言辞に聞くことができる。けれども、これらの志士は、尊王攘夷派とよばれることはあっても、武力討幕派ではない。 尊王攘夷派の志士の討幕論は、いわば名分論に所由している。たとえば将軍は、征夷大将軍である、征夷であるからには、名目のとおり夷を征すためには、攘夷を実践しなければならぬ、という発想である。幕府に政権であろうとも、あくまでも朝廷の下位にある。将軍は、天皇の臣下ということになる。君臣上下の名分である。 尊王の名分論にしたがえば、将軍が天皇の命を遵奉しつづければ、それでことは済む。天皇の命を遵奉しない場合、さらに違背した場合には、名分を正す必要が生ずる、幕府を責める行為がはじまる。これが昂じて討幕論に到達するということになる。名分を正すことに主眼がおかれるわけだから、そして討つべき対象は、幕府首脳部の個々にとどまることが多い。老中・大老さらには将軍を討伐の対象におくことはあっても、幕府組織の全体をその俎上に登せることは少ない。討つべき対象を幕府においた場合でも、徳川とその家臣団を討伐するというにとどまって、今の統治体制そのものを否定する構想力に乏しい。武力討幕派とよばれた人々は、そうではない。徳川というだけではなく、今の全国統治の体制そのものを否定している。戊辰戦争のもとでは、武力討幕派は大量に発生した。鳥羽・伏見の戦いで徳川軍が敗北し、徳川慶喜追討令が布達されて以来、戦局の推移にしたがって大量に発生した。徳川慶喜を追討する行為は、旧体制を解体にみちびく作業をともなうという意味では、まぎれもなく倒幕である。けれども、慶喜追討に同調したものを、討幕派ないし倒幕派とは呼ばない。慶喜追討への同調は、所詮、そのように動きつつある情況への追随でしかないからである。このように、武力討幕を主張した者のすべてを、武力討幕派と呼ぶことはできない。武力討幕派とは、慶応三年の夏から翌年の冬にかけて存在した。小松帯刀西郷隆盛大久保利通広沢真臣岩倉具視である。福田俠平・品川弥二郎は、広沢とともに請書に署名した者だけれども、長州藩内での地位からして、木戸孝允をその中核に加えることができる。中山忠能正親町三条実愛・中御門経之の三名の廷臣は、いわば随伴者の位置にある。討幕の方針を決定して薩長両藩が出兵を開始した十一月下旬以降、武力討幕の戦略を練り、これの推進を指導したのは、西郷・大久保そして岩倉の三名であった。小松は足痛により、体調が不調で薩摩藩に残って藩内業務を担当した。木戸と広沢は長州藩を指導して、後方作戦にあたった。後方作戦も、武力討幕の戦略の重要な部分をなしている。土佐藩には乾退助とその同志があって、薩長両藩に合流する機会をうかがっていた。安芸藩には植田乙次郎たちがいて、薩長両藩への同調を表明していた。武力討幕派の中心をなす人々は、土佐藩ならびに安芸藩の討幕派に、支援勢力としての役割に期待していたことはたしかである。けれども、武力討幕の主たる推進者であることは期待せず、戦略決定に参加させることもなかった。 西郷・大久保・岩倉は、同盟者として土佐藩を選択した。同盟の一員であった安芸藩の討幕派よりも、むしろ土佐藩の代表者としての後藤象二郎を選択した。後藤は、大政奉還派ないし公議政体派の有力な一員である。西郷・大久保と後藤とは、慶応三年六月いらい、協調から反目そして妥協というふうに、その内容をかえながらも関係を保ちつづけていて、決定的な対立にはいたらなかった。大政奉還派は、その政権構想を公議政体においた。だから、公議政体派ともよばれる。大政奉還があった後には、大政奉還派は存在しないわけだから、公議政体派とよばれるわけである。武力討幕派は、独自の政権構想をもっておらず、これを公議政体に求めざるをえなかった。大政奉還ののち、創設さるべき政治統合の形態が公議政体であること自体は、いわば共通の了解であった。従来の体制の維持をはかって大政の再委任を求める譜代諸侯と幕臣をのぞくならば、徳川慶喜と幕府首脳部も、土佐藩も有志も、そして武力討幕派の中核部分も、いずれもそうであった。すべてが公議政体派ということになる。もしも、政権構想を同じくすることで妥協が成立するのであれば、公議政体派の大連合が誕生していたはずである。公議政体論はすでに共通の了解である。ここに、誰が公議政体を創設するかが、にわかな争点として登場してくるからである。これの創設を指導した者は、誕生した公議政体のうちで優位を占める。公議政体の具体的な形態も、創設を指導した者によって定められる。とりわけ人事構成である。全く同じ形態の公議政体であろうとも、人事構成の如何によって、その性格は変化する。人事構成は、そのまま新たな権力の性格をさし示すからである。この人事構成も、公議政体の創設を指導した者によって選定される可能性がたかい。公議政体を創設する行為は、そのまま、権力把握をめぐる闘争としての色彩をおびてくるわけで公議政体を創設にみちびいた者は、武力討幕派であった。王政復古の政変によって誕生した新政権は、少なくともその形態に関する限り、公議政体である。公議政体について、これを創設にみちびいた者は武力討幕派であった。徳川慶喜はこれを創設することができなかった。後藤象二郎あるいは公議政体派も、創設することができなかった。武力討幕派の中核をなす人々だけが、公議政体の創設をなしえた。西郷・大久保または木戸・広沢および岩倉をして、武力討幕を構想させ、これを推進させ、武力討幕を主張しこれを実践した。