王政復古

王政復古の政変の時に、軍事発動があった。御所の内外を遮断するためである。くわえて武力討幕派は、軍事発動それ自体に意味をおいていた。岩下方平・西郷隆盛大久保利通の三名が岩倉具視に宛てた意見書のなかで、次のように述べるようにである。

これよりさき、中山忠能正親町三条実愛の両卿は、朝議がなお徳川氏に依る形跡のあるのを不満として、大いに異議を唱えた。その時、岩倉具視朝臣はこのことを聞き、ひそかに薩摩藩西郷隆盛大久保利通、岩下万平等にその意見を問うた。
よって、三人は左の書を呈した。

「今般、御英断をもって王政復古の御基礎を立てさせられたく御発令については、必らず一混乱を生じ候やも計りがたく存じ奉り候えども、二百余念太平の旧習に汚染仕り候人心に御座候えば、一度干戈を動かし候方が、かえって天下の耳目を一新し、中原を定められ候御盛挙と相成るべく候えば、戦を決し候て、死中に活を得候の御着眼、もっとも急務と存じ奉り候。
しかしながら、戦は好んでなすべからざることは、大条理に於て動かすべからざるものに御座あるべく候。しかるに、無事にして朝廷、上の御威力を貫徹し、太政官代三職【注二】の公論をもって太政を議せられ候日に至り候ては、戦よりもなお難しとすべし。古より創業、守成の難易、論定しがたく、俊傑の士においても、後世識者の評を免かれ申さず候。いわんや、衰頽の今日に於てをや。詳考、深慮、御発令の一令を御誤り相成らず候儀、第一の事に存ぜられ候。
ついては、徳川家御処置振りの一重事、大略の御内定を伺い奉り候ところ、尾、越をして直ちに反正、謝罪の道を立てさせ候よう御諭しをもって、周旋命ぜられ候儀、更に至当、寛大の御趣意と感服奉り候。
全体、皇国、今日の危に至り候こと、大罪は、幕に帰するは論をまたずして明らかなる次第にて、すでに先に、十三日云々御確断の秘物【注三】の御一条まで及ばせらるべく候御事に御座候。この末の論相起り候とも、諸侯に列し、官一等を降し【注四】、領地を返上し、闕下に罪を謝し奉り候場合に至らず候わでは、公論に相背き、天下の人心もとより承伏仕るべき道理御座なく候間、右の御内議は、断乎として寸分も御動揺あらせられず、尾、越の周旋、もし行なわれず候節は、朝廷寛大の御趣意を奉ぜず、公論に反し、真の反正たらざるもの顕然に候えば、早々朝命、断然右の通り御沙汰相成るべき儀と存じ奉り候。
右御議定より下りての御処置振りは、公論、条理の上に於て、さらに御座あるまじく、もし寛大の名をつけさせられ、御処置その当を失われ候えば、御初政に条理公論を破り相成り候筋にて、朝権相振るわざるは論ずるまでもこれなく、必らず昔日の大患を生じ候儀相違御座なく候。
右御議定より下りての御処置振りは、公論、条理の上に於て、さらに御座あるまじく、もし寛大の名をつけさせられ、御処置その当を失われ候えば、御初政に条理公論を破り相成り候筋にて、朝権相振るわざるは論ずるまでもこれなく、必らず昔日の大患を生じ候儀相違御座なく候。もし御趣意通り、真の反正をもって御実行挙り、 謝罪の道相立ち候上は、御顧慮なく御採用相成るべきはもちろんに御座候。
前条御尋問に預り、当〔島津〕修理大夫の趣意を奉じ、評議の形行申し上げ奉り候。一点の私 心をもって大事を論ずべからざるは、兼ねて言上し奉り候通りに候間、よろしく御熟考云々。三十二 徳川慶喜卿、時事について上奏 (京都守護職始末2 P268〜269)