徳川慶喜公伝

旧幕府軍を朝敵にできなかった薩長
三日坂兵北進の報急なるに及び、薩長二藩は更に兵を増遣し、開戦の決を岩倉前中将に迫れり。曰く「去年九日以来、断然叡慮を以て徳川家の処置・并に会桑の進退等御達あるべきに、其事行はれず、遂に尾越二藩の周旋となりしは、失計の第一なり。辞官・納地の二件に関し、尾越土三藩の異論を制する能はざりしは、失計の第二なり。廟謨既に二大事を誤りしさへあるに、今又徳川家に上京を命じ、参朝はいふまでもなく、議定職をも命ぜられんとす、これ更に代三の失計を重ぬるものなり。此形勢を挽回するの道は、唯勤王無二の藩をして、決然として干戈を動かさしむるにあるのみ、宜しく開戦の策を決し給ふべし。又徳川家が外国に諭示せる書中に、君家の事を挙げて悪事とし、己の罪を措いて他を兇暴と称せるは、捨置くべからざる大事なり。宜しく朝議に附して其罪を匡さるべし」と。前中将三条前中納言と議して戦を許さず、暫く後命を待たしむ(大久保利通日記。戊辰日記。岩倉公実記)。
(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫p183より抜粋)

岩倉前中将は開戦の請を押へて之を許さゞれば、一蔵・吉之助等憤慨し、死を期して迫るに及びて、前中将の意始めて決す。乃ち四条侍従を伏見に遣りて、暫く公の入京を止めしめ(其行を果さず)、又尾張中納言・松平大蔵大輔に命じ、坂兵に、「退去せざるに於ては、朝敵を以て御処置あらせらるべし」と伝えしむ(遂に伝宣の機会を得ざりき)。且薩長土の三藩に、伏見の守を厳にして、臨機の処分を為さしめ、再び芸藩に命じて兵を伏見に出さしめ(此に至り芸藩始めて兵を出す)、彦根・大洲・平戸・大村・佐土原の五藩には、兵を大津に出して変に備へしむ、これ大津口にも坂兵押寄する由風説せるを以てなり(輦下日載。大久保利通日記。戊辰日記。広島藩事蹟要録。三世紀事略。神山左多衞在京日記。大村純熈家記。井伊直憲家記。)又「江戸に於て酒井左衛門尉の兵が松平修理大夫の屋敷を砲撃せるは、全く私鬭なれば、追て取糺の上、きつと御沙汰あるべければ、孰れも方向に惑はずして鎮静すべし、万一暴挙する者あらば朝敵たるべし」と触れらる(戊辰日記)。此に於て朝敵を以て徳川家を待つの廷議全く定まり、大勢始めて決す、大久保一蔵の建策其図に当れるものにて、実に正月三日の事なり(大久保利通日記。)。
(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫p184より抜粋)

此日朝廷は普く宮・堂上・地下人に諭告し、万一干戈を動かすに至らば、天皇叡山に遷幸あらせられるべきを以て、其期に臨み狼狽することなからしむ(非蔵人日記)。是より先に、岩倉前中将は西郷吉之助・大久保一蔵・広沢兵助と議して曰く、「鳥羽・伏見の兵若し敗れば、主上は准后御方(九条氏)及桂宮(淑子内親王)と共に、三条・中山の二卿を従へ、密に内裏を出て、薩長二藩の兵之を護衛し、山陰道より芸備の間に幸し給ひ、形勝の地を選びて蹕を行宮に駐め、討賊の詔を四方に下し、二藩の兵を増発して、西南の諸藩を徇へしめん。余は総裁宮(有栖川宮熾仁親王)を奉じて京都に留まり、防戦力屈するに至り、始めて尾越二藩の兵をして鳳輦を擁護せしめ、公卿・群僚・之に扈従して、陽に叡山遷幸の状を為さば、賊軍必ず衆を悉して来り攻めん、我軍険に拠りて防戦し、以て京都を争ふものゝ如くし、其間に仁和寺宮(嘉彰親王、後に小松宮彰仁親王知恩院宮(尊秀親王、後に華頂宮博経親王)を東北諸国に下向せしめ、令旨を頒ち、勤王の兵を招集して、江戸城を衝かしめん。果たして然らば、賊軍進んで取る所なく、退きて守る所を失ひ、元凶首を授け、皇業の興復立ちて待つべし」と、衆皆之を可とせり(岩倉公実記)。叡山行幸の諭告は蓋し此策に基けるなり。
(『徳川慶喜公伝4』渋沢栄一著・東洋文庫p185〜186より抜粋)

 一方、朝廷そして岩倉具視もまた苦しい立場に置かれました。『近世日本国民史 第六十七冊(徳富猪一郎著・明治書院発行)p18〜21』によると、尊攘激派の公卿鳥丸光徳が大事を誤った罪が岩倉にあると責めている様子が書かれています。一方、公家達も鳥羽伏見の砲声を聞くや「これは薩長会津桑名の私闘だ」と断じて、朝廷は無関係だという日和見が始まりました。これが鳥羽伏見開戦第一日目の朝廷の様子です。このように日和見に走った朝廷ですが、旧幕府軍の敗報が入ると態度を一変させます。西郷や大久保と言った武力討幕派への面会が激増し、一気に朝廷内の流れは武力討幕一色へと染まっていきました。この段階で、非戦論を唱えた岩倉や福井土佐両藩の声は掻き消されてしまいます。非戦も何も戦いが始まってしまったのだからどうしようもありません。岩倉具視などは旧幕府軍の暴発によって面目は丸潰れになってしまっていました。徳川家に向けた温情は激しい怒りとなり、一切の迷いは消えて薩長以上の武力討幕派へと変貌します。



幕府は尾州、越前へ被仰付、尚此上侯列に下り、罪を奉待候段、申上候處、周旋の筈に御座候。右之通幕は筋立候へば、議定邊には被召出候半。会桑は幕府へ御任せ相成、幕府より帰国可為致との事。蛤御門は被免。跡は土州へ被仰付候。長州も粟生光明寺迄千余人出張、父子(毛利敬親、廣封)之處も、官位復舊、入洛も被免候。右大変革に付ては、禁門西へ人数繰込、護警衛可仕旨、五藩へ被仰付、六門内外五藩人数繰込、大騒ぎ、面白き事に御座候。先今日は、戦には相成不、幕、会の處も、至而静に控居候付ては、云々之義、誰ぞ東下可致候間、其内今形御鎮静被下候様、御一同へ宜御伝言可被下候。先づは右御報知為可申上早々如此に御座候。以上。
 十二月十日(慶応三年)
                            吉井幸輔
益満休之助様
薗田正兵衛様

『近世日本国民史 第66冊(徳富猪一郎著・明治書院発行)』130頁